第九話 北の森
1
派出所にハドがやってきたのは春になったばかりの頃だった。それから二ヶ月も経たないというのに、あっという間に肌寒くなり、今では暖炉の火が欠かせない季節になった。長い冬が始まったのだ。
暖かいときは外で訓練をしていたが、毎日のように雪の降る冬は屋内で訓練を行っている。今もその最中で、シャオとハドが素手での模擬戦をしている。相手がいないアサギは壁際に座って見学中だ。
「う~~ん……」
「ラオ、どうしました?」
壁際にて、唸るラオにキリュウが尋ねた。
「や、ハドがさ、な~んかぎこちないなと思って」
「そうですね……。どう動くべきか
「なんでも覚えは早いのかと思ったんだけどなぁ。型は様になってきた気がするし。ただ、相手がいると急にぎこちなくなる気がすんだよなぁ」
そのとき、ハドがシャオにぽかりとやられた。
数時間後、ラオが防寒装備をして弟子たちの前に立っていた。ラオはいつでももふもふだが、装備のためによりもこもこになっている。
「今日は北側の調査に行くぞ。付いてきたいやつ!」
ラオが手を挙げると、シャオとアサギが素早く手を挙げた。遅れてハドもなんとなくで手を挙げた。
「全員は面倒みれないから、じゃんけんでひとり決めろー」
じゃんけんに勝ったのはハドだった。
ハドはなんだか申し訳ない気持ちになったようだったが、もふもふの防寒着を着せられると気分が上がったらしい。自分の着た服を眺めたり、身を捻って後ろまで見ようとしたりしていた。
森を分断するように伸びる通路の北側――いつもは入ってはいけない北の森。
ここの調査とは異常が起こっていないかの見廻りだ。生態系に変化が起こっていないか、また、要救助者がいないか。封鎖されているわけではないため、ときおり迷い込んでいる者がいたり、自ら入って動けなくなっている者がいたりするのだ。
ハドはラオの傍にぴったり付いて進んで行く。
森は奥に進むほどに雪が濃くなっていくようだった。
北の森には危険な生物がいると聞かされていたが、危険生物どころかウサギ一羽も見掛けなかった。
一時間ほど歩いただろうか。止んでいた雪がまたはらはらと降りだした。
(静かだな……)
ラオの耳には自分と、後ろに付いているハドの雪を踏みしめる音だけが聞こえていた。
(もうすぐ「縄張り」の近くだな)
スン、っと、ラオの鼻が嗅ぎ取った。
(獣の臭いがすっけど、姿が見えねぇな)
怪訝に思っていると、ハドがちょんっと服の裾を引いた。
「師匠」
「ん? どした」
「足跡があります」
ハドが示す方に目を向けると、まだ新しい、小さな足跡が確かにあった。見廻りのときには小動物に気を回していないラオは気づかなかったらしい。ここまであまりにも動物に遭遇しなかったため、ただの足跡だが、ハドの関心を惹いたのだろう。
「なんの足跡でしょうか」
「これはネコ科の動物だなー。大きさからして子どもみたいだが……」
この森にネコ科の動物は生息していない。とすれば足跡の
スン、と、ラオはまたにおいを嗅いだ。
(「縄張り」の方だ……)
「ハド、この足跡辿るぞ」
足跡を辿る間、ずっと嫌な予感がラオの胸を衝いていた。
その者の気配を感じ、ラオはハドに「静かに」という合図をした。ふたりで樹の陰に身を潜め、前方を窺う。
大きな、大きな、三本足の白い狼が唸りを上げていた。剥き出された牙の隙間から、吐息が湯気のように立ち上っている。
