第三十七話「再会」

スナック音無。

 

幼少の頃から、貞一は何度かそこを訪れていた。

その度に、あんな所に行くなと両親から怒られた事を覚えている。

 

記憶の中にある音無の風景と、そこは大差がない。

ただ違うのは、そこにいる貞一と裕子が、大人になっている事ぐらいか。

 

「………落ち着いた?」

「………うん、落ち着いた」

 

裕子から提供された一杯の水を飲み干し、貞一は笑ってみせる。

 

「………懐かしいなぁ、昔はこうやって、遊びに来てはジュースとか貰ったっけ」

 

こんな風に、昔話もしてみせる。

それが、裕子を心配させまいが為の演技である事は、裕子でなくとも解った。

 

「………貞一くん」

 

裕子は真剣なまなざしで、貞一に問いかけた。

そんな嘘など、丸分かりだというように。

 

「何があったの?」

「えっ?」

「倒れかかるなんて、普通はよほどの事が無いとできないよ?」

 

裕子のまなざしに、貞一は慌て、誤魔化すように目を反らす。

 

たしかに、裕子の言う通りだ。

普通に生きている人間は、そうそう倒れそうになる事はない。

彼女の言う「よほどの事」が無い限りは。

 

「………貞一くん」

 

裕子の目が、わずかながらに尖る。

それは心配と、怒りの目だ。

大変な事になっているのに、誰にも頼ろうともせず、一人で抱え込もうとする、貞一への憤りだ。

 

「………答えて、貞一くん、何があったの?」

 

ここまでされて、貞一も答えないという訳にはいかなくなった。

 

「………それは、ね」

 

とうとう、貞一も折れた。

悪戯をした子供が叱られ、何故やったかを話すように、貞一もぽつり、ぽつりと訳を話し出した。

 

 

………職場の事。

………家の事。

 

半場無理やりさせられた結婚で、家庭に自分の居場所すら無くなった事。

 

毎日、妻である早奈英から罵声を浴びせられ、暴力を振るわれる事。

 

時代錯誤の上司や先輩に、毎日ゲキを詰められている事。

 

自分を取り巻く全てが、自分を殺しにかかっている。

と、貞一は言った。

 

それでも、自殺する勇気と行動力すら持てず、屍のように日々を過ごしている。

 

極力傷つかないように自分を殺し、それでまた自分を傷つけの悪循環。

そのループの中で、貞一は生きていた。

否、生きているとは言いがたかった。

 

少なくとも、貞一は「人間」として生きているとは言いがたい状況にあった。

 

「………俺、何やってんだろうな」

 

自嘲するように、貞一は、ははっと笑ってみせる。

 

その表情はどこか弱気で、辛さも苦しさも隠しきれていない。

 

話した事により、貞一の中に今まで積み重なっていた事が甦ってきたからだ。

 

「仕事も上手くできなくて………結婚生活も上手くいかなくて………」

 

貞一の瞳から、ぽたりぽたりと涙がこぼれ落ちる。

 

まるで満水のダムから水が溢れようとするかのように、貞一の中にある負の感情が溢れんとしているのだ。

 

「………ほんと、ダメな男だなぁ、僕は」

 

弱々しく呟き、貞一はうずくまる。

彼の心は、とっくに限界だ。

 

きっと、裕子はこんな自分を見て失望しただろう。

仕事も上手くいかず、結婚生活もダメな、絵に書いたような駄目人間。

何より、女の見ている前でこんな姿を見せて。

 

「………もう、何なんだろうなぁ、俺は」

 

絵に書いたような自分の惨状に、貞一は押し潰されそうになっていた。

 

「………貞一くん」

 

その時であった。


「………えっ?」

 

突如、貞一を暖かい感覚が包み込んだ。

裕子だ。

 

裕子が、うずくまった貞一を、その上からぎゅうと抱き締めていた。

まるで、泣きじゃくる子供に、母親がそうするように。

 

「お、音無さん………!?」

 

いきなりの事に、戸惑う貞一。

当然だ。

自分に幻滅したであろうと思っていた者が、自分を抱き締めているのだから。

 

「………よしよし」

 

そんな貞一を、裕子は優しく撫でる。

 

「今まで、辛かったね、怖かったね………」

 

ずっと、貞一が待っていた言葉。

誰かに言って欲しかった言葉。

 

裕子が貞一に語りかけるのは、その言葉だ。

彼の受けた心の傷を、優しく癒すような言葉。

 

「あ………あ………」

「もう、我慢しなくていいの、今まで、十分苦しんだんだから」

 

裕子が一言言う度に、貞一の心の奥底からマグマのように感情が溢れてくる。

 

それは、貞一の「我慢しなくてはならない」という感情の蓋では押さえきれぬほどに、貞一の奥底から込み上げてくる。

 

そして。

 

「う………う………うわあああああああああ!!」

 

ついに、決壊した。

貞一は泣いた。

泣き叫んだ。

 

小さい頃から言われてきた、男らしくなければならないという価値観も、もはや意味を成さなかった。

 

