最北の派出所 ⅲ
ラオが家に帰ると、集会所にはぽつぽつと
普段なら徒が集って賑やかにしている頃なのに。
うるさいとさえ思っていたのに、今は静かなものだ。
「…………」
ラオが立ち止まっていると、父が声を掛けてきた。
「おう、おかえり。飯食うか?」
「食う」
すると父もごっほ、ごっほと咳込んだ。
「親父も風邪か?」
「らしいな――えっほ。カーラもまだよくならねぇし、いざとなったらおまえ、自分で飯用意しろよ」
「うん……」
回復した者の話を聞かない中、次々と親しい者が体調を崩していく現状に、ラオは不安気な表情になっていた。
数日すると、とうとうラオも体調を崩した。
頭がぼーっとして、少し熱っぽい。時折血が逆流しているような感覚に襲われた。
おとなしくベッドで横になっているが、よくなる気配がない。
早くに体調を崩していたオリバーも未だよくならず、家で寝込んでいるらしい。
これは本当に、ただの風邪なのだろうか……。
「――――っ」
声が聞こえた。女性の叫び声のような……。
「――ラ――」
今度は男の声だ。
「――ラ――カーラっ……!」
ラオは目を開けた。
今確かに、父が母を呼ぶ声がした。初めて聞く、切迫したような声だった。
「…………」
ラオはベッドから降り、ドアを開けて両親のいる寝室の方を窺う。
すると、
「しっかりしろカーラ……っ!」
再び父の切迫した声が届いた。
「っ」
ラオは寝室に駆け込んだ。
そして見たものは――なんだろう。
ラオはそれがなんなのか、すぐには理解できなかった。
荒れた部屋で、父――たぶん父だ――が暴れるなにかを押さえようとしている。
母だ。苦しみに歪んだ口から
全身長い被毛に覆われて、前に突き出た口に牙が立ち並ぶそれは、母だ。
まるで獣。いや、獣にすらなりきれていないなにかに母は変じていた。
そして、それは父もだった。
右腕と顔の半分が獣のように変じていた。
ラオを認めた父が声を上げた。
「ラオ、離れてろ!」
「で、でも……」
部屋に踏み入ろうとしたラオに、父は歯を剥いた。
「近づくな!!」
「っ」
鬼気迫る父の怒声にラオは怯み硬直した。
「離れろ! 絶対に手の届かないところまで!」
「…………っ」
ラオは駆け出した。
一階の集会所まで降りると、何者かが扉を破って侵入してきた。
「!?」
その者は大きなイタチのような姿をしていた。
「……オリバー?」
不思議と屠畜場で働くあの青年が頭に浮かんだ。
「ギャッ」
「!」
その者はラオに襲い掛かってきた。
椅子やテーブルにぶつかるのもお構いなしに向かってくるそれから、まろびそうになりながらもラオは逃げた。
破られた出口から外に出ると、振り返らずに走った。
しかし、後ろから「ギャギャギャギャッ」と声がして振り向いた。
襲ってきた者が身悶えし、集会所の口で四肢をばたつかせ苦しんでいる。
口端から涎を垂らし、その身の一部がぼこぼこと盛り上がり変容し始めた。
「っ……」
その姿は見るに堪えなかった。
「――――」
ラオは振り仰いだ。
村のあちこちで叫び声や吠え声が上がっていた。
「…………」
(コウ)
ラオは駆け出した。
「はぁ……はぁ……」
村と違い、館への道は除雪されておらず足を取られた。いつもは板を履いてくるのに、今日ばかりはそれを忘れてしまった。
ドクドクと体中を血が流れている感覚がする。
景色が
「っ、あっ」
血が
右腕の内で血が沸騰したようにボコボコと泡立っているようだ。
目を固く
症状が治まって目を開けると、右腕が知らないものに変わっていた。大きくて、毛むくじゃらで、鋭い爪の獣の腕だ。
「っは……っは……」
ラオは再び足を動かした。
何度も血が沸くような感覚に襲われながら進み続けた。
いつもよりずっと長い時間が掛かっただろう。しかし、そんな感覚もわからなかった。
館の前まで辿り着くと樹に身を預けて呼吸を整えた。
