第2話
「ふはははは! やった、やったぞ! やはり誰がなんと言おうと勝者はこの俺! 俺こそが覇者なのだ!」
帰って来た時とは全く逆のテンションでミジョアは寄宿舎を飛び出した。
校舎と寄宿舎を繋ぐ一本道、通称下宿通りにしばし佇み、往来の視線をたっぷり引きつけてから普段とは逆方向に折れ曲がる。そのまま正面の小高い丘に向かって歩を進めた。赤土の斜面は決して緩やかではなかったけれど、まるで靴底がスポンジで覆われているかのように足が弾んだ。
いかん。落ち着け落ち着け。ミジョアは胸に手を当てて自分に言い聞かせる。
こんなことで燥いでどうする。父上の仰ったとおりだ。ヴィッテルスバッハの人間にとってこんなことはただの通過儀礼、助走もなしに歩いて跨げる最低限のハードルなのだ。上の兄も下の兄も平然と真顔で通った道、決して燥ぐようなことではない。
などといくら言い聞かせてみても、気が付けば手はポケットの中で届いたばかりの封書をまさぐってしまう。ついさっき学校の事務職員から恭しく手渡された薄紫色の通知書。
個室使用許可書
ミジョア・ヴィッテルスバッハ 殿
本日より花屋敷の使用を許可する。
一年生学年主任 マリア・ハルパル
本当に薔薇の花押が押されているんだな。一応鼻を近付けてみたけれど、さすがに匂いまではしなかった。
ミジョアは坂の途中で立ち止まると、遠い目で寄宿舎を見下ろした。
仮の宿だと言い聞かせ一年間辛抱した狭くて古くてボロい掘建小屋。こうして改めて見てみてもやっぱりボロい。狭い部屋、汚い風呂、一日中鳴りやまない喧騒、実家の屋敷に比べればまるで動物の檻のような住まいだったが、出て行くことが決まってみると不思議とフレイの歯ぎしりすら懐かしい。
「……まあ、たまには顔を出してやるか」
誰に向かってでもなく独り言ちるとミジョアはまた歩き始めた。目指すは丘の頂上の三角屋根、その名も高き花屋敷である。
<マリアの御手>魔法学校では生徒の意欲向上のため、一年生・二年生の学年首席に翌年からいくつかの特権が与えられる。
その目玉が個室の使用権だ。小高い丘から寄宿舎を見下ろす三年生の星屋敷と二年生の花屋敷は、優秀さの象徴であり全校生徒誰もが夢見る絶対の憧れである。
「うむ、花屋敷の名にふさわしい外構ではないか!」
門前に立ち、ミジョアは満足げに頷いた。
色とりどりの草花に囲まれた庭付きの二階建ての洋館である。広さはそれほどでもないが、新しい。造りもしゃれていて、新しい。住む人を癒し温め優しく包み込もうという作り手の意匠がそこかしこから感じられる。そして何より新しい。
ミジョアは弾む胸を抑えながら、さっそく鉄製の格子門を押してみた。
もちろんビクとも動かない。
噂通りだ。ミジョアは思わずほくそ笑んだ。
それから許可書に同封されていた屋敷の取扱説明書に従って、門の取っ手に埋め込まれた薔薇のレリーフに指を添える。
「ラ・マリエ!」
短い呪文の詠唱に応えてギギギとゆっくり門が開いた。
魔法扉だ。事前に登録された呪文でのみ開閉する。ミジョアが通過すると門はまた唸りを上げて元へと戻った。こんなもの実家でだってお目にかかったことがない。
「素晴らしい……」
門扉から玄関に至るまでの短い小道のほうぼうにも、薔薇のレリーフはちりばめられていた。ミジョアはその全てを指でさし、片っ端から呪文を唱えて行く。
七色の水を噴き出す噴水台、勝手に火が灯る灯籠、旋律を奏でる楽器の彫刻、どれもこれも初めて見るものばかりである。
そう、これこそが花屋敷最大の売りなのだ。まだ世に出回っていない最新鋭の魔法設備がこの屋敷にはふんだんに投入されている。
「噂以上じゃないか。これこそ王者の居城に相応しい!」
