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 私はヨウ自身に手入れをしてもらう、彼が持つ手指の爪について考えることがとても好きだった。外側に反ったふちを持つ、銀色の小さなフィンガーボウル。そこには水が中ほどまで張られている。その水は指先を甘やかすような温度までぬるめられており、彼が右手の指先をそっとその水に浸すと、だんだんと爪の根元を覆う甘皮がふやかされていく。頃合いを見計らって指を引き揚げ、はがれ落ちた甘皮をプッシャーで押し上げ、余った部分を切り落として取り除く。それから指についた水滴を乾いたタオルでぬぐって、爽やかなオレンジの香りがする、キューティクルオイルで指先のひとつひとつをゆっくりと揉む。仕上げに、伸びて白くなった爪を目の細かなガラスのやすりで削り落とす。削られた爪は、粉雪のように机の上にひらひらと落ちていく。さりさりさりさり……。


 そんな風に手入れをされた爪先は、私のどこを触ってもけして傷つけることがない。

 

 ヨウは私の膣に指を入れ、かき回すことがとても上手だった。その指は不躾で遠慮がないのに、私の中を器用に甘やかした。

 指で十分なのだ、と私は私に言い聞かせる。


 そこに性器の挿入がなくても、セックスはセックスなのだ、と。


 しかし私は、彼と何回も体を重ねるうちに、ひたすら穏やかでやさしい彼に物足りなさを覚えるようになった。私の体へ時間をかけて愛撫をして、できる限り丁寧にペッティングをして、それで終わり。

 その物足りなさにひとたび気づいてしまえば、そのことは無視が出来ないほど深刻になり、私は食べ足りない子どものような顔をしてLATTEを去っていくようになった。きっと、ヨウもそのことに気づいていたのではないだろうか?

 そして、いくらヨウの手が魅力的で美しくても、やはり膣には、指ではなくペニスが挿入されるべきなのだ。と、私は考え出すようになる。お刺身には醤油、コロッケにはソース、というふうに。

 ある日、私はとうとう我慢が出来なくなって彼に聞いた。

「いつになったら、指じゃなくてペニスを入れてもらえるの?」

 シャワーを浴び終わった後、足に靴下をかぶせながら私は聞いた。内心、彼に嫌われないかとてもどきどきしていたが、できるだけなんでもないことのように聞いた。私の言葉を聞いて、彼は聞き分けのない子どもを見つめるような目をして私を見つめた。

「どれだけ君にお金をもらっても、僕はそういうことをしないよ。誰にもしない」

 予想がついていた答えだった。私では勃起しないの? と口にしかけたところで、彼が体を起こし、寝台から降りた。そして傍らに立つと、「見て」と短く私に命令をした。私も体をまっすぐにして、彼を見つめると、彼は腰に手をやり、巻いていたバスタオルの結び目を解いた。私は、ああ、と納得した声をあげる。それじゃあ、私にペニスを見せられないわけだ。


 バスタオルの下には、ペニスがなかった。

 私と同じ、何もない鼠径部があるだけだった。


 その乱れた陰毛の下には、私と同じ、丸く尖ったクリトリスと陰唇がしまいこまれているのだろう。


 僕にはペニスがない。ヨウが私のとなりに腰を掛け、自分の体の事情を話す。

「僕は女だ。健康保険証にもしっかりそう書かれている。ただ、自分の体で女の機能がちっとも働いていないんだ。まず、生理がない。まったくない。子宮はあるんだけど、全然仕事をしていない。ただ器があるだけ。そして、君も見たとは思うけど、胸もまったく膨らんでいない。胸の上に紙を敷いて、その上で印鑑を押したっていいぐらいだ。それで骨格は男みたいだから、女性用の制服を着ているとすごく似合わない。学生だった頃は登下校の時にいろんな人に振り返られた。まるでおかしな物を見るみたいにね」

 私はブレザーの女子制服を着ている、中学生のヨウを想像した。たしかにそれは、女装をした男子中学生のように見えるかもしれない。声も低いし、背も高いし、肩幅も女性のものではない。きっと私も当時の彼を目にしたら、奇異の目で見てしまったことだろう。ヨウは話を続ける。