白狼が睨むは岩壁の下方。そこに足跡の主がいた。予想通り、黒い旅豹の子どもだった。身を縮めて恐怖に震えている。
その光景に、ラオはもう駄目だろうと思った。せめてあの幼い黒豹の亡骸を弔ってやろうと、そう思った。
けれどそのとき、飛び出さずにはいられないことが起こった。
「やめて!」
ハドが叫び飛び出した。
「ばっ――ハド!」
制止しようとしたラオの手をすり抜け、ハドは一目散に白狼と黒豹の方へと駆けていく。
気づいた白狼の目がハドに向けられた。
突然現れた新たな侵入者に、白狼は興奮し牙を剥いた。
それがハドを襲おうとした瞬間――
追いついたラオがその拳を白狼に喰らわせた。
白狼の巨体が揺らぎ、周りの雪が散るほどの拳。
ラオが更に攻撃を加えようとした、そのとき、
「やめて!」
ハドが右腕にしがみついてきた。
ラオが攻撃を止めたその間に、白狼は赤い滴を散らしながら樹々の間に消えていった。
白狼の気配が遠くなったのを確かめ、
「バカ! なんで飛び出したりしたんだ。おまえが死ぬところだったんだぞ!」
ラオはハドを叱りつけた。思い返せば、ハドを叱ったのはこれが初めてだった。
ハドは眉を
「あのこが……殺されると思ったんです……」
「それで飛び出すのがバカだって言ってんだ。おまえが飛び出したところでなんになる。助けたいと思ったんなら、せめて俺に相談するくらいしろ」
ハドは息を詰まらせた。
「……師匠に言ったら、師匠があの狼を攻撃すると思ったんです」
「?……」
「師匠はあの狼より強いんでしょう?」
あの状況で、こいつは白狼の心配もしていたのか……?
そういえば、さっき白狼を攻撃しようとしたのを止めていた。
「……おまえは、黒豹の子どもだけじゃなくて、狼も傷つけたくなかったのか……?」
ハドは答えず、ただ、ぐっと唇を引き結び涙を堪えているような顔で、ラオの目を見つめ返した。
「…………」
ラオは屈み、ハドに視線を合わせた。
「ハド、俺はあのとき、なりゆきに任せて、どうこうしようとは思ってなかった。だけどな、おまえに頼まれりゃどうにかする策を考えてやることくらいはできたんだ。簡単じゃねぇけど、狼を傷つけないやり方だってだ。だからなハド。もう、ひとりで抱え込むな」
「っ……」
その言葉は、押し留めていた想いを吐露させるには、充分だった。
それが堰であるかのように引き結んでいた唇を開いた途端、ハドの目に涙が浮かんだ。
「……死んでほしく、なかったんです……」
「うん……」
「なんの動物か思い出せないけど、左腕を取られて……」
そのとき、ラオはハドが話しているのが今日のことではないと気づいた。
「――それも後から気づいて、自分はなにが起こっているのかもわかってなくて……死にかけてました。そこに【レオ】の団員だったあの
ハドが話しているのは左腕を失うことになった、そのときのことだった。今の黒い左腕は、やはりあとから移植したものだった。
「その動物は死んでました」
そう言ったハドの目から大粒の涙が溢れ出た。
「っ、自分が弱いから……! あのときの動物を生かすことができなかった! 自分が! 自分も守れないから、死なせてしまった……っ、死んでほしくなかったのに!」
瞬間、ハドの涙から漆黒の火が立ち上った。
(なんだ……?)