今まで溜め込んできた悲しみ、苦しみ、怒り。

その全てが、貞一の心の奥底から溢れだし、涙となってこぼれ落ちる。

 

「あのね!あのね!皆ひどいんだよ!皆ぼくをいじめるの!」

「うんうん」

「ぼくはね!一生懸命やってるんだよ!ぼくなりに頑張ってるんだよ!それなのに………ッ!」

 

裕子の胸の中で、貞一は幼子に戻ったように泣きじゃくる。

今まで、誰にも甘える事が出来なかった。

その全てを晴らすかのように。


「よしよし、いい子、いい子」

 

そんな貞一の感情を、涙を、裕子はただ受け止める。

深い慈しみと母性愛で、貞一を優しく包み込む。

 

「大丈夫、ここには、あなたをいじめる物は何も無いわ、だから、安心して」

「うう………ひぐっ………ひぐっ」

 

一通り感情を吐き出し、貞一は嗚咽を繰り返す。

そんな貞一を、裕子は抱き上げるように立たせ、背中をさする。

 

「疲れたね、お布団に行こうか………歩ける?」

「ひぐっ………うん」

 

裕子に撫でられながら、貞一は店の奥へと連れられてゆく。

ぱたん、と店の奥に続く扉が閉じられた時、そこにはもう誰も居なかった。

 

ただ、時計のチクチクという針の音が、誰も居なくなったスナック音無のカウンターに、静かに響いていた。

 

 

結局、その日貞一は裕子の計らいもあり、スナック音無で一夜を過ごす事になった。

 

用意された布団は、かつて作業員が使っていた粗末な物だったが、貞一は今までにない程に、深く、良い眠りを味わった。

まるで、母親の胸に抱かれているかのように。

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

それから、しばらくが過ぎた。

相変わらず、仕事は辛い事の連続だった。

早奈英も、貞一に辛く当たった。

 

何も変わらぬ日々が続いた。

 

その度に、貞一の心中に「裕子に会いたい」という感情が起こりそうになり、それを必死に押さえ込んだ。

 

今の世の中、それは不倫とみなされても可笑しくない事だった。

不倫をした男がどんな末路を辿るか、貞一も知らない訳ではない。

 

けれども、あの日自分の全てを包み込んで癒してくれた裕子の優しさは、貞一は忘れる事は出来なかった。

 

そんな日々を過ごしていた、ある日の事。

 

「………ただいま」

 

今日はめずらしく、早めに帰る事が出来た。

早奈英はいつも不機嫌そうだが、こういう日は暴力を振るう事はない。

 

今日は運がいいと、玄関から靴を脱いで入った、その時。

 

「ちょっと!」

 

ずしん、と床を揺らして、帰ったばかりの貞一の前に、大きな人影が立ちはだかる。

 

早奈英だ。

いつも暴力を振るう時のように、青筋を立てて顔を真っ赤にした早奈英が、そこに居た。

 

「………な、何?」

 

おかしい。

早奈英を怒らせるような事は、何もしていないハズなのに。

混乱しつつも、貞一はそう返す。

 

「何じゃないでじょう!!」

「うわっ!」


早奈英がその場にあった湯飲みを掴み、貞一向けて投げつけた。

湯飲みは割れる事こそなかったが、貞一の頭を直撃し、床を転がる。


「な、何を………」

「これ見なさいよォ!!」

 

混乱する貞一に向かい、早奈英が一枚の写真を突きつけた。

それを見て、貞一は顔が青くなった。

 

そこに写っていたもの。

それは、裕子に介抱されながら、スナック音無に入ってゆく自分の姿。

 

「………探偵に頼んで調べてもらっだのよ、まさか不倫していたなんてね」

「ま、待って!これは、倒れかかったのを助けてもらっただけで………」

「だばれぇ!!」

 

弁解より先に、早奈英の足が飛んだ。

それは貞一の身体を蹴飛ばし、壁に叩きつける。

 

「がふっ………」

 

早奈英の攻撃は続く。

倒れた貞一にその巨体でのし掛かり、何度も拳を振るう。

 

「わだじが苦労している間に、なんでごんなごどずるのよ!!ごのクズ!サイデーおどごぉぉぉ!!」

 

喚き散らしながら、何度も貞一を殴り付ける。

貞一は抵抗する事なく、それをただ受けるのみ。

 

ああ、これが自分なんだ。

貞一は早奈英に殴られながら、そう思った。

 

ただ殴られ、都合のいいサンドバッグとして利用されるだけの存在。

 

きっと、早奈英は自分を不倫した男として裁判にかけるだろう。

今まで苦労して生きてきたのに、こんな事で人生が終わるなんて。

 

貞一が全てを諦めようとした、その時。

 

「………あら、随分派手にやってますねぇ」

 

そこに、声が響く。

何者だ?と、その声の方を向く貞一と早奈英。

そこに居たのは。

 

「………あら、探偵さん」

 

途端に、早奈英の声色が変わった。

そこに居たのは、玄関の前に立つ、貞一の知らぬ一人の女性。

 

