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 私にはペニスにまつわる、不思議な記憶がある。きっと普通の女の子は持ち得ない記憶だ。父親や兄弟のものでもない、クラスメートや恋人のものでもない、少しおかしなペニスの記憶だ。

 それは、まだ私が学生だったときに、電車の中で遭遇した出来事だ。そのときの私は席に座らず、電車の入り口付近でぼんやりと佇んでいた。その電車は左右に長椅子が向かい合って置かれていて、その前につり革が等間隔でならんでいる、よくある電車だった。電車は各駅停車で、誰も乗り降りする人がいないような駅で停車しては、まただらだらと走り出していた。私は肩に掛けた鞄の紐を直しながら、ぼんやりと窓の風景を見つめる。昼下がりの呑気な陽光がさんさんと差し込む、罪のない車窓だった。そのとき車内は混み合っておらず、ふと、私の視線は自然と向かいに座っている、眼鏡をかけた学生に向かっていた。

 その男は股の間に置いていた、赤紫色をしたステンレス製の水筒の蓋を開けようとしているように見えた。股の間に固く挟み、蓋をしきりにこすっていたからだ。なんだか落ち着きのない動きで、私は見るともなくぼんやりと見ていた。手を貸してあげようか、と思うぐらい、その水筒のフタは開く様子がない。しかし、私はだんだん、その様子がおかしいことに気がついた。


 あれは水筒ではない?

  

 よく見ると男がしきりにこすっていたのは、男自身のペニスだったのだ。私は自分が思い当たった事実を信じることができず、そうではなくあってくれ、と願いながらもう一度男の水筒を見つめた。しかしそれはどう見てもペニスだった。先走りで濡れて、てらてらとグロテスクに光る、見間違えようのないペニスだった。男はまったく真面目な顔をして、電車の中で自慰にふけっていたのだ。不自然に興奮している様子も、しきりにあたりも見回す様子もなかった。ただただ、勤勉な様子で、真剣に自慰にふけっていたのだ。

 私はそのことに気がつくと、そっと、しずかに隣の車両へ移動した。事態を受け入れられず、逃げだしたのだ。

 周りの乗客は、その学生が自慰をしていることに気づいているのか、いないのかわからなかった。私以外のだれもが、注意を払っていないように見えたからだ。みな携帯電話を覗いているか、眠っているかをしていた。そうなると私は自分に自信が持てなくなる。あれは水筒だったのかもしれない。私が水筒をペニスと見間違えたのかもしれない。しかし、もとの車両に戻って、本当のことを確かめる勇気もなかった。あれがペニスだろうと水筒だろうと、もう私には関係のないことだ。

 私はヨウにペニスがないことを告白されたときに、まっさきにあの男のペニスを思い出した。ヨウにも同じものがついていないことを残念にも思うし、安心している自分がいた。バスタオルの結び目をほどき、そこに水筒をはやしたヨウのことを考える。美しいヨウの体についた、赤黒い水筒。その水筒には、もちろん、回してあけるフタと飲み口がついている。そしてせわしなくその水筒の蓋を開けようとするヨウの手首と、指先を。それはヨウらしくない、醜い格好だ。私は思わず眉間に皺を寄せ、考え込んでしまう。

 ペニスがついたヨウのことを、私は好きになれるだろうか?

 ヨウのペニスはどんな形をしていたらいいのだろう?

 ヨウについたペニスを、私は愛せるだろうか?


私は本当に、ペニスが欲しいのだろうか? 「あんなもの」が?


 ヨウが無性であるということが分かってから、私のヨウに対する気持ちは随分変わってしまった。彼の指、彼の笑った顔、それらはすべて女性のものだと思うと、私の心は急に暗く沈んでいく。彼は女性なのだ。彼が腰に巻いたタオルを取り外せば、そこには私が持っているものと同じ、湿り気のある唇とそこにひそむクリトリスがついている。私の変化を感じたヨウも、悲しそうな顔をしていた。

 彼がいつも通り、私を寝台に寝かせ、膣内に指を差し込む。そして私の内臓が大好きな彼の指をしめつけるたび、もっともっととねだる自分がいた。その乾きは指の本数を二本から三本に増やしても満たされなかった。ヨウの舌でも、鼻先でも足りなかった。

