幽霊と修業/2

 どこにそんな恋愛要素があったのだ。B級映画並みな急展開である。颯茄はここに勝手に連れてこられただけで、たまたま一緒になったこの男と戦っただけで。


 白の袴の合わせの向こうにある、胸の内など知らない。だが、聞き間違えてはいないと思うのだ。しかし、あり得ないのだ。


 運命とは酷なもので、颯茄はそこで初めて気づいてしまった。


(あぁっ、すごいイケメンだったんだ! 知らなかった!)


 彼女はムンクの叫びみたいに口をぱかっと開けて、それだけでは足らず、両手で顔を覆い、倒れ損ねたボーリングのピンみたいにグラグラと、その場で揺れ出した。


(いや〜! うなずきたくなる〜〜!)


 ポロポロと頭のネジがいくつか病院の床に落ちて、正常な思考回路が崩壊を迎えそうな気がした。


(しかも、落ち着いてたよね? もろタイプだあ〜)


 戦闘中の詳細が今ごろ、やけに鮮明に浮かび上がる。だが、颯茄はフラフラしていたのをピタリと止めて、両手がはずされると、ニヤケ顔ではなく、真剣な眼差しであった。


「血の跡じゃないですよね?」

「その血痕ではない。夫婦になる結婚だ」


 プロポーズをした男。された女。ふたりの間で、押し問答みたいなボケとツッコミが繰り返される。


「――間に合ってます」


 プロポーズの答えとは到底思えないものが、夕霧に返ってきた。


「意味がわからん。何が間に合っている?」


 まっすぐツッコミを受けて、颯茄はスカートを落ち着きなく触る。


「それはまあ、笑いなんですが……」


 真剣に話しているのは十分わかった。それならば、自分も真摯に対応しなくては。颯茄は服を元へ戻して、三十八センチも背の高い男の瞳を見つめ返した。


「確かにふたりで力を合わせた方が、眠り病は減ってくんだと思います。ですが、結婚しなくてもそれは――」


 そんなプロポーズは向こう見ずであり、無謀だ、夢見物語だ。夕霧の地鳴りのような低い声が言葉途中で珍しくさえぎった。


「俺が結婚したい理由はそこではない」


 ホルター心電図の緑が、まるで蛍火のようにふたりを儚げに包み込む。


「どこですか?」

「合気に必要だからだ」


 人の数だけ、価値観はある。この男にとっての大切なものは、颯茄の中にはないものだった。


「合気って何ですか?」

「武術のひとつだ」

「どんなものですか?」


 夕霧が動かなくても、技がかかってしまう原因が告げられた。


「護身術だ。相手の懐近くへ入らないと技はかけられないものだ」


 どうやったのか細かいことは知らない。だが、素晴らしい技だった。颯茄はそれらを思い返しながら、何気なく言葉を口にした。


「ああ、だから、人を愛することが必要不可欠なんですね?」


 道場へ行くたび口癖のように、結婚しないのかと問いかけてきた、あの年老いた声。夕霧は本当の意味を今やっと理解した。


「師匠はそれを教えたかったのかもしれん」

「師匠?」


 ここにいない人の名前が、程よい厚みのある唇から出てきて、颯茄は不思議そうな顔をした。だが、夕霧のはしばみ色の瞳は喜びに揺れる。


「お前のお陰で答えが出た」


 よくはわからないが、颯茄は微笑んだ。


「ああ、答えが見つかってよかったです」

「お前は人のこと優先だ」


 そんなことを言われると思って見なくて、颯茄はすっと真顔に戻った。


「どうしてですか?」

「普通役に立ててよかったと答える。お前の今の言葉は俺のことしか考えていない証拠だ」


 いつも人のことばかりで、自分のことはあと回し。いつもまわりから言われるのだ。さっき会ったばかりの男にも同じことを言われて、颯茄の言葉は失速した。


「ああ、そう……ですね」


 身を任せたら、どんなに楽なのだろう――


 十年前からたった一人で生きてきて、あの狭い1K六畳にはない、安心感が袴姿の男にはある。


 番狂わせで、出会うはずのなかった出来事を前にして、クルミ色の瞳は涙で視界が歪む。


 しばらく待っても言葉は返ってこず、静寂ばかりが広がっていたが、


「返事を聞きたい」


 絶対不動で、和装の色気漂う男。合気の中で生きている男。颯茄は目を少しこすって、はしばみ色の瞳をまっすぐ見上げた。


「素敵な理由だと思います。武術のために結婚をする。あなたしか持ってないかもしれない、世界でたったひとつの宝物みたいな理由だと思います」

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