死臭の睡魔/6

 誰もが知らず、著名人が眠り病にかかっては大ニュースになるばかりだ。独健は涙も引っ込み、初めて夕霧の顔を見た。


「ん? 知ってるのか?」

「そうだ」


 無感情、無動のはしばみ色の瞳はすれ違いというように、真正面へ向けられた。はつらつとした若草色の瞳は、少しだけ怒りに染まる。


「どうして、学会で言わないんだ?」


 自分のことだからではなく。たくさんの人に関わること。それを放置するとは、正義感の強い独健は許せなかった。夕霧は膝の上に両肘を落とし、軽く手を組む。


「何度も論文は出したが、受け入れられん」

「何が原因で認めてもらえないんだ?」


 子供が親の手に連れられて、敷地内から出てゆく。微笑ましく平和な景色を、独健は目で追った。


「原因が非科学的だからだ。医学という科学をしている人間には、特に受け入れ難い」


 何を勘違いしているのか、エリートという地位や名誉にしがみつくやからまでいる。人の命を預かる職業であって、決して神ではないのに。


 不意に吹いてきた風で、独健のエプロンの裾がそよそよと揺れた。


「どういう理由なんだ?」

「――邪気じゃきだ」


 ひどく非現実的アンリアルだった、夕霧の地鳴りのような低い声で出てきた言葉は。若草色の瞳は不思議そうに、シャープなラインを描いている横顔に向けられた。


「邪気?」

「そうだ」


 その手のたぐいの話は信じていないわけではない。だが、自分は見たこともない。ガラス細工でも扱うように、独健はそうっと聞き返した。


「幽霊ってことか?」


 深緑の短髪は横へ振られ、


「それとは少し違う。悪霊が作り出す波動みたいなものだ」


 無感情、無動のはしばみ色の瞳はどこか別世界を見ているように、遠くに向けられたままだった。


 勘の鋭い独健は、目の前で落ち着き払って座っている男のもうひとつの素顔に迫った。


「それって、お前が倒してるってことか?」

「そうだ」


 今は紺のスーツにネクタイ。だが、艶やかな和装を見ることが多かった。それが本当は何のためだったのか、独健は気づいて、


「邪気を倒すために武術を習ってたのか? 確か、アイ? 何だったか?」


 感覚の独健の記憶力は崩壊気味だった。いつも通りの友人を隣にして、夕霧命は少しだけ目を細める――微笑む。


「合気だ」


 幽霊は浮遊してくる。それに効く武術。そう考えると、気の流れを使うものを選び取ることになる。だが、それだけではなく、夕霧は単に合気が好きなのである。


「それで倒すのか?」

「それも使うが、主力ではない」


 体が透き通っているものには効かない。


 武術など聞きはするが、何度説明されても再現できるものではなく、独健は記憶の底から引っ張り出してきた。あの細長い木の棒を上げては下ろすだけを淡々としている、夕霧の後ろ姿を。


「じゃあ、剣のほうか?」

「無住心剣流ではない」


 相手に実体がない。武器が効かない。雲をつかむような話で、独健はとうとう根を上げた。


「じゃあ、何で退治してるんだ?」

「これだ」


 夕霧がそう言うと、彼の手にさっきまでなかった、細長くあちこち突起物のついたものが姿を現した。出てきた物が物だけに、独健の鼻声は素っ頓狂に夜空へ跳ね上がる。


「けっ、拳銃っっ!?」

「FN/FNC アサルトライフルだ」


 ここでも非現実的な言葉が、男ふたりの間に降り積もった。しかも、銃マニアみたいにすんなり出てきた名前。


 独健はひまわり色の髪をかき上げて、あきれたため息をつく。


「落ち着いて答えるとこじゃない。いやそこじゃない、問題は。医者のお前が何で武器を持ってるんだ?」


 医者に拳銃など必要ない。無縁である。非現実的なことは重なるもので、夕霧命の程よい厚みのある唇から、こんな言葉がもれ出た。


「幼い頃に気づいたら、そばにあった」

「神様か何かの贈り物か?」


 独健は皮肉交じりに言ってやった。だが、夕霧は珍しくため息を晩秋の空気に残す。


「思いつかんかった……」

「相変わらずまっすぐだな」


 しんみりした気持ちは影を潜めて、独健は少しだけ笑った。紺のスーツの膝にまだ鎮座しているライフルを眺める。


「発砲するのか?」

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