あかいはな

だいち

あかいはな

 朝、目を開けて真っ先に目に入るのは色とりどりの花々に埋め尽くされた天井。一日の始まりにこの花達を見た回数は、まだ自分がこの世に生まれ落ちてから目覚めた回数の半分にもなっていない。

 だというのに、朝一番にこの綺麗な花に埋め尽くされた天井以外のものを見るという感覚は、もうわからなくなってしまった。



 脳がいまいち覚醒しきらないまま、ベッドから体を起こす。寝癖の付いた長い黒髪が、白いワンピースから剥き出しになっている肩を擽った。

 私の視界は起き上がったお陰で天井から壁へと移った。しかし、その移動した筈の視界にも変わり映えの無い、大量の花による色鮮やかな光景が広がっていた。私は寝ぼけ眼のまま頭を振って、数年間過ごして見慣れている筈の部屋を見渡した。

 天井も、壁も床もどこもかしこも花が敷き詰められた部屋。壁と天井にはまるでそこからそのまま生えているかのように剥き出しの花が隙間無く咲き乱れている。床にも一枚のガラスを隔ててはいるが天井と壁と同じように、今にもガラスを割り破ってこんばかりに花は咲き乱れていた。

 唯一花が無いのは二ヵ所だけ。その二ヶ所には、色とりどりな周りからすると地味にも見えるシンプルな白い扉がそれぞれあった。

 そのうち一つは、この部屋から出られない私の為だけに用意されたバスルーム。

 そして、もう一枚の白い扉は外からこの部屋に入ってくる為の扉。花の為に窓すら無いこの部屋を外と繋ぐものは、たった一枚のその扉だけだった。


 だが、ここと外を繋ぐものが一ヵ所しか無いのは、仕方が無いといえば仕方が無いのだ。

 私は、前例が殆ど無い奇病に罹っている。その病気は、突発的に起こる発作によって死に至るものだ。始めての発作ですぐに死ぬ事は無いものの、予期出来ない発作によって段々と命が削られていく。その病に、根幹からの治療法は無い。

 だが、病の進行を食い止める延命治療がただ一つだけ、ある。

 それが、この部屋なのだ。この部屋を埋め尽くすのは全て、『虹の花』と呼ばれる花だ。不思議な事に、この花に囲まれている限り発作は出ない。虹の花と共にあれば、命の心配は無いのだ。

 だから、この病気の患者は虹の花を必要とする。私が初めての発作を発症した時には、すぐにお父さんがこの部屋を用意してくれた。健常であった頃には見た事も無かった美しい花で、埋め尽くされた部屋。きっと、この花の価値は低くない。普通の小娘だった時の私なんかには、見る事すら叶わなかった程に。


 そんな花で埋め尽くされた部屋に、ただいるだけの私。私の価値は、この虹の花の花弁一片分もあるだろうか。



 その私の命を延ばす為だけに誂えられた部屋をぐるりと一周見渡して、思わず零れてしまいそうになる言葉をすんでで飲み込む。

 これは、この部屋で暮らし始めてからの毎日の習慣だ。別に、必ずならなければいけないというようなものではない。それなのに、私は飽きもせずに数年もの間毎日これを繰り返している。もう、抜けない癖のようになってしまった。


「ふあ」

 欠伸を一つ漏らして、ぐーっと体を伸ばす。幾分か意識が現実に引っ張られていくのを実感し、ベッドサイドの棚にある小さな花瓶に活けてある花を一撫でした。私の名前、ジャンシアナはこの花をもじって付けられたものらしい。唯一、この部屋にある虹の花以外の花だ。

 それからばさりと布団を蹴って足をベッドの外に投げ出した。体と共に回転する視界の端で、薄紅が舞った。 

 投げ出した足は殆ど運動という運動をしていないせいで、きっと同い年の子達と比べたらかなり細い。膝から上を覆う白いワンピースの裾と同じような色素をしていて、きっと赤の他人が見たら私はかなり貧弱に見えるだろう。