「でも男でもないんだ。なんていったって、ペニスがない。クリトリスとヴァギナはついているけど、排泄機能以外に意味を持たない。だから男性用のトイレやお風呂にも入れない。僕は彼らといっしょに着替えることが出来ない。つまり、僕は――」

 ヨウはここで言葉を句切る。言葉を選んでいるみたいだった。

「――僕は、どちらの仲間にも入れてもらえないんだ」

 そう語るヨウの声は、とても悲しいものだった。私は彼を慰めようとして言葉を探すが、そのどれもが不適当で口を閉ざした。ヨウが私の戸惑いを察したかのように、先回りをして話をしだした。

「僕の話を聞いた人は、だいたいこのような事を言う。『治療しないの?』」

 私はその言葉を聞いて驚く。その言葉は、いままさに私が彼に問いかけようとした言葉だったからだ。

「女性なのに月経がないことはおかしいことだ。だから、婦人科へ行って医者に診て貰って、適切な治療を受けたらいい。それは確かに、もっともなアドバイスだ。子宮があるのに、機能していないんだから。でも月経が『ない』なら『ない』で、ひとつも不便なことはない。それに、僕にとっては毎月毎月血を流して平然としている君たちのほうがどうかしていると思うよ。想像するだけで、すごくグロテスクなことに思える。

 『治療』として、薬を飲んだり注射を打ったりして月経を起こし、乳房が膨らむようにする。それは君たちにとっては自然なことかもしれない。でも僕にとっては不自然なことだ。今のままで、僕はまったく不自由していない。それなら僕はいったい何を『治療』しないといけないんだろう?」

 私には返す言葉がなかった。たしかに、生理がないことはとてもいいことだ。婦人科にかかり、「治療」をしているのに、月経が始まりお腹が痛くなるなんて、筋の通らない事に聞こえてくる。

「でも男にもなりきれないんだ。だってペニスと睾丸がないんだから……。こんな体で公衆の浴場なんていけないだろ。女湯に入ったら間違いなく警察を呼ばれるし、男湯に入ったら奇異の目で見られる。

 おかげで僕は温泉というものに入ったことがないよ。あれって、入ると肌がつるつるになって体がすごく温まるんだろ? あせもや肩こりも治っちゃうってウワサだ」

 ヨウはここで言葉を句切り、長いため息を鼻から吐き出した。

「一度くらい、パウダーを溶かしたお湯じゃなくて、天然の温泉に入ってみたいな……」

 私は彼にかけるべき言葉を見つけられない。それからしばらくして、やっと言葉を出した。

「温泉って、そんなにいいものじゃないですよ」

 そういうと、彼は暗い表情をゆるめて、私に笑いかけた。

「そんな気はしていたよ」

 そして、余計なひとことも付け加える。

「君は優しいんだね……」

 寝台の上で、私たちは手を滑らせて重ねた。ヨウの手の平が下で、私の手の平が上になっている。せまく小さい手のひらと、それにつながる短い指を持つ私。広い手のひらと、それにつながる長くて、きれいな指を持つヨウ。まったく性質が違うのに、性別が同じであることが信じられなかった。

 私が彼のことを慰めてあげられたらいいのにと思う。だけど、その場合、私は彼をどうやって抱いてあげたらいいのだろう? 彼についたクリトリスを指でこすればいいのだろうか? 彼のヴァギナに、あるいは肛門に作り物のペニスを挿入したらいいのだろうか? 無性の「彼」を、どうやったら愛してあげられるのだろう? 

 いずれにしても、私にできることはなさそうだった。私は女性の異性愛者で、彼の本質は女性だった。その矛盾が私を強く混乱させる。

 彼とふたりで沈黙に耐えている中、私の鼠径部にしまい込まれた陰唇は濡れたまま、しくしくと蠢いていた。まるでさみしいさみしいと泣きながらしゃっくりをあげる、小さな女の子みたいに。

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