幽霊と修業/3

 生き方は尊敬する。だからこそ、颯茄には迷いが生まれる。


「ですが……すぐには答えられないので、待ってくれますか?」

「構わん」


 待つことなど、苦痛でも何でもない、夕霧にしてみれば。颯茄は視線を外して、服のポケットを探そうとしたが、


「それじゃ、あとで連絡するので、携帯、携帯……!」


 思い出した。幽体離脱する前の、あの台所のシンクの前に、今も倒れているだろう自分の肉体のそばに落ちている携帯電話を。


「ああ、そうか。ないんだ」


 記録するものがない。いつ戻るのかは知らない。だが、今は返事は返せない。運命の赤い糸は切れる寸前の繊維の細い伸びを迎えそうだった。


「この病院で働いている」


 いきなり、閉鎖病棟へと続くドアの前に連れてこられた。外来ではない。ありがたいことに健康で過ごしてきた、颯茄には入院病棟には縁がなかった。


「名前は何ですか?」

「セントアスタル病院だ」


 この国で知らない人はいないほど、有名な名前だった。


「あの国で一番大きい私立病院ですね?」

「そうだ」


 都会の大病院。医師の数などたくさんいるだろう。今のままでは、受付で門前払いである。


「あぁ、名前聞いてま――!」


 極めて重要なことに気づいて、颯茄は慌てて口をつぐんだ。深呼吸をして、


「私は、月雪 颯茄です。あなたは?」

「羽柴 夕霧だ」


 固有名詞を覚えるのが苦手な颯茄は一生懸命、頭に叩き込んだ。


「そうですか」

「待っている」


 時間切れというように、乾いていない絵の具でも誤って手で擦ってしまったように、颯茄の姿がゆらゆらと横へと揺れ始めた。


「ああ……はい……」


 彼女の戸惑い気味の声が残像のように聞こえると、夕霧は閉鎖病棟の廊下の途中に横たわっていた。肉体へと魂は無事戻り、袴ではなく、紺のスーツの体で立ち上がる。


 そうして、黒のビジネスシューズが銀の自動ドアへと歩き出し、閉鎖病棟から出ていった。


    *


 颯茄はテーブルの上に乗っていた携帯の画面をかたむけた。


 二月二十一日、金曜日。十九時三十七分。


 チェーン店の居酒屋。金曜日の夜。にぎわいは一入ひとしおだ。ガヤガヤと話し声が外から聞こえてきて、食器のぶつかる音がする。


 いつも三点盛りなのに、なぜか五点盛りの刺身。いつもカウンター席なのに、なぜか奥の座敷。


 座布団二枚の上にゆったりと座っている颯茄は、飲みかけのビールジョッキに手をかけてぼんやりする。


 あれから、三ヶ月以上時間が経過しても、深緑の短髪で、無感情、無動のはしばみ色の瞳を持つ男の、地鳴りのように低い声は、さっきのことのように鮮明に浮かび上がる。


 ――待っている。


 やまびこみたいにこだまして、未だ迷路という通路で鳴り渡る。


 焦点の合わない、どこかずれているクルミ色の瞳の前でテーブルを挟んで、赤茶のふわふわウェーブの髪の、知礼がフライドポテトにマヨネーズを塗っていた。


「先輩、それで病院には行ったんですか?」


 ぼんやりしていた視界がはっきりとすると、海鮮サラダが目に入った。


「ううん。行ってないよ」

「どうして行かないんですか?」


 いつも頼まない、サラダに漬物盛り合わせに、ホッケまで乗っているテーブルを前にして、颯茄は今日までの失敗の日々を振り返る。


「修業をするだよね? 三日坊主どころか、一日坊主という繰り返しの人生を送ってる私には……っていうか、足を引っ張ると思うんだよね?」


 持続性がまったくない自分。何度もトライしてみたが、計画倒れという言葉が真っ青なほど、崩壊の序曲を奏でる毎日。


 知礼のとぼけた黄色い瞳は驚きで見開かれた。


「そこですか! 先輩の心配事は?」

「え……?」


 思ってもみなかった反応をされて、颯茄は反省も忘れて、女二人で飲み屋にきたのに、なぜかテーブルを挟んで座っている左斜め前の知礼をじっと見つめた。


 だが、それに応えることはなく、フライドポテトは口へと運ばれてゆく。


「相手の方の名前は何ていうんですか?」

「羽柴 夕霧さんだよ」


 覚えた。というか、あの日から何度も思い出して、忘れるはずがない。ビーズの指輪はおしぼりをつかみ口を拭く。


「それは行かなくて正解だったかもしれません」


 唐揚げに箸を伸ばそうとしていた、颯茄の手はふと止まった。


「どういうこと? さっきと言ってること逆になってるけど……」

「行っても会えないです」

「会えない……?」


 こいと言われたのに、あの病院で働いていると聞いたのに。何が起きているのかわからない颯茄は、ビールでのどの渇きを一度うるおした。


 可愛くデコされた携帯電話を持ち上げて、知礼がブラウザ画面を見せる。


「先輩、ネットで調べなかったんですね」

「え……?」


 会った人をネットで調べる。そんな習慣は颯茄にはない。だいたい載っていないだろう、本名で。


 だが、長年の付き合いがある後輩がわざわざ指摘するくらいだ。颯茄なりに理由を見つけてきた。


「確かにイケメンだったけど……」


 あれだけの端正な顔だ。どこかで写メを撮られて、ネットに流出しているかもしれなかった。

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