 この虹の花に囲まれた部屋にいれば、私は普通の子達と何一つ変わらないのに。

 そんな貧相な足を床に着くと、裸足のせいでダイレクトにガラス特有のひんやりとした感覚が伝わってくる。

 そのガラスの下にも勿論花は溢れんばかりにあって。それが美しいだけに辟易してしまいそうになる。虹の花はその名の通り、一輪一輪異なる淡く輝く色に溢れている。

 まさしくその名に相応しい、美しい花だけが咲き誇る部屋。その中にいる自分が、酷く不自然で不釣り合いに感じる事が、時々ある。ベッドサイドの小さな花を見て、本当にたまに、自分が惨めに思えるような時がある。

 いくらそういう事を考えたって、現状が変わるわけではないのに。


 華やかな色に埋め尽くされた視界の端で、黒がちらつく。寝癖が付いたままの自分の髪だ。それを撫で付けながら、私はひたひたと冷たいガラスの上を歩く。向かうのは、部屋の隅にある方の白い扉。

 そこを開けると、これまた花に囲まれたバスルームが私を迎える。流石にバスルームまでこうだとリラックス出来ないような気にもなるが、仕方が無い。この花が無くなったら、私はいつ死んでもおかしくないのだから。

 そう自分を納得させ、水道の蛇口を捻った。



 顔を洗って頭をすっきりさせた後、バスルームから出る。すると、タイミングを計ったかのように、今出てきたものとは異なる白い扉がノックされた。

「どうぞ」

「失礼します。おはようございます、シア様」

 白い扉の向こうからやって来たのは、私よりも小さな背の女の子だ。しかし、彼女の年齢は私よりも遥かに上だ。

「おはよう、リリィ」

 彼女はリリィ。本名はアマリリスという。リリィは私の家のお手伝いさんをしている。こんな面倒な私の世話をして、話し相手にもなってくれる優しい人。私は彼女を友人だと思っており、愛称で呼んでいる。リリィもまた、私を愛称で呼んでくれている。

「今日の体調はいかがですか。 朝御飯は食べられそうですか?」

 優しい微笑みをたたえながら、リリィは二人分の朝食の載ったトレーを部屋の真ん中にあるテーブルに置いた。

「うん、勿論。私はここにいる限り元気だって事は、あなたもよく知っているでしょう」

 テーブルを挟んで二つ、向かい合って置いてある二人掛けのソファに一人ずつ腰掛けながら、私も笑顔でリリィに返す。

 リリィが置いてくれた朝食を前に、二人揃っていただきますを唱えた。



 朝食を食べ終えると毎日、リリィはお茶を淹れてくれる。食器を片付け、カチャカチャと二人で茶器を準備する。ポットを温め、そのお湯を捨てて。リーフを入れて、お湯を注いで蓋をする。二人で行うこの準備は、一日の中でも特に穏やかで、心が柔らかくなるような感覚を覚える。


 ポットの中身が充分蒸らされた頃、リリィがカップに向けてポットを傾ける。透き通った黄緑色のお茶が注がれると同時に、爽やかな香りがふうわりと広がった。この沢山の生花に囲まれた空間でも分かる香りの強さ。恐らくこれは、ハーブティーの類いだろう。

「ねえリリィ。これもしかして、カモミール?」

「はい。以前シア様がこれは特に好きだと仰っていたので」

 ティーポットを持ちながら、リリィはたおやかに答えた。


 カップに口を付けると、更に爽やかな香りが強くなる。お茶を飲むと、心が柔い毛布に包まれているような、そんな感覚が私を包む。

 お茶を飲みながら、私とリリィは話をする。話と言っても大層で大仰な話なんて全然しない。いつもするのは、とりとめも無い話。リリィが見かけた可愛い動物の話だったり、私が読んだ本の話だったり。まあ、私はこの部屋から出られないから、主にリリィに話をせがんでしまうのだけれど。


 いくらゆっくりお茶を飲んだって無限に湧き出てくるわけでは無いのだから、いつかカップの底は真っ白になる。それは、この楽しい時間が終わる合図だった。

「シア様、私は仕事に行って参りますね」

「うん……。早く帰ってきてね」

 毎日の事なのにいつも拗ねたように送り出してしまう。そんな私に、リリィは微笑む。

「勿論です。お昼は一緒に食べれますでしょう?」

 まるで駄々っ子を諭す母のように、リリィは言う。この貧相な自分よりも小さな体なのに、やはりリリィは年上のお姉さんなのだ。その笑みは、全て包み込む真綿を思い起こさせる。

