おまけの人生でもいい

ハナニエン

魔法使いの弟子

第1話

 転生者っていうのはわりといるものらしい。私の師は自分の弟子に前世の記憶があっても驚かなかった。

 『おまえはそれで自分が特別だとは思ってはいけない。人生は一度きりだから尊いのだ。おまえは前の人生で何かやり残したことがあって、幸運にも二度目の人身を受けたのかもしれない。だがそれは、おまえが特別だからではなく、おまえが役目を果たせなかったからだ。それを肝に銘じておけよ』

 厳しい言葉だった。だけど必要な言葉だった。それで私は自分の前世を受け入れることができたし、より善く生きるために努力することができた。


 私の師、アノエラ・クイジンは高名な魔法使いだ。『魔力に導かれ導く人たちの結社』、通称『魔導結社』の定める最高位の導師の地位にある。彼の功績はすべての魔法使いの憧れだが、彼自身は名誉欲とは無縁で、一年のほとんどを旅に出て、市井に生きる人たちと(いろんな意味で)交わっている。

 高位の男性魔法使いのほとんどがそうしているように、彼も白髪まじりの黒髪を肩の下まで伸ばし、両耳の上からひと筋の髪の束を後頭部へもってきて、三つ編みにして垂らしている。背が高く、フードを被るのが嫌いなので、顔はよく日に焼けている。よく笑い、その笑い方がいかにも明るく快活なので、彼と話した人はみんな彼が好きになる。性格は豪胆無比、その一言に尽きる。だけど妙に繊細なところもあって、弟子の私がうさん臭く思うような怪しい頼まれごとを断れなかったり、明らかにウソっぽい商売女の小芝居にコロっと騙されて、見受け料かと思うくらいの値段で一晩の花を買ってしまったりもする。弟子の身としては苦労をかけさせられる。だけど決して憎めない人だ。


 私とアノエラは今、大陸の東端にある港町に滞在している。美しい女公爵が治めるカリヨン公国の城下は、文明に栄え物資も豊かで人々の心にも余裕がある。つい先日まで荒野の砂漠をさ迷っていたわれわれ師弟は、女神の胸に飛び込むようにこの町に耽溺した。食べて飲んで寝て読んでまた寝る生活をもう五日ばかり過ごしていた(師はそれに買うと打つも加える)。旅暮らしも悪くはないが、読書には向いていない。私は三度の飯より流行小説を読むのが好きで、師が博打をしに行っているあいだにちゃんとした宿屋で本を読める機会を得られるなら何を代わりにしても惜しくないと日頃から考えていた。しかもこの町には貸し本屋が三件もある! 私はせっせと師を町に放り出して小説旅行にのめり込んだ。うーん、だから私も悪いのだ。こんなに長い間、長老たちから何の音沙汰もないなんてラッキー、なんて呑気に思っていた。そんなわけないのに、自堕落な生活を続けたくて思考を放棄していたのだ。


 ×××


 娼館に上がり込むのは気が乗らなかったが初めてのことでもなかった。私はいかにも魔法使いの弟子という衣装をしているから花街にいると目立つ。早朝でそれほど人気がないのが幸いだ。

 アノエラが泊まったとみられる店の軒先には、意識のない男が転がっていた。飲み過ぎて店の女に粗相でもしたのか、蹴り出されたような様態だ。その横で今まさに半裸の男が立ち小便をしている。その向かいの軒先には酔いつぶれた男二人が互いの肩に頭を預けて眠っている。母親のものか、娼婦の艶やかな着物を着た子どもが彼らの懐にそっと手を入れる。

 この通り全体が薄汚れている。空気さえ淀んでいるように感じる。尿と汗と吐瀉物が壁にしみ込んでいるように嫌な臭いが漂っている――ああ親愛なるアノエラ、どうしてもこの通りでなければならなかったのですか? もう一本か二本通りを上に行けば、大陸でも有名な歓楽街があるのに。どうして場末の女にばかりつかまるのか。

 私は男の足をまたいで店に入った。立ち小便の男が私に向かって卑猥な言葉を呟いたが聞かなかったことにした。店に入ると嫌な臭いが少し薄れた。香のせいだ。クセの強い麝香に似た香りで、好きだとは思わなかったが尿臭よりはマシだった。その香りを濃縮させたような女が奥から出てきた。目元にだけ化粧をして、崩れた赤毛が胸元に垂れている。年増だが美人だった。彼女はバーカウンターの内側に入ると、眠そうな目で私の全身を検分した。