「っ……コウ……」
呟いたそのとき、ガシャァンっと窓が割れ、なにかが飛び出した。
大きな狐のような獣。しかし、狐と違い、長い尾が幾本も
「コウ……?」
「ガアァァッ、ガアッッ」
その者も悶え苦しんでいた。
ラオはその者へ歩み寄る。
「ガッ……ぁ」
その者の口から赤いものが白い雪の上に滴った。
「コウ!」
ラオはコウの元へ駆け寄った。
「コウ、おれだ。おれのことわかるか?」
「ゥ、ウウ……」コウは頭を抱え
ラオが顔を綻ばせたのも束の間、
ドッ
コウはラオを突き飛ばした。
「っ」
雪の上に倒れ、まもなく顔を上げたラオが見たのは――
苦笑したようなコウの顔。
それは、コウとしての最後の顔だった。
「――っ!?」
そのとき、ラオを再びあの症状が襲った。
今までで最も強い痛み。
目の前が白く霞み、ラオの意識はそこで途絶えた。
「……にをした……わかっ…………フューリー」
「わかって…………マス……じぶ…………実験………………せ……任を…………」
ぼやぼやとした輪郭もはっきりしない視界で、くすんだピンク頭の男と、白髪の男が話している。
夢か
4
ラオは一命を取り留めた。
目を覚ましたときにはコウの館の一室に寝かされていて、マスター・クラウドがいろいろと説明してくれた。
村で
自分もそれに感染し、身体が変容してしまったのだということ。
症状は治まったが、治ったわけではないということ。治療法をフューリーが探っているというが、細胞が元の状態に戻ることはまずないらしい。
同じく感染していた両親や村の獣徒たちも別所で治療中だというが、会える状態ではない――会わない方がいい状態だということ。
じゃあコウはどうなんだと尋ねた。
すると、コウは死んだと聞かされた。
細胞の変異に体が耐え切れず、亡くなったのだと。
それから数ヶ月の治療期間を経て、ラオの容態は安定した。
治療のお蔭か外見的変異は大きく回復したが、右腕と右目だけは元に戻らなかった。
右目は失ったわけではないが左と見え方が大きく異なるようになり、帯で蓋をしなければまともに歩けなくなった。
右腕は急激に肥大したゆえ筋力が付いてこず、思うように動かせないどころか重い
そのためすぐには元のように村で生活することは困難で、リハビリや経過観察も可能なガーディ本部に移されることになった。
ガーディ本部に移ってからのラオは、笑顔をなくし、荒んでいた。
ここに来て、ラオは自分を侵したウイルスが自然発生したものではなく、徒の手によって作られ撒かれたものだったと知った。村で起こったことは大きな事件として知られていたのだ。
当事者であるラオはそのことを聞かされていなかった。クラウドもフューリーも、ガーディで世話をしてくれている医師や看護師も、誰もラオに明かさなかった。オールメーラの生徒がこそこそ話しているのを聞いて知ったのだ。
どうして誰も教えてくれなかったのか、このときのラオにはわからなかったが、事件の被害者であるラオに周囲が向ける視線は気持ちのいいものではなかった。ひとを勝手に膿んだ傷口のように見て、それを洗うでなく、どうしようどうしようと遠巻きに見るだけの視線。
それに加え、尾を引くコウの死や、未だ会うことの叶わぬ両親やギルド仲間たちの容態。思うように動かない身体。それらが混ざり合って、ラオの心を荒らしていた。
そんなときに出会ったのがキリュウだった。
詳しいことはまたの機会に話せればと思うが、キリュウと接するうち、ラオは笑顔を取り戻していった。
身体もずいぶん動かせるようになってきて、身の振り方を考えなければいけなくなった。ラオはあくまで治療の延長でガーディ本部にいたため、リハビリが終われば退院――出ていくことになる。
村に帰ることもできたが、オールメーラに入ってはどうかと持ち掛けられた。
一度はなることを考えた守護者の学校。