「わかった……。待ってるからね、リリィ」



 リリィが仕事に行ってしまえば、私には何もやりたいと思える事が無くなってしまう。ソファの背もたれに勢い良く体を預け、頭を反らした。

「ひーまーだー」

 誰もいない部屋で足をばたつかせ、口に出してもどうにもならないのに言葉を紡ぐ。誰からも返答が無いのだから、余計寂しくなるだけなのに。

 逆さまになった視界に本棚はあるものの、あそこにある本達を読む気にはなれない。この部屋にある本は、全て四回は読んだ。お気に入りは六回読んだ。流石に飽きが来る頃だ。新しい本が読みたいけれど、我儘かと思うとそんな事は言えない。

 いっそ寝てしまっても良いかもしれないけれど、時間を無為にしているようでそれは嫌だった。かといって、何もしないでぼやいているこの時間も、きっと無為になってしまっているのだろう。



 ぐだぐだと、時間を無為にしてどれくらい経ったろう。この部屋には時計も無いので、自分が無為にした正確な時間はわからない。

 本当に何もせずに過ごしたのだったら、読み飽きた本を読んだり、寝てしまった方がいっそ良かったかも。

 そう思って、ソファに勢い良く上半身を横たえた。私の体重にぼすんと音を立てたソファが、やけに空しい。

 やはり、横になっても見える景色に大差は無かった。せいぜい、テーブルが大きく見えて、その向こう側にさっきまでリリィが座っていたソファがあるくらいだ。

 あ。でも、ソファの下に何か落ちている。きっと面白いものでは無いだろうと思いつつ、漸く見つけたいつもと違うものに私の興味は動いた。

 お金だ。しゃがんでソファの下を覗き込むと、一枚の硬貨があった。確かに面白いものかと問われると首を傾げざるを得ないけど、一瞬でも退屈から抜け出せた。それだけで、私には充分だった。

 拾った硬貨に光を反射させながらソファに座っていると、ノックが響いた。きっとリリィだ。

「リリィ? もうお昼なの?」

 私の問い掛けに、扉の向こうでリリィが微笑む気配がした。

「いえ、まだ十時にもなっていません。ラヴァンド様がいらっしゃったのですよ」

「本当!?」

 そのリリィの答えを聞くや否や、私はすぐに扉へ駆け寄った。

 その気配を感じ取ったのか、扉のノブが回る音がした。いや、きっと扉の向こうにいる二人には気配云々なんて関係ない。私が扉へ駆け寄った事なんて、お見通しなのだろう。


「や、シア。また退屈してたんだろ?」

 リリィと一緒に部屋に入ってきたのは、綺麗な薄紫の髪を持つ少年。ラヴァンドという名前の彼は、リリィと同じ私の大切な友達だ。

「勿論! 本も読み飽きてしまったし、さっき拾ったお金で退屈を紛らせていたくらいだもの」

「そりゃあ、相当だな」

 平均よりも小柄な私が背の高いラヴァンドと話すには、首をかなり逸らさなければならない。少し上向いた視界には、薄紫の髪の向こうに白い扉がある。それはいつも色とりどりの花を見ている私からしたら、とても新鮮に感じられて好きだった。

「ねえ、また外の面白い話を聞かせてくれるんでしょ? 早く座って」

 私はリリィに拾った硬貨を手渡すと、常よりも声を弾ませながらラヴァンドの手を引っ張って、ソファに座らせた。リリィとする話もとても楽しいが、ラヴァンドの話はまた別の面白さがある。

 ラヴァンドは、話すのがとても上手なのだ。話の順序立て、声のトーン、表情、間の取り方。どれをとっても本当に私と同い年の子供なのかとある種の疑いを覚える程に上手な話し方。ラヴァンドの話は、まるで私がその話を体験しているかのような心地になる。

