第三十六話「会社員・北斗貞一」

昔、昔の話だ。

 

「やくそくする!」

 

幼き日の約束。

小学生の頃の、他愛ない話。

 

「オレ、宇宙一のコックさんになる!」

「わたし、宇宙一のしゃちょーさんになる!」

 

まだ世間の事すら解らなかった頃の、子供のごっこ遊び。

 

「そうしたらわたし、貞一くんを迎えにいく!」

 

今なお色褪せず、思い出の中で輝き続ける、宝石箱のような思い出。

あの時、公園の木の下で交わした事も、あの時待った落ち葉の色さえも、彼は忘れた事が無い。

 

そして、時は流れ………。

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

正直、気が進まなかった。

残業で遅くなった上に、消耗した身体にまた鞭を打つことになるのだから。

 

「………ただいま」

 

しかし、この家の大黒柱役が………一応とはいえ自分な以上、自分はこの家に帰らなくてはいけない。

 

重い足取りで眼前の扉を開く。

彼の姿は、都内のとあるマンションの中へと消えた。

 

「遅い!」

 

靴を揃えるより早く、彼の頭にティッシュペーパーの箱が叩きつけられる。

 

痛みが走り、彼は怯えるようにうずくまる。

箱を投げつけた張本人たる女が、膨れた腹を見せつけるように吠える。

 

「会社出たのは10時だよね?!だったら急げばもっと早く帰れるんじゃないの?!」

 

うずくまり、怯える彼を見下ろし、怒鳴り散らす。

ようは彼が、早く帰ってこないから怒っている。

だが、彼女の怒りは、まるで彼が大罪を犯したように激しく、そして理不尽だ。

 

「だ、だから今月は残業が………」


疲労で感覚が鈍っていたのか、彼は口答えをしてしまった。

普段なら、反論すれば余計に怒りに油を注ぐと分かっているのに。

 

「残業残業って何なの?!私より仕事が大事だっでいうのォお!?」

 

顔を真っ赤にして、彼女はその大きな腹でドスドスと迫ってくる。

そして。

 

「わ゛だじば赤ぢゃんのだめに頑張っでるんだよ?!ぞれをあんだば仕事仕事っでぇ!!」

 

顔に向け、拳の一撃。

倒れた所に、今度は何度も踏みつける。

癇癪を起こした幼子のように、涙を流しながら彼女は絶叫し、彼を何度も蹴る。

 

「あんだば家族よりぼ仕事が大事なんだべぇ?!わだじが痛い思いぼじで生んであげどぅっでどでぃぃぃ!!ギャアアアア!!ギャアアアア!!」

 

もう何を言っているか解らない寄声と、人間を叩く鈍い音が、何度も響く。

幸い、彼の給料の半分以上の家賃のこのマンションは、ペットも飼える程度には防音が整っている。

何度目になるか解らないが、彼は「近所に迷惑をかけなくてよかった」と、罵声と痛みの中で考えていた。

 

数分に及ぶ暴力と暴言の雨霰が止み、ぐったりした彼に向けて、彼女は吐き捨てる。


「ぜーっぜーっ………寝る前に食器洗いと掃除、済ませとけよ、もし明日起きて何もしてなかったら承知しないからな」

 

彼女は、再びドスドスと足音をたてて、寝室へと去っていった。

その場には、ぐったりした彼が、一人残された。

 

傷む身体のお陰で、玄関で眠らずに済む。

と、彼はボロボロの身体を起こし、流し台に向かう。

 

「………食器洗いと、掃除………食器洗いと、掃除………」

 

彼女に言われた事をやらなければ、また殴られる。

どうやら、今夜もぐっすり眠れそうにはない。

 

泣いてはいない。少なくとも泣いているという自覚がない。

だが、流し台に向かう彼の頬には、一筋の涙が流れた。

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

………「北斗貞一(ほくと・ていいち)」は、色々な意味で平凡な男であった。

 

彼は中学を卒業後、高校を出、親の期待通りに大学に入った。

本当は料理の専門学校を受けるつもりでいたのだが、両親の猛反対を受け、断念。

 

卒業後、とある大手会社に就職。

両親はこれを大層喜んだが、貞一自身はあまり素直に喜べなかった。

 

 

「何うつらうつらしてんだよ!」

 

旧式のパソコンで文字を打ち込んでいる貞一を、丸めた書類でバシンと叩く先輩。

 

「いいか?男は気合いだぞ!男・北斗貞一を見せてみろ!」

 

激励のつもりだろうが、貞一にとってはパワハラ以外の何でもない。

応援したいなら黙ってろ、人を熱血ごっこの玩具にするな。

と、言いたくなるのを堪えて、貞一は仕事を続ける。

 

 

来る日も来る日も、12時間、体力の限界まで働かされる毎日。

形だけの労働組合は機能せず、全時代的な化石のようなモーレツ上司と、それを疑おうともしないモーレツな同期と先輩・後輩。

 

