怨霊の魔窟/1

 ふたりがいる部屋の外――廊下を白い何かがすうっと横切っていった。あれは歩いている速度ではない。


 パチ、パチ、パチ……。


 ラップ音が合図というように、主役ふたり――いや餌食ふたつがそろい、死へのうたげがとうとう始まった。あたりの気温がひどく下がったような気がした。


「朝まで生き残るしか方法がない――」


 袴姿の男に言われて、颯茄は自分が風呂から出てきた時刻を思い浮かべる。まだ午前零時を過ぎたばかりだ。気が遠くなるような時間の幕開け。


 自分たちを取り囲むように、ぐるぐると回旋かいせんしながら悪霊たちが押し寄せてくるのが、手に取るようにわかる。我先に、自身のエネルギーとなる相手の魂をらいに。


 夕霧の精巧な脳裏に敵の数がカウントされてゆく。


 ――霊体、三十六。邪気、七十。


 すでに、百近くにも登ってしまった。


 幽体離脱をして、同じ次元になった颯茄たちには、幽霊は透き通った白い存在ではなく、きちんと色を持っていた。


 肉体は嘘をつくことができる。だが、心がむき出しとなる霊体。なんのごまかしもなく、今すぐにでも襲ってくる殺気が立ち昇る。


「俺の後ろに下がっていろ」


 知らない男の背中にかばわれたが、颯茄は腕をかき分けるようにして、前に出ようとした。


「自分のことは自分で守ります!」

「戦えるのか?」


 無感情、無動の瞳でまっすぐ見下ろされたが、颯茄は首を横にプルプルと振った。


「戦ったことはないです。ですが、大丈夫な気がする――」

「命がかかっている時に、感情で判断するな」


 ずいぶんと無責任な発言に、重く踏み潰すような低い声が静かに告げた。颯茄は珍しく真剣な顔で恐れもせず見返して、しっかりと意見する。


「確かに、あなたの言う通りだと思います。ですが、私をかばって、あなたまで死んでしまっては意味がありません」


 守られるだけの存在になどなりたくないのだ。理不尽に誰かに連れてこられたとしても、人には迷惑をかけたくないのだ。それが、颯茄の誰にも譲れない信念だ。


 しかし、現実は厳しく、こうしている間にも、敵の数は無情にもどんどん増えてゆく。


 ――霊体、五十七。邪気、九十二。


「では、どうする?」


 ミイラみたいな人たちに囲まれた病室で、女優志望のフリーターは険しい顔で、ない頭を絞る。


「んん〜〜?」


 人差し指を立てて、くるくるっと円を描いていたが、体のあちこちを急に触り出した。


「魔法……ぶ――あれっ!?」


 そこで、極めて重大な出来事に出くわして、大声を上げた。病室に不釣合いな白と紺の袴が冷たい風に少しだけ揺れる。


「どうした?」

「服が変わってる! どういうこと? パジャマだったのに……」


 今ごろ、こんなことに気づいた颯茄だった。スーツが袴姿に変わった夕霧は、今までの戦いで心得ていた。


「霊体は自身に由縁ゆえんのある服装になる傾向が高い」


 武術をしている夕霧は、袴姿になるのは納得がいく。しかし、颯茄は白のワンピースと編み込んだみたいな茶色のサンダルをまじまじと見下ろして、首をかしげた。


「え……? これはどういうコンセプト?」


 見当違いなところで引っかかってしまった彼女は落ち着きなく、体をねじったりしながら眺め始めた。


 地にしっかり足がついている、いや大地と言っても過言ではない絶対不動の夕霧は、地鳴りのように低い声でまっすぐツッコミ。


「話がそれている」


 ――霊体、七十三。邪気、百五。


 はっとして、颯茄は素早く戦う方法を再び模索し始めた。


「あっ! そうでした。魔法……ぶ――あっっ!!!!」


 雷に打たれたように、天啓が下った。手のひらを、夕霧の顔に近づける。


「ちょっと待ってください」

「俺は待つが、向こうは待たん」


 もっともな意見で、戦闘開始前である。颯茄は自分たちを取り囲んでいる敵を見渡して、大声を張り上げた。


「みなさん、ちょっと待っててください!」

「え……?」


 悪霊たち全員が毒気を抜かれたように、唖然とした。そんなことは眼中になく、颯茄はマイワールドに入り、うんうんと大きく何度もうなずく。


「このためだったんだ。きっと」


 腕組みをして、足でパタパタと病院の床を叩く。


「何だろう? ってずっと思ってきたけど……」


 右に左に首を向ける。


「神父さまに相談した時、神の御心って言われたけど、やっぱりそうだったんだ」

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