 彼の話は、本当にとても楽しいのだ。

「ああ、ちょっと落ち着けって」

 向かいのソファに座って苦笑するラヴァンドに、私は期待の眼差しを向ける。

「そうね、そうよね。それとリリィ、あなたもたまには聞いていったら? ラヴァンドの話は、ほんっとうに面白いんだよ」

 本当はリリィも一緒に三人で話せたらいいのだけれど、彼女には仕事がある。もしラヴァンドがお昼もここで食べていくなら、三人で話せるのだが。

 その事はわかっていても、やっぱりたまにはご飯以外の時間も三人一緒に話したい。

「ラヴァンド様、昼食はどうされますか? ここで召し上がっていきます?」

「ああ。お願いするよ、リリィ」

 まるで私のそんな思考を読んだかのように、リリィがラヴァンドに昼食の事を訊ねた。本当にリリィには私の考えている事が分かるのかもしれない。



 ラヴァンドの話はとても楽しくて、時間が経つのが何倍速にもなったような気がする。いつの間にかお昼の時間が来て、三人で昼食を食べてから食休みと称してお喋りもした。それは、いつもラヴァンドが遊びに来てくれる時と同様に、いや、いつも以上に楽しくて、面白い時間だった。


 ラヴァンドが帰ってしまった後、私はソファに座ってラヴァンドが語ってくれた話を反芻していた。ラヴァンドは、いつもこんなに楽しいのだろうか。いや、実際に体験するのでは、違うだろう。きっと、もっと面白くて楽しいに違いない。

 それに、私だけがいなくてリリィやラヴァンド、お父さんがいる外はどれだけ楽しいのだろう。きっとこんな退屈に苛まれるような事なんて無いだろう。そして何より、私の好きな人達がいる。

 皆と、世界の共有がしたい。

 いつも心の奥底で燻っているその欲求が、なぜか今日はいやに強かった。


 外に、出たい。

 病気になる前は、好きな時に好きなだけ外を走り回れた。けれどそれはもう何年も前の事で、今はこの部屋の中を歩き回るくらいしか出来ない。

 どうにかして、外に出る事はできないだろうか。

 その思いを忌みながらも、私はそれを考えずにいられなかった。



 もしか、したら。

 外に出られるかもしれない、その考えが一つだけ、思い浮かんでしまった。

 もしかしたら、この花を持って行けば外に出られるのではないだろうか。一輪程度じゃあ駄目かもしれないけれど、花束の様にして持って行けば、大丈夫ではないだろうか。それに、ほんの少し部屋の外に出るだけ。発作が出たら、すぐに部屋に戻れば。


 一度芽生えたその考えに、駄目だ駄目だと理性が叫び散らす。だがそれでも、考えは私の脳から消えてくれなかった。


 熱に浮かされたような心地で、私は壁にある花を何輪も手折った。両手で抱えられるくらいの虹の花が、私の腕の中にある。これだけあれば、多少外に出るくらい大丈夫だろう。駄目だったら、すぐに引き返す。

 そう心の中で唱えて、私は白い扉のノブに手を掛けた。

 しかし、白い扉の向こうに広がっているのもまた、私の腕の中にある花と同じ虹の花だった。どうやら、二重構造になっているらしい。白い扉を後ろ手で閉め、眼前にある黒い扉のノブを回した。

 ギィ、と蝶番の音がした。



 誰かが、何か言っている。ああ、私は何をしていたんだっけ。

「シア‼」

「シア様!」

 目を開けると、そこに広がっていたはいつもの花だけの天井ではなかった。虹の花よりもっと近くに、心配を顔いっぱいに浮かべたラヴァンドとリリィの顔があった。二人とも瞳に、薄く水の膜が張っていた。

「なぜ、なぜこんな事をしたんだ! ジャンシアナ!」

 その二人の向こうにいたお父さんが、私はに叱責を飛ばした。いつも優しいお父さんの荒らげた声を聞いたのは、これが始めてだった。強い叱責に、私だけではなくリリィとラヴァンドも体を跳ねさせた。