そこに自由も安らぎもなく、ただ僅かな時間寝るための帰宅と、起きている時間のほとんどを仕事に消費する毎日。


次第に貞一の精神は刷りきれ、まともに考える事すら難しくなっていった。

 

 

そんなある日。

飲み会にて、現在の妻である「片桐早奈英(かたぎり・さなえ) (現・北斗早奈英(ほくと・さなえ) 」と出会う。

仕事に精神を磨り減らされる日々を、両親からの「結婚はまだか」「孫はまだか」の無茶な要求で余計に磨り減らされていた貞一は、

これで肩の重荷がひとつ降りると思い、早奈英と結婚した。

 

 

しかし、待っていたのは更なる地獄であった。

 

 

結婚は人生の墓場とはよく言った物で、この2069年の王慢党の支配する日本においては、それは顕著である。

 

まず結婚が決まったその日、貞一はあるセミナーに連れていかれた。

結婚した夫に向けたセミナーであり、国が主催するものだ。

 

そこで貞一は、まるで軍隊の訓練のように、夫という存在がいかに妻に申し訳ない事をする存在か、自分がいかに妻に尽くさなければならないかを叩き込まれた。

 

まるで、奴隷を育てているようにも、カルト教団の洗脳のようにも思えた。

しかし一番恐ろしいのが、これが日本の夫の常識として社会に蔓延している事。

 

自尊心の殆どが潰されたが、実際、結婚してからの早奈英の態度は、セミナーで得た事が十分に役立つものだった。

 

早奈英は家事を申し訳程度にしかしなかったし、家賃を払った後、残った給料のほとんどが早奈英の財布に入った。

独身時代からあった私物のほとんどが、早奈英の独断で勝手に売られた。

手元に残ったのは最低限の服と日用品。

 

そんな状況に陥っても、貞一はセミナーのお陰で、怒る事も悲しむ事も無かった。

それ以外の選択肢を選べなくなっていたのだ。

 

 

そして結婚生活数年目。

早奈英は妊娠した。

 

貞一は、いつ子供を仕込んだかは解らない。

自分でも考えられないほど、精神が疲弊していたのだ。

 

そして妊娠してから、早奈英の態度はより一層酷いものになっていった。

 

それまで申し訳程度にやっていた家事は、完全にやらなくなった。

今、家の家事のほとんどが、仕事で酷く疲れた貞一の仕事である。

 

少しでも手を抜けば、手か物か暴言が飛んできた。

酷い時には、食事を取り上げられる事もあった。

何もない時でも、妊娠で不安だからと、サンドバッグのように殴られた。

 

完全に虐待といっていい状況だが、今の日本にDVを受ける妻を助ける団体はあっても、DVを受ける夫を助ける者はいない。

大方、テレビや雑誌で「ザコメン」として面白おかしく取り上げられるのがオチだ。

 

両親さえも、貞一の味方はしなかった。

早奈英から針小棒大の虚言を吹き込まれた彼等もまた、貞一を「自分の妻に平気で迷惑をかけるクソ夫」と罵った。

 

 

貞一は、もう限界であった。

何度も、死ねば楽になるのではと思った。

 

だが、世界はそれを許さなかった。

生まれてくる子供の事。

日々倫理CMで流れる「自殺男は無責任」。

そして、自殺の選択肢を選ぶ事すら出来なくなった自分自身が、貞一をこの世に繋ぎ止めた。

 

そして貞一は確信した。

この地獄は永遠に続くと。

革命でも起きない限り、この地獄に終わりはないと。

 

逃げられず、死ねない。

 

やがて貞一は考えるのをやめた。

生きた屍になったのだ。

今の世の中に嫌というほど溢れる、生きた屍に。

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

「………ひでぇな」


そんな男の、これまでの半生を聞いた涼子の一言が、これだった。

 

「貴女、さっきからそればっかりね」

「実際ひでぇだろ、これは」

「まあ、そうだけどさ………」

 

あの後、準は五月雨博士の人脈を頼り、ある探偵を雇った。

表向きの探偵ではより詳細な調査が出来ず、裏社会の人脈を頼る必要があったのだ。

 

「貞一さん、かわいそう………」

「これじゃまるで奴隷ですね………いや、もっと酷いか」

 

朋恵に至っては、哀れさのあまり泣きそうになっている。

普段は滅多に怒る事もない光でさえ、早奈英の所業や貞一を取り巻く環境に顔をしかめている。

 

「でもよ、これだけ証拠が出揃ってんなら離婚所か慰謝料貰えねーか?」

 

涼子の言う通り、ここまで見た中で貞一が早奈英された事は、立派なDV。

探偵に調べてもらって、ここまで証拠が上がっているなら、早奈英をDVか何かで訴えれば勝てるように思える。

 

「それが出来りゃ苦労はしないわよ………」

 

