死の帳降りて/6

 颯茄は極力短く切られた深緑色の髪を触ろうとしたが、ふと手を止めた。


「でも、命は人の領域じゃないから、神さまっ!」


 十字を切って、胸の前で両手を組んで祈った。


「どうか、この人が元に戻るすべをお教えください」


 脳裏でピカンと電球がついた気がした。


「あっ! きた」


 パッと床から両膝を離して、立ちがる。


「よし! こうだ!」


 息を吐き切って、大きく吸い込み吐き出すと同時に、いきなりのフォルティッシモ、聖なる高い声で歌い出した。


「Kyrie eleison〜〜〜♪(キリエ エレイソン/主よ 憐れみ給え)」


 単語ふたつだけで、一分近くも伸ばし続けた歌声の荘厳であり神聖さが、不浄な病室からすうっと姿を消すと、バラバラだった体はいつの間にかつながっており、小さなつまるような吐息がもれた。


「っ……」

「あ、ミサ曲、ロ短調で生き返った」


 颯茄の願いは無事神に届いたのである。


「気がつきましたか?」


 人がそばにいるなど、気を失っている間のことで、男が知るよしもなく、颯茄のどこかずれているクルミ色の瞳を、無感情、無動のはしばみ色の瞳で見つめ返してきた。


「誰だ?」


 地鳴りのような低い声で聞かれて、成仏しようとしている颯茄は迷わずこう言った。


「通りすがりの者です」


 混濁している意識の中でも、答えがおかしいのは何となくわかるもので、


「?」


 男の服装は白と紺の袴姿だったが、羽柴 夕霧その人だった。名前を聞くことよりも、颯茄は気になることがあって、少し戸惑い気味に、


「あの?」

「何だ?」


 一ミリのぶれなくすっと立ち上がると、夕霧の背丈は、颯茄よりも三十八センチも高かった。あごのシャープなラインを見上げる形で、


「成仏したいんですけど、道はどっちですか?――」


 夕霧は刀で藁人形でも切るようにばっさりと切り捨てた。


「知らん。俺に聞くな」

「あれ? 死んだんですよね?」

「俺は幽体離脱ゆうたいりだつしただけだ」


 肉体から魂が抜け出る現象。さっきからどうも、どこかピッタリ合わなかった、死亡説が音を立てて崩れていった、


「あっ、私もだ! 死んでない!」


 後ろから押されたぐらいでは死なない。颯茄はやけにがっくりと肩を落とした。


「そうか〜。天国での人生設計――女優を目指すという計画を立て始めたけど、まだお迎えはきてなかった。フライングしちゃったなぁ〜」


 すっかり死ぬ気だった。生きているということで、帰らなくてはいけないのである。自分のアパートのキッチンへと。


「ここはどこですか?」

「眠り病の閉鎖病棟だ」


 嫌な予感というものは当たるものだ。颯茄は視界の端で、病室にいる死ぬだけの運命を生きている患者たちを捉えた。


「やっぱりそうなんですね」


 どうやってきたかわからないが、


「とにかく帰る方法を……」

「おそらく朝まで出られん」


 やけに落ち着いた声で、颯茄の浮つき気味の気持ちは地に足がしっかりとつき、慎重に聞き返した。


「え……? どうしてですか?」

「ここは全て結界が張ってある」


 邪気が人の魂を蝕むのだ。野放しにはできない。ここから外へ出さないための霊的な檻だ。


 しかし、それはいつものことで、今日は異常事態が起きていた。


「だが、さっき今までに会ったことのない、悪霊が入り込んでいた。何らかの原因で、結界の効果は無効にされ、向こうのテリトリーに変わっているかもしれん」


 破壊されたのだ。奪われたのだ。


 右の肘まで別世界にあるように思えた原因を、颯茄は今ごろ理解した。


「あれって……結界だったんだ。誘い込まれた……」


 悪霊の罠だったのだ。幽体離脱をさせられ、別の場所へと連れてこられ、今まで無事でいるのがおかしい。


 しかし、まさかこの閉鎖病棟で、こんなことが起きているとは、颯茄が知るはずもない。


 後悔先に立たずで、彼女は急な寒気に襲われた。


「閉じ込めれたってことですよね?」


 正常な魂の形を保っているのは、夕霧と颯茄のふたりだけ。ここにいる患者たちは頼みの綱にならない。手足が食いちぎられているのが、今ようやく見えた。


 まるでもうすでに、死のとばりが降りているように、


「おそらくそうだ」


 地鳴りのような低い声が響くと、嵐の前のような静けさが閉鎖病棟に広がった。

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