「――師匠、教えてください。傷つけずに戦う方法を」
涙を流しながらもはっきりと示したその意思で、ラオはようやく悟った。ハドが模擬戦になると動きがぎこちなくなる理由を。
ハドは相手を傷つけるのを極端なまでに恐れていたのだ。
自分の腕を奪い、命までも奪おうとした獣の死にさえ、心を痛めるような少女なのだ。
そんな少女に、ラオはにっと笑顔を向けた。
「俺を誰だと思ってんだ? おまえの師匠だぞ」ラオはまっすぐにハドの目を見て言う。「まかせろ」
「…………」
「俺がおまえに、「生かして、生きる」方法を教えてやる!」
ハドは泣き止み――同時に漆黒の火も消えて――、安心したように、
「……はい」
2
涙を拭うと、ハドは黒豹の子どもに目を向けた。黒豹の子どもは岩壁の下で身を縮め震えたまま、ふたりの様子を窺っていたようだった。
と、ハドは黒豹の方へ歩き出した。
「やめとけ」ラオはハドの肩を掴んで引き止めた。「俺が行く」
「師匠が行ったほうがきっと怖がらせます。自分に行かせてください」
「……気をつけろよ」
ラオはしぶしぶハドの肩から手をのけた。
ハドはゆっくりと黒豹に歩み寄る。
ハドが近くまで行くと、黒豹の子どもは身を引いた。けれども腰が抜けているのか、その場から動こうとはしなかった。
手を伸ばせば届くところまで来て、ハドはその場に両膝をついた。
黒豹は震えて立ち上がることもできないというのにシャーッと牙を剥き、精一杯の威嚇をしてみせた。
ラオはその様子を心配しながら見守っている。ここまできたら自分は動かないほうがいいことをわかっていた。今動いたら、動揺した黒豹がハドに危害を加える可能性が高い。
ラオも黒豹も神経をピリピリと尖らせているなか、危険があるとすれば自分だろうハドは落ち着いていて、穏やかですらあった。
「もう、大丈夫です」
途端、黒豹は戸惑ったように表情を変えた。牙を剥いたままだが鳴くのは止め、ハドを困惑した眼で見ている。まるで、「言葉」が通じるのに驚いているようだった。
「森の出口まであなたを連れて行きます。あそこにいる徒はこの森を知り尽くしているので、安全な所を通っていけます。それにもし、また襲われるようなことがあっても、師匠が絶対守ってくれます」
黒豹は
すると、ハドは黒豹の思っていることがわかるかのように、こう言った。
「では、こう言ったらどうですか。師匠は絶対「自分」のことを守ってくれます。だから――」
ハドは黒豹に腕を伸ばした。黒豹は驚き目を丸くした。
「自分が抱いているあなたも守られます」
ハドは優しく、けれどもしっかりと、黒豹を抱いた。
黒豹は目を見開き、爪を立てた。しかしハドは痛がるそぶりもなく、頬を寄せ、呟いた。
「無事でよかった……」
その声が届いた瞬間、黒豹の瞳が潤んだ。
爪を引き、目を閉じると、自らも頬を寄せた。震えはいつのまにか止まっていた。
「…………」
その様子を見て、ラオはほっと胸を撫で下ろした。
そのあとのこと。
ハドが白狼の手当てをしたいと言いだした。
もちろんラオは承知しなかった。
けれど、ハドを諭すために「あの程度の傷でどうこうなるやつじゃない」と言ったら、ハドは「傷が痛むことに変わりはありません」と返してきた。
ラオはさらに、当たり前のことだが、こちらが危険であることを理由に出すと「あの狼は縄張りを守ろうとしていただけです。さっきは興奮していましたが、今は落ち着いているはずです」だから大丈夫ですときた。
これがシャオやアサギなら問答無用で引っ張って帰るだろうに、なぜかハド相手には自分のほうが間違っている気にさせられた。ハドの腕の中で眠る黒豹の、安心しきった顔を見ているからかもしれない。本来、この手の獣は意思疎通のできる
結局ラオが折れることになり、それが正解だったと目の当たりにさせられた。
白狼はハドに傷の手当てを許した。
まるで気性の穏やかな犬のようにおとなしくして、手当てが終わると白狼はハドに顔を寄せた。
そのとき確かに、白狼と少女は心を通わせていると見えた。
ハド特有のものか、種族故かはわからない。けれどもハドには、動物と心を通わせる力があるのだと、認めるしかなかった。
――この頃になると、ラオの記憶からハドの涙から立ち上った火のことは、薄らいでいた。
この日の夜。ラオが寝息を立てている頃。
コトッ
執務机に手紙が届いた。
青い封筒に金蝋で封印された――獅子の
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