 「ぼうや、お師匠様を探しているの」 女は言った。「あなた山脈の人でしょう?」

 「ええ、そうです」 人は魔法使いたちを”山脈の人”と呼ぶ。魔導結社の総本山が大陸を東西に分ける山脈の麓にあるからだ。そして通常、若い魔法使いには年かさの師がついていることを、大方の人は知っている。魔法使いは有名人だ。

 「私はぼうやではありませんが。山脈から来ました。師を探しに来ました」

 からくり仕掛けの人形のような返答になってしまった。人類愛に満ちた師と違って、私は魔法使い以外の人間と話すのが苦手だ。

 「上がってもいいですか? つまり、彼が使用した部屋に入って、彼を連れて帰っても」

 女は鮮やかに笑った。さっと頬と唇に赤みが差して、十歳は若返ったように見えた。「いいわよ。彼が”使った”部屋は二階の一番奥よ。まだ寝てると思うけど――ほんのちょっと前まで大騒ぎだったから。今日はみんな寝不足よ」

 「ありがとう」 私は奥に入って階段を探した。

 「ちなみに」と女の笑い声が追いかけてきた。「前金でもらってるわ! ご心配なく!」

 女の皮肉は純粋に面白がっているふうに聞こえた。私が支払いにまで気が回らない若輩だとからかっているのだ。だけど師が女を買う時はいつも前金だというのを私は知っていた。そのほうが、女が嫌だと思ったことを遠慮なく言えるからだそうだ。ふーん、わが師、エラク、もしその女がこう言ったらどうするんです? ”急に気分が悪くなったわ……水をもらってきてくれない?” もちろん部屋を出たとたん、用心棒があなたの胸倉をむんずと捕まえ、哀れあなたは店から追い払われてしまう……私はそう意地悪く尋ねたことがある。アノエラはこう答えた。”わが弟子よ。その場合、私がすることは一つ。私を追い払った用心棒に、彼女に水を持っていくよう頼むことだ”

 娼館の中は静まっていた。夜の間活動していた男たち、娼婦たちの、つつましい寝息が耳を澄ませるまでもなく聞こえてくる。だがそれ以外に物音はない。師の意識も感じられない。彼は本当に寝ているのだ。

 一番奥の扉を押し開けた。建物の構造をみると、この部屋だけ一回り大きな造りになっているようだった。旅の資金を調達するのは師たる彼の役目なので、彼がどんな女にどれくらい金をかけようが、私ごときがとやかく言う立場ではない。だけどこんなしみったれた娼館の一番上等な部屋を選ぶのだったら、まだ有名歓楽街のマダムの手で慰めてもらったほうがお得だったのでは? と思ってしまう。マダムなら客をとる前に手を洗うだろうし、何より私が、朝から不快な臭いを嗅がずにすんだ。

 部屋に入るとすぐに木製の衝立があった。導師のローブと腰ひもが無造作に引っかけられているのを見て、私はため息を飲み込んだ。もちろん魔法使いだろうが何だろうが、人間である以上欲はあるし、それを満たす手段について他人がとやかくいうことではない。しかし実際、世の中の魔法使いのほとんどが、性の快楽は修行の邪魔だと考えている。彼らは性欲を”抑制”するべきだと考えていて、アノエラが悪びれもなく”発散”させていることを苦々しく思っている。私? 私はべつに、師のやり方が悪いとは思わない。魔導結社の法にも”姦淫するべからず”とは書かれていない。ただ師と長老会の間がこれ以上こじれないことを願っている。頭の固いお偉方をアノエラは時々、わざと挑発するように特異な方法を取りがちだ。

 「あなたにはいつも驚かされる」 部屋の中央に置かれた大きな寝台を見つけて私は言った。

 木箱を積んで作ったような粗末な寝台だった。こういう場合に大きさを変えられるように、わざと簡易に作ってあるのかもしれない。”こういう”場合とは、客が二人以上の女を可愛がりたいと要求した場合だ。

 我が師、高潔なる導師アノエラ・クイジンは、亜麻色のつけ髪のずれた白髪女と、真っ黒な目の下を指でこすっている、目覚めたばかりの娼婦の間で、仰臥していた。彼の足元には白黒ブチの猫も寝ていたが、侵入者に気づくと優雅に伸びをして、すたすたと私の横から出ていった。この部屋の中で一番の賢者だった、間違いなく。