対する、呆れた様子の準。

そう、もしもここが現実の日本ならどうにかなっただろう。

しかし、ここは悪の侵略者・スティンクホーに支配された2069年の日本。

 

「………どういう事だよ?」

「昔、似たような事案で恋人を訴えようとした人がいるのよ………どうなったと思う?」

「さぁ」

「訴える前に「女に泣かされた上に権力者に泣きついて男として恥ずかしくないのか!」って叩かれて不起訴に終わったわ」

「はぁ?!」

 

まるで、すっとんきょうな嘘を聞いたような涼子だが、残念ながらこれは実話。

 

特定の誰かまでは解らないが、DVを受けた夫が周囲にほぼ封殺に近い形で訴えを取り下げられるなんて話は、今時珍しくない。

世間はDV被害者の男を被害者としてではなく、情けないヘタレ、嘲笑の対象として見ているのだ。

 

故に、仮に貞一が早奈英を訴えたとしても、心を折られて女性誌のネタにされるだけだ。

 

「じゃあ、どーすんだよ」

「ふふ、ご安心を………」

 

八方塞がりの状態だが、準にはある秘策があった。

貞一を苦しめている世間。その裏をついた秘策が。

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

「………うん?」

 

貞一が意識を取り戻すと、視界の先にはキッチンの収納扉が見えた。

 

起き上がりながら思い出す。

あの後、掃除の後食器洗いをした。

それが終わった直後、強い眠気が襲ってきて………。

 

「………俺、寝ちゃったんだ」

 

今更、ベッドじゃない場所で眠るなんて、貞一にとっては珍しい事でも何でもない。

 

軽く身体を動かすが、特にだるかったりはしない。

風邪も引いてないし、早奈英に蹴り起こされるよりはマシだと自分に言い聞かせ、朝食の準備を始める。

 

時計を見れば、もう6時。

もうすぐ、早奈英も起きてくる。

 

 「は、早く朝食の準備しなきゃ………」

 

妊婦に朝食を作らせたら──早奈英が自主的に作るとも思えないが──また実家の両親から「早奈英さんに無理をさせるな馬鹿息子が!」と説教を食らってしまう。

 

貞一は、洗った食器を取り出すと、冷蔵庫に張られたメモを便りに、妊婦向けの朝食を作り始める。

まるで、恐ろしいものから逃げるかのように、自分を急がせて。

 

 

………早奈英は、朝食はヨーグルトだけ食べた。

後のメニューは「無理に食べさせて私にゲロを吐かせるつもりだろう!」と、床に叩きつけられた。

 

作った朝食を粗末にされる事には、もう慣れた。

それもこれも、妻を不愉快にさせた自分が悪いのだと言い聞かせ、貞一は会社に向かう。

 

まだ、完全に回復していない疲労感を、無理やり押し込んで。

 

 

すし詰め状態の満員電車に揺られ、目的の駅からまた二時間歩き、会社につく。

 

そこからは、また長時間の労働だ。

 

心を、身体をすり減らし、稼いだ金も自分を奴隷扱いする妻の財布に消える。

 

「………あれ?」

 

仕事の最中、貞一は自身の頬に、何 かに水のようなものが伝っている事に気づいた。

何だと思い、服の裾で拭く。

しかし、拭いても拭いても、時間がたてば頬に何かが伝うのだ。

 

「え、何こ………れ」

 

いくら拭いてもきりがない。

と、もう無視して仕事に集中する。

 

沈む夕日が、貞一の頬を熱く照らす。

そんな、激務の中の夕方6時。

 

 

 

 

………………

 

 

 

 

ようやく仕事を終えた。

本来の自分の仕事に加え、上司先輩から「これやっといて」と押し付けられる仕事を終えて会社を出た時には、もう夜であった。

 

「………どうしよう」

 

会社を出て、ネオン揺らめく繁華街を歩いている時点で気付いた。

もう、終電は出た後であった。

 

早奈英にはもうメールは送った。

が、帰ったらまたタコ殴りにされるのだろう。

 

「明日は休みだってのに………」

 

ため息を吐き、宿泊の為にカプセルホテルでも探そうかと、一歩を踏み出す。

 

「………え?」

 

瞬間、身体がよろけた。

視界がゆらめき、遠近が曖昧になり、重力さえも感じなくなる。

 

思考はすでに追い付かない。

薄れ行く意識の中で、貞一が最後に見たのは、自身に迫るアスファルトの地面の………

 

はずだった。

 

「貞一くん」

 

聞き覚えのある声が、彼の意識を呼び戻した。

気がつくと、貞一の視界は上を向いていた。

そこには。

 

「………音無さん?」

 

あの時、仕事で同窓会に参加できなかった申し訳の無と惨めさから、顔を逢わせられなかった彼女。

 

「………久し振り、貞一くん」

 

疲労感の中で見る、幻覚や夢や幻ではない。

音無裕子が、貞一を守るかのように、その身体を支えていた。

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