深く帽子をかぶり、黒いコートに身を包んでいる。


早奈英の態度からして、きっと彼女が、貞一の浮気現場を押さえた探偵なのだろう。

 

味方が増えたと思い、得意気に笑う早奈英。

だが。

 

「………奥さん、何か勘違いしてません?」

「………は?」

 

突然、探偵がそんな事を口走った。

何を言っているのだ?と唖然とする早奈英。

そして何が起きているか解らず、呆然とする貞一。

 

「………ある時は、アニメ制作会社の敏腕社員」

 

そんな彼等の事など置いてきぼりにして、ニヤリと笑う探偵。

 

「………ある時は不倫を調べるしがない探偵、またある時は旧友に手を貸す元クラスメート、しかしてその実態は!?」

 

唖然とする二人の眼前で、探偵はコートと帽子をバッと脱ぎ捨てた。

そして。

 

「私は南原準!友人の依頼で貞一君、あなたを助けに来た!」


高らかに、そしてわざとらしく、

探偵──南原準は、その名を名乗った。


「な………な………?!」

 

驚き、凍りつく早奈英。

当然だ、今まで味方だと思っていた探偵がその正体を表した挙げ句、貞一を助けに来たと言い出したのだから。

 

「くぅ~っ!この登場の仕方憧れてたのよね~!」

「な、なんなのアンタ?!わだじの味方じゃないの!?」

「あら、味方だとは一言も言って無かったけど?」

 

予期せぬ出来事に戸惑う早奈英を他所に、準は話を始めた。

 

「………所で、不倫罪って女性にも適応されるって知ってる?」

「な………!」

 

準の言うとおり、不倫罪は女性にも適応される。

王慢党政権下でも、不倫をする女性は体のいいサンドバッグであり、嫉妬もあって重い罰が課せられる。

ただ、裁判の場に挙げられるのが男性が悪い例ばかりだから、前例が殆ど無いだけで。

 

「それが何の関係があるってのよ!」

 

憤る早奈英を前にしても、準は表情を崩さない。

 

「………これなーんだ」

「げっ!」

 

準が早奈英に向けて突きつけた、一枚の写真。

そこにはラブホテルに入る二人の人影。

一人はスーツを着た男性。もう一人は………妊娠前の早奈英。

 

「結婚前から付き合ってたんだってね?大方、不倫罪で貞一君から慰謝料を取ってから、こいつに乗り換えるつもりだったんでしょう?お腹の子もそいつのでしょう?」

 

図星であった。

早奈英は不倫をしていた。

それだけでなく、不倫相手との子を貞一に託卵しようとしていた。

その、はっきりした証拠を突き付けられて、早奈英の顔はどんどん青くなる。

 

「………うず、うじゅぜえええええ!!」

 

叫ぶ早奈英。今まで貞一にそうしていたように、恫喝と奇声と暴力で押さえ込もうとしているのだ。

 

「わだじば被害者だァ!!ギャアアアアア!!」

 

今度は湯呑みを持ち、投げつける。

その標的は、ぐったりして動かない貞一。

だが。

 

「貞一くん!」

「!」

 

突如、ドアの外から駆けてきた人影が、貞一を庇った。

湯飲みはその人影に当たると、床に落下し、割れる。

 

「………大丈夫?貞一くん」

「………あ」

 

先程までうずくまっていた貞一が、その声に反応し顔を上げる。

そこには。

 

「………音無さん?」

 

貞一を庇うように覆い被さる、音無裕子の姿。

傷つけられる貞一を前に、我慢できなくなって飛び出してきたのだ。

 

「な、ななな?!」

「紹介するわ、私に貞一くんを助けるよう依頼した、音無裕子さんよ」

 

そう言う準の手には、この一部始終を記録した携帯電話。

逆上した早奈英が湯飲みを投げる下りも、しっかり録画済み。

 

「不倫罪の次は恫喝と暴行かぁ、どんどん罪が重くなるわねぇ」

 

完全に追い込まれた早奈英に対し、追い討ちをかけるがごとく、準は言い放つ。

 

「あんたの選べる道はたった二つよ、何も言わずに貞一くんと離婚するか、裁判にかけられて離婚するか、勿論慰謝料なんて出ないからね」

 

それまでツキは確かにあったハズなのに、自分が悪者にされてしまった。

 

………それでも、早奈英は自分は悪くないと考えていた。

原因は甲斐性無しで、自分を元の彼氏から引き離すほどの魅力が無かった貞一にあるのだと。

 

「むぎいいいいい………ッ!」

 

それが、こんな事になっている。

早奈英の脳内はもう怒りでいっぱいだ。

 

特に、早奈英の怒りは裕子に向いていた。

早奈英からすれば、不倫相手のくせに貞一を庇って、まるで自分達が被害者のような面をしているのだから。

 

しかし、いくら吠えた所で、横にいる準に論破される事も解っていた。

故に、発散できぬ怒りは今にも溢れんほどに早奈英の中に貯まってゆく。

 

………準は、このまま早奈英が暴れだした所を上手く逃げ出せれば上出来だと思っていた。

 

だが。

 

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