 私ときたら、目の前の光景にぼう然と立ち尽くしていた。

 「エラク、二人も必要だったんですか?」 何となく失望した気になってしまい、涙がにじんできた。

 予想した以上にわれわれには金がない。毎日せっせと師を博打に通わせていたが、彼が儲けていないことは承知だった。導師と弟子の旅に大金など必要ない。だが山脈までの帰路に必要な路銀は確保しておくのが暗黙のルールだった。たとえばそれは、砂漠なら駱駝代、町なら馬代、浮島なら飛竜代、といったように、長老会から要請があれば、大陸のどこにいようと、最短の時間で帰り着ける手段を得るための不可欠な金だ。いつもならその金がきちんと確保されているかどうか確認するのは私の役目だった。師は金勘定には無頓着だ。しかしここ最近……なんというか……私は……その役目にあまり熱心ではなかった。師が博打に使っていた金が、どのポケットから出たものか私は知らない――その間、私は流行の冒険小説を読むのに忙しかったので。それでも予想はできる。最後に勘定した時、遊びに使う金はじゅうぶんにあった。この町で数日、うまい酒を飲み、まともな肉を食べ、砂の入り込まない寝台で眠り、一冊や二冊の本を師に無断で借りて読むことが出来るくらいは――しかし、五日間、毎日賭け事をして女を買う師を計算に入れていなかった。本を十五冊借りてしまったのも――そのため、予想する前に最も厳しい結果を念頭に入れておかねばならない。

 つまり、夕べの時点で、持ち金はせいぜい驢馬を二頭借りられるくらい。

 今朝になって師の両脇に女がいるせいで、元気な驢馬は諦めるしかない。手に入るのは、年老いて、旅の途中で食料になるようなやつしかない、きっと。

 「おまえの声がするぞ、我が弟子よ……」 白髪と黒髪が均等にまじり合った長髪を撫でつけながら、師がのっそりと上体を起こした。あるいは頭を押さえているのは、二日酔いか寝不足のための頭痛をごまかすためかもしれない。まだ目を開けるつもりはないらしく、また同じくらいの確かさで、男性特有の足の間にあるデリケートな部分を弟子から隠そうという気もない。

 「ここにおりますから、わが師、エラク」 私は悲しみに満ちた声で親しい名を呼びかけた。「あなた、長老会から呼び出されているのをどうして私に黙っていたんです? あなたが無視するから、ゆうべ私の夢に大導師が出てきましたよ。師弟そろって山脈から破門されたくなかったら、急いで戻ったほうが良さそうです。足代はなくなりましたけど」

 「サラダイア。おまえの夢に大導師が? あのグレダ・モラレスが?」 大きな両手で顔を覆いながら言ったので、声がくぐもって聞こえた。その手を放した時には、自分にどんな魔法をかけたのか、少し目は充血していたがまともな顔色をしていた。安宿の一番上等な部屋の戸口に、自分の弟子が立っていることが面白いみたいに唇に笑いを乗せている。「おまえに何と言ってきた?」

 「あなたへの苦言と、私へのお叱りと、哀れみです」

 「それだけか?」

 「あなたの弟子をやめる方法なら教わりました」 アノエラの薄いグリーンの瞳が興味をそそられたようにきらめいた。先を促されて、多少なりともためらう振りをしようとしたが、意味がなかった。師との会話はたとえ話題が何であれ、心に活気が満ち、表面を繕ったりしなくていいことへの喜びで溢れる。つまらない演技でその喜びを殺ぎたくなかった。

 「寝首をかけと。詳しいやり方も教授してくださいましたが、実践するには障りがあるかと」 アノエラはアハハと声を出して笑い、自分の声に痛めつけられたようにしかめ面をした。「グレダのユーモアは健在だな」

 「なんでもいいから、服を着てくれません?」 私は少し怒った声を出した。「私たち師弟の放蕩の旅を長老方が許してくれているのは、呼び出された時にすぐ駆けつけることを約束しているからです。あなたはその約束を軽くみているのかもしれませんけど。長老会と意見が合わないのは慣れっこですもんね。でも私はそうはいかないんです! 大導師には、師が道から反れる時に襟首をつかんで引き戻してやるのも弟子の役目だと――」

 「声を抑えてくれ、サラ……女たちが起きてしまう」

 とっくに起きてますよ、と私は言わなかった。面倒ごとはごめんとばかり、素知らぬ顔で寝たふりを決め込む女二人の頭に、アノエラはまるで別れを惜しむ恋人に贈るようなキスを落として、寝台から下りた。たぶんまた、憐れを誘うような身の上話でも聞かされて同情したに違いない。最初から二人買うつもりもなかったのだろう。大方、若いほうを買ったら白髪の女もついてきて、今夜買ってくれなきゃ奴隷に落とされるとでも泣きつかれたのだ。

