俺と悪夢とセイル=パーナー 2

 俺が初めて出会った頃からいつも身に纏っていたローブを、今俺の目の前にいる女性は身に着けている。

 フードを脱いでいるけれど、なぜかその顔には影がかかっている。

 俺の記憶が薄れたせいなんだろう。


 けれど、あの頃から変わらない声と話し方。

 そして肩まで伸びているストレートの黒髪も変わらない。

 そして、青い肌。

 それだけでも彼女だということは分かってる。

 そして、先に見た夢の時とは違い、おそらく穏やかな表情をしている。

 見えないけど、分かる。


「そ、そんな事、……ない……」


 言われて初めて気付く。

 しかし何の抵抗もなく「お姉ちゃん」と呼んでしまってた。

 この年になって「お姉ちゃん」だなんて呼び方を言うはずがない。

 俺は自分の体を見まわした。

 彼女の言う通り、いつもの体じゃなく、子供の頃に戻っていた。

 肌の色も青くはなく、人族の肌色の一つのぺールオレンジ。


「……また、あの時のことを見てたのね」


 そうだ。

 見る悪夢と言えば、いつもあの夢だった。

 目が覚めるとどんな夢だったか思い出せない、あの時のこと。

 あの時に流した涙が、その悪夢を見るたびに出る涙がまた流れ出てきた。

 あのときに、もし彼女を助けることができたなら。

 あのときに、もし自分がもっと力と知恵を持っていたなら。

 けれど、それらを携えてあの頃に再び戻ることはあり得ない。

 だからこそ、多分この先、この涙は尽きることはない。


「ここじゃ無理しなくていいんだよ。私には、ヒーゴ君はあの頃のヒーゴ君のままなんだから」


 今の俺だったら、確実に救出できていた。

 そして、あの頃と変わらず、笑顔が絶えない毎日を過ごせていたはずだった。


「何度も言ったよ? でもそれも忘れてしまうのね。大丈夫。忘れたら何度でも言ってあげる。本当は、助けに来てくれてうれしかった。かっこよかったよ。ヒーゴ君」


 そんな言葉は聞きたいとは思わない。

 逆に、聞きたくない言葉だ。

 助けてくれてありがとう、と言われたかった。

 けどそれが叶わなかったからこその、彼女の口から出てきたその言葉。

 あの時の俺は非力だった。

 その現実を俺に叩きつけてくる。

 そしてあの時以来、彼女の姿を見ることはできなくなった。

 それが避けられない運命と知っていたなら、せめて最後に別れの言葉を言えたのに。

 伝えることはできなかった。

 けれど彼女にそれを言うことはできない。

 夢から覚めた後の現実の世界でも、それを引きずってしまいそうだったから。

 そこで会えない苦しみがずっと続くかもしれない、と分かってたから。

 そんな苦しみを受けるかもしれないと思ったから、夢の中でも彼女に触れることも、これ以上近づくことも俺は拒否してきた。


「ヒーゴ君は、相変わらずまだまだ子供だね。夢から覚めたら、次の夢まで会えないから辛い、とか思ってるんでしょ? 大人なら、それくらいのこと我慢できるよ?」


 見透かされている。

 どんなに命が危ない場所でも、平気でそんな戦場へ赴くことができる程になれたというのに。

 こんなことがそれよりも辛く苦しいと感じていることを、既に知られていた。


「セイル、お姉ちゃん……」

 何かを言いたい。伝えたい。

 こんな時にしか言う機会がない。

 けど、何を言えるのかが分からない。

 夢から覚めた時、心が乱れるあまりこの仕事ができなくなってしまっては本末転倒。

 どんなことでも、たとえ一言でも彼女に何かを伝えることで、そんなことになりそうな気がした。

 だから、それ以上は何も言えなくなってしまう。



「……ヒーゴ君。君なりに、私のために何かをしようとしてくれる君のこと、好きだったよ」


 明らかに年下に向かって言う言葉だ。

 けれど、それでも自分がしたことに意味があったことが分かる。

 何かを言わずにいられない。

 けれど、何も言うことができない。


「……ヒーゴ君。私の願いを聞いてくれて、ありがとうね」


 そんなことないよ、と言いたかった。

 そんな当たり前の返事をすることさえ我慢しなければ。


「あの夢を見て辛い思いをして、それが目覚めた後に響くかもしれないって恐れてるのも知ってる。だからその記憶はいつも私が預かっていくけど」


 ……そうだった。

 彼女と夢の中で会うたびに、別れ際にいつもそれをしてもらっていた。


「それでも、私の願いだけは忘れずにいてくれた。本当にありがとう」


 いつの間にか止めた悔し涙。

 けれど、また新たに涙が溢れそうになる。


「……私も、愛してる」


 そうだ。

 ここで会うたびに、彼女にいつも不満を感じていた。

 それは、いつも俺を年下扱いすること。


 最初に出会ってから、ずっと憧れの存在だった。

 いくら好きという気持ちが募ってくっつくようになっても、年下をあしらうような態度しかとってくれなかった。

 それが、不意に対等な立場でなければ出てこない言葉を聞かされた。

 しかも、私「も」と言っていた。

 俺が彼女に、一番伝えたい感情の言葉。

 彼女から返ってくることはないと思ってた言葉。

 そして、俺の気持ちを知り、それに応えてくれた言葉。


 それが今、初めて聞いた気がする。


「……いつも言ってたんだけどね。それも忘れちゃうんだもんね」


 そうだったっけか?

 彼女を見ても、相変わらず影に覆われている。

 でも、何となく苦笑いしているような気がした。


「あ……」


 一筋の涙が流れ、そこからはその涙はもう止まらなかった。


「でもね」


 否定しそうな言葉が耳に飛び込む。

 途轍もないうれしさから、とてつもない絶望に突き落とされるような気がした。


「新しく知り合いが増えたでしょ? 名前知ってる人知らない人、たくさん。そっちにも気を向けなきゃダメだよ? 私のことは忘れても忘れなくてもいいから」


 その予想は斜め上を通り過ぎていた。

 新しく?

 あの孤児たちのことか?

 名前を知ってると言えば……あぁ、あの女のことか。


「……また今回も、夢の中であなたの心を乱す全てのことを持ってってあげるから、ね?」


 今回の夢の中で、一番胸を動かされた。

 彼女は俺のことを、今まで名前でしか呼ばなかった。

 そんな彼女が俺のことを「あなた」と初めて言ってくれた。


 心を乱す原因を、すべて持って行ってくれるというのなら。

 俺は最大の勇気を振り絞った。


「お、俺も……愛してる。セイル!」


 彼女を正面に見据えた。

 相変わらず影がかかっている。

 けれど、彼女も嬉し涙を流しているのは分かった。


「うん。私も。だから、現実世界にいる間は、お互い我慢だね。……周りの人達のことも、私を見るように、よく見てあげてね」


 彼女の姿が次第に光の中に溶け込んでいく。

 光だけの世界が、次第に暗くなるが、ある程度あの明るさはそのまま残る。

 再び静寂が訪れるが、何やらまた妙な音が耳に入る。

 そしてなぜか、足が重くなっていった。


 ※


「う……う?」


 明るく感じたのは、窓から差し込む朝の光のせいだった。

 聞こえていたのは、外にいる鳥の鳴き声。

 足が重く感じていたのは……。


「……なんで俺の部屋にいるんだ……。部屋、間違えてなかったよな。……お前、夜這いが趣味なのか?」


 ベッドのそばに椅子を置き、それに座って俺の足を枕にして眠るミーンがいた。

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