ひとりでに走り出す芝刈り機を眺めながら思わず手を叩くミジョア、中に入る前からもうすでにこの家が気に入っていた。
「これはなんだ? おお、暖炉に火が! これから春だというのに暑苦しい。こっちはどうだ? なんと、冷たい風が出てきおるわ! 暖炉と勝負だ、どっちも頑張れ。こっちのレリーフは………魔法鏡! 庭の様子が丸見えだぞ」
屋敷の中も一事が万事この調子である。
扉はもちろん、窓も暖炉も見たことのない道具も、簡単な呪文一つで動作する。肉体的な意味で手を使う必要が全くない。花屋敷に一年住めばドアの開き方を忘れるというのは使い古されたジョークだが、あながち笑い飛ばすこともできないかもしれない。事実、ミジョアはこの屋敷に入ってからレリーフ以外の物体に触れていない。
「おおお、ソファがグルグル回転しおるぞ。ふはははは、天井から紙吹雪まで降ってくる。いつ使うんだこんなもの。やや、こっちの魔法鏡からは玄関が見えるじゃないか!」
その代わり、レリーフは総ざらいする勢いだ。
リビング、キッチン、浴室、トイレ、廊下、テラス、階段と目に付いた端から、『ラ・マリエ』だ。その度に燭台に火が灯り、窓が開き、蛇口がお湯を吐き出し、ピアノが歌ってミジョアを喜ばせる。
「素晴らしい、全くもって素晴らしいぞ……ふう」
魔法の自動階段に運ばれながらミジョアは顎に滴る汗を袖で拭った。足に若干のふらつきを覚えるのは、階段が動いているからではないだろう。
少し調子に乗り過ぎたようだ。
花屋敷では手を使わない代わりに魔法を使う。鍛錬の足りていない者ならとっくに魔力が尽きていてもおかしくないペースである。しかし、そこは腐っても――一般教養でも首席だ。ミジョアは最後の元気を振り絞り、二階の寝室になだれ込んだ。そして、飽きもせずに窓を開いては歓声を上げ、人形の目を光らせて感動し、小鳥の置物をさえずらせて大笑いし、最後にクローゼットの扉を開いて、中に座っていたエルキッサと目が合った。
……………え?
時間にして八秒ほど見つめ合っただろうか。
「ラ・マリエ……」
もう一度呪文を唱えると、バタンと音を立てて観音開きの扉が閉まった。ミジョアはそのまま三歩下がると、ゆっくりと床に膝を突いた。
………なに? 今の。
体表面全てから、ぶわぁっと汗が噴き出してくる。
眼球って汗をかくのか、そんなことを思いながらミジョアは念入りに眼鏡のレンズをハンカチで拭うと、もう一度クローゼットに埋め込まれたレリーフに触れてみた。
同じように魔法が作動し、同じように扉が開き、同じように三角座りのエルキッサが現れる。墨のような黒い髪、幽霊のような白い肌、沼のような陰気な目つき、間違いない。エルキッサ・マンガラ本人である。一つ一つの特徴を指さしで確認して、再びバタンとクローゼットの扉を閉じた。
どういう備品………?
ミジョアの心臓がかつて経験したことのない速度で暴れだす。肋骨と擦れて今にも火が出そうだ。もう一度、祈るような気持ちでレリーフに触れてみる。エルキッサは律儀に同じ姿勢のままそこにいた。
「何を…………やっている」
三度目の対面でミジョアはようやく言葉を発することができた。
「な、なんだなんだ……本当に……本当になんなんだ、貴様」
エルキッサが何も口を利かないので、ミジョア自身が言葉の続きを引き継ぐことになる。しかし、混乱しきりの頭からはいつものように言葉が出てこない。
「し、塩を売らんぞ?」
早々に決め台詞を使ってしまい、言うことがなくなった。相変わらず彫像のように無言を貫くエルキッサは、おもむろに膝を抱えた手を解くと、人差し指を立て、
「……ラ・マリエ」
ようやく発した第一声で、中からクローゼットの扉を閉じた。
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