 背が高い男がこちらに歩いてくる。今年で齢五十に届くアノエラは、導師のローブを脱ぐと流れの剣闘士といったほうが納得されそうな体つきをしている。胸の真ん中と、右大腿のかなり危険なところに、皮膚が盛り上がった古傷がある。そのどちらも、不肖の弟子を庇った時にできた傷だ。彼は誰かを庇う時にしか傷を負わない。

 私が無言で手渡した衣服を、師も何もいわずに身に付けていく。自分で靴を履こうとした師を制して、私は跪いた。かかとを通してやり、紐を編み上げていると、耐えかねたような師の吐息が落ちてきた。

 「怒らないでくれ。おまえが怒るとどうしていいかわからない」

 「私は怒ってなどいません」

 「私に嘘をつくのか?」

 「怒っているのではなくて、途方に暮れているのです。金がないんです。また歩いて砂漠を横断するしかない。砂漠は嫌いです。知っているでしょう? 暑いのに夜は寒い。あなたが最初に長老会から連絡があった日にここを発っていれば、馬だろうが駱駝だろうが、船だって買えたのに。船!」 私は自分の中に怒りを感じたので、それを治めようとした。魔法使いたるもの、怒りに心を支配されたりしない。しかし船旅をする機会を逃したのだと思うと楽にはいなかった。「この町にどれくらいの船があるか、知ってます? ドッドークの穀物庫にいるネズミの数より多い。立派な帆の、二階建ての船だってあった! いくらでも選べたのに……」

 「おまえは砂漠が好きなんだと思ってた」 師がぽつりと言った。「砂漠冒険物の本を読んでいただろう」

 「小説は小説ですよ。現実は砂漠を適当に歩いて運よくオアシスに着いたりしない」 私はずっと高いところにある師の顔を見上げた。「私が何を読んでいたかご存じで?」

 「おまえはここ数日、その本しか目に入っていなかったじゃないか。私を邪魔者だと思っていただろう」

 アノエラの心地よい低い声はまったくいつもと変わりなかった。呪文や祝詞を紡ぐことに慣れたぶれのない声。

 すねているように聞こえたのは、私の間違いだろうか?

 「邪魔者なんて思っていません……」 私は首をたれて紐を結び始めた。「そりゃ、ちょっと夢中になりすぎましたけど……一冊読み終わるたびに、続きが気になって……読み始めたときはまさかあんな大長編だと思いもせず……」 話しながら、まさかという思いで再び師の顔を仰いだ。アノエラは髪よりも少し黒っぽい髭を指で撫でながら、私の手元より横に視線を落としている。

 「エラク……私が読み終わるのを待っていたんですか?」

 彼は涼しい目元をぴくりともさせずに、髭を撫でる指だけを動かしている。私は立ち上がってもう一度問いかけた。「エラク! まさか、私のために長老会の呼び出しを無視してたんですか?」

 「どうせ早めに連絡してきてるんだ、数日ばかり出発が遅れても障りない」 またも、導師にふさわしい力強い声。だけど今度は少し言い訳がましかった。私は彼の胸倉をつかんで揺すぶったらいいのか、たくましい肩に抱き着いて感謝したらいいのかわからなくなった。どちらも弟子が師にするにはふさわしくない態度だ。

 「師匠失格ですよ」 代わりに私は、そっけない言葉とともに彼に剣を渡した。一人前の魔法使いの証ともいえる、金細工の長剣だ。師が滞在していた宿屋に置いていったので、私が背に担いで持ってきた。アノエラが腰に差すと、やっとあるべき場所に収まった感じがする。

 「弟子の機嫌をうかがうなんて。今度やったら承知しません」

 「覚えておくよ」

 アノエラは大きな手を私の頭にのせて、ポンポンと撫でた。私がまばたきしている間に彼は階段に向かっていた。

 師の背中を目で追いかけながら、私は無意識に頭に手を伸ばしていた。唐突に自覚する師に甘やかされているという事実に、思考が一時意味を失う。むずがゆい幸福感に満たされ、何かにすがりつきたくなる。彼の大きな手。あの手の中に余るものなどこの世界にあるのだろうか? ……もう少し長く、ぬくもりが残るまで撫でてくれたら……。

 寝台に目を戻すと、二人の娼婦が体を起こしこちらを見ていた。

 若いほうがウインクして私に微笑む。

 私は一礼して部屋を後にした。

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