 ヨウが物足りなそうな顔をしている私に、作り物のペニスを入れてみようか、と提案したことがある。私はその提案を首を振って却下した。だって、私は、自分についてないものが欲しいのだ。そして、あなたについているものが欲しいのだ。誰かに似せて型を取って作られたペニスなんて、ちっとも欲しくない。

 私が息苦しさを払うように首を振るたび、脳裏には赤紫色をした水筒の影がちらついた。

 そしてそれは私を苦しめ、ヨウ自身をも強く困惑させた。

 

 ヨウと私のセックスは、彼の告白を聞いてからみるみる温度が下がっていった。

 それと同じくして季節が移り変わり、外の気温もどんどん下がっていく。


 その日は風のない、おだやかな雨が降っていた。大きな雨粒が道路を打つ音、葉っぱを打つ音、屋根から落ちる雨だれの音がしていた。なぜかそのときは、部屋の換気扇も空調も止まっていて、雨の音だけが浮きだって聞こえていた。私は季節外れの半袖の白いTシャツを着ていて、ヨウはフランネルシャツを折り目正しく着こなしていた。私の右腕と左腕には、うっすらと鳥肌が立っている。

 そのとき、私はとうとう彼に言った。


 もうここには来ない、と。


 私の言葉を聞いて、ヨウが言った。

「そんな気はしていたよ。そして、それが今日になるだろうってことも」

 ヨウは悲しそうな、傷ついている顔をした。私にはその表情が演技なのか、本当に傷ついているのかわからない。そして、こうも付け加えた。

「みんなそうだった。なにも、君だけじゃない」

 私は荷物を抱えて部屋を出た。ヨウは身じろぎひとつせず、私から背を向けることも、目玉を動かして私を見つめることもしなかった。ただ中空を見つめ、じっと座っていただけだった。私と彼の間には雨音がある。

 私がLATTEを出ると、えんえんと悲しみの雨が降り続いていた。それは私の穴をしっとりと濡らして、埋めていく。それを私は、ひとつも望んでもいないのに。


 帰宅してすぐ、私は自室のクローゼットの奥から不織布で出来た小さな袋を取り出した。そこには二本の、男性器を模したおもちゃが入っている。ひとつはゴム製であり、サクランボのような赤い色をして、きれいに透き通っていた。もうひとつは、プラスチック製だ。ペニスを模したというよりも、文房具に似ている。少し太いボールペンのようにも見え、先はほんの少しだけL字型に折れ曲がっていた。

 私は身につけていたスキニーパンツを引きずりおろし、彼がほめてくれたユニクロの下着を脱ぎ捨てる。そしてベッドに倒れ込み、ピンク色をした、細いプラスチックの棒を自分の膣口にあてると、勢いよく押し込んだ。先が火かき棒のように曲がったそれは、私の内側を強く押し込んでくる。これはヨウの繊細な指先ではなしえない事だし、私が望んでいた痛みを与えてくれるものだった。棒はどんどん自分の内側に入り込んでくる。外に見えている持ち手の部分が見えなくなったところで、私は奥に進めるのを止めた。私はヨウのことを思い出す。

 私は自分の中に差し込まれているピンク色の棒がヨウのものだったらいいのにと思った。皮も肉もない、細身で血の通わないペニス。それでいて、ヨウの意思を持ったペニス。きっとヨウのペニスはこうあるべきなのだ。赤黒く、垢のたまったものではけしてない。私は先が曲がったそのおもちゃで、耳かきをするみたいに一番奥を腹側に向かって押し、手前に引いた。私のなかの空洞が何もないところを締め上げ、知らないうちに奥側から湧いて出てくる水を感じた。

 でも、ヨウなら、と私は思う。

 彼の整った指先をくわえ込めば、水はもっとあふれて出てくるのだ。まるで栓を抜いたように。自然と私の目の後ろに涙がにじみ、くたびれた枕カバーに吸い込まれていく。

 ――これは誰のために流している涙なのだろう?


 ヨウ、と私は声を漏らす。

 

 それはひとりの室内に生まれてすぐに消えていった。受け止める人は誰もいない。

 私の体の真ん中には、大きな穴が変わらず空き続けている。


 秋を思わせる冷たい風が、ひゅうひゅうとその穴を通り抜けていった。

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空洞をもつ私、剣をもたないあなた トウヤ @m0m0_2018

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