ラオはオールメーラに入学してみることにした。ただこの決断はあとで少し後悔した。試験というものはもうこりごりである。
キリュウと切磋琢磨するうち、ラオは
獣化は能力となり、ラオは史上初の後天的なヘケルと認められた。
そうなるとゾディアックに限らず、ヘケルしか受け入れていないガーディにも入れるわけで――オールメーラ卒業後、ラオはガーディに就いた。コウと同じ、守護者になったのだ。
初めは本部に勤め、職員不足で派出所も整っていなかったため、時折大陸に派遣されるといった具合だった。
仕事に慣れてきた頃、ラオは休みを取って一度故郷の村へ足を運んだ。
未だ会うことが叶わず、自分のように快復したという知らせもない両親たちのことがずっと気に掛かっていたのだ。
そして知った事実はラオを打ちのめした。
感染した者は誰ひとり回復していなかった。
それどころか多数の死者がいて、生き残った者も「徒」ではなくなっていた。
歪な獣。獣とすら呼べないもの。心ない者が見れば「怪物」と、そう呼ぶような姿にみなは――両親はなっていた。
ただひとり、ラオの快復が奇跡的なものだったのだ。
獣徒は相手が獣であっても意思の疎通が取れる。獣徒の一種、セリアンスロープであるラオももちろんそうだ。
しかし、ラオには両親がなんと言っているのか、なに一つ解らなかった。
どころか両親はラオのことがわかっていないようだった。
両親は生きている。けれども、ふたりとも失ったような、死別とは違う淋しさが、胸を突いたのだった。
それから数年が経ち、村が復興して獣徒もまた安心して暮らせる土地になった。
しかし、そこに「ならざる者」となった彼らの姿はない。
今はガーディの派出所となったあの館を境に、境界が敷かれ森の奥に押し込まれている。
その森番となったラオは、定期的に彼らの様子を視ている。
けれどもそれはガーディの職務としてで、もう、淡い期待すら持ち合わせてはいなかった。
快復することもなく、ただかつて同胞だった者たちが緩やかに死に絶えていくのを見送るだけ。
それだけだったのに――。
「傷、だいぶよくなりましたね」
ハドが白狼の傷を診ている。先日ラオがつけた傷だ。
白狼はおとなしく顔を近づけて傷を見せていた。
「薬塗りますね」
まるで徒同士のやりとり。
ハドは特別な言語を使っているわけではない。ラオと話すときにも使う、普段通りの言葉だ。
それでもハドの言葉は白狼に通じ、また白狼の言っていることもハドにはわかるらしい。
初めてハドを連れて森に入ったあの日から、手当てのために何度となく白狼の元に足を運んだ。
そうしてハドと触れ合ううち、白狼は自分が「ジルバ」という名前であることを思い出した。
ジルバだけではない。他の「ならざる者」たちも回復を見せている。
今、ハドの周りにみな集まっている。
ラオはそれを少し離れた所から見守っていた。
「なあハド。ジルバに俺のことわかるかって訊いてみてくれないか」
ハドはそのままをジルバに尋ね、そして、ジルバの答えもそのままに、
「“わかるもなにも、俺の息子だろ”」
「――――」
と、ジルバの足元で毛玉が蠢いた。「“俺の”じゃないでしょ、“わたしたち”のでしょ」と言っているかのようだ。
ラオは目に水が溜まってきて、堪らず膝に顔を埋めた。
ラオが快復したことは奇跡だった。
そしてもう、それ以上の奇跡が訪れることはないだろうと思っていた。
しかし、二度目の奇跡は――
すると傍で「ギャギャギャギャッ」と鳴き声がした。
「うっさいぞオリバー! 腹抱えて笑いやがって。そんくらい俺でもわかるんだからなっ」
そのときその場所は、ギルドが蘇ったかのように、賑やかな笑い声で包まれたと、そう思えた。
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