 私は、部屋の前で黒い扉を開けたまま倒れていたらしい。周りには虹の花が散らばっていて、私が自分で部屋を出ようとした事は一目瞭然だったのだという。

「なぜこんな事をしたんだ、ジャンシアナ。アマリリスがお前を見つけるのがもう少し遅れたらどうなっていたか、わかっていただろう」


 先程の感情をぶつけるような声ではなく、いつも通りに落ち着いた声で、お父さんはもう一度私に問うた。

「外に、出たかったの。本当はいけない事だってわかってた」

 自分が被害者というわけではないのに、むしろ自分で蒔いた種だというのに、鼻がツンとする感覚がする。

「でも、もう一度、皆のいる世界が見たかったの」

 声に、湿っぽさが混じる。目尻から、温い水が溢れだす。

「勝手な事をして、ごめんなさい。今回の件で、私が間違っていた事は骨身に染みてわかった。皆に、すごく心配させたと思う。ごめんなさい」

 こんなところで泣くのは、まるで赦しを請うているみたいで嫌だ。なのに、頬を伝う雫は止まらない。嗚咽を漏らしながら俯く私に、ふわりと優しい何かが覆い被さってきた。

「本当に、もうこんな事はしないでくれ……」

 お前まで、私の前からいなくならないでくれ。


 お父さんのその言葉は本当に囁くよりもかすかで、抱き締められている私にすら耳を澄まさねば聞こえない程だった。

「もう二度と、こんな馬鹿げた事はしません。本当にごめんなさい。お父さん、リリィ、ラヴァンド」

 お父さんの背中に強く腕を回して、私はそう言った。

 その後、リリィとラヴァンドも抱きついてきて、四人でずっと泣いていた。皆で顔を見合わせた時、全員の目は真っ赤だった。



 そんな大騒動から数日、私は今日も、花に囲まれて過ごしている。騒動の翌日やその次の日などは四人共少しぎくしゃくしてしまっていたけれど、もうだいぶ落ち着いた。

 殆ど、いつもの日常が戻ってきた。騒動の前と、何も変わらない日常が。


「ねえ、リリィ」

 私は、テーブルを挟んだ向こうで朝食を食べているリリィに尋ねたい事があった。

「なんでしょう、シア様」

 咀嚼していたものを飲み込み、いつもの優しい微笑みをリリィは浮かべた。

「お父さんがね、お前まで私の前からいなくならないで暮れって言っていたの。これって、もしかして」

 お母さんの事?

 そう問うた私の声は、先日のお父さん程とまではいわないものの、掠れて震えていた。

 その私の問いにリリィは一瞬逡巡した様子を見せたものの、すぐに私をまっすぐとした視線で射抜いた。

「その事に関しては、ナルシス様からシア様にいつかは教えてやってくれと言われています。そのいつかが、きっと今なのでございましょう」

 そう言ってリリィは、微笑みを消して真剣な表情で語り始めた。

「私は、元々はシア様のお母様、リサ様に仕えておりました。リサ様はシア様と同じように、本当に私に良くしてくださいました。ですが」

 リリィは一旦そこで言葉を区切り、舌で形の良い唇を舐めて湿らせた。

「リサ様は、ご病気を患ってしまったのです。それは、今シア様が罹患していらっしゃるものと同じ病気でした」

「リサ様が罹患した当時は、この病気に対する効果的な治療法、つまり虹の花での治療法がわかっていませんでした。ナルシス様が必死に研究されてようやく、この治療法が発見されたのです。その頃には、リサ様の病気はかなり進行していました。そして、虹の花での治療法も奮わず、すぐに亡くなってしまわれました」

「ですので、ナルシス様はきっと、リサ様が亡くなってしまわれた当時の事を強く思い出してしまわれたのだと思います」


「ナルシス様だけでなく、ラヴァンド様も私も生きた心地がしませんでした」

 そんな事が、あったなんて。

 いつの間にか膝の上で作られていた握り拳が、ふるふると震えた。

「ナルシス様は勿論、ラヴァンド様だって、私だって生きた心地がしませんでした」

 その言葉に、私は俯いた。今は、リリィの顔を見られなかった。

 俯く前に見たリリィの顔は、今までに見た事の無い悲痛に歪んだ顔をしていた。私は、それに耐えられなかったのだ。


 そうして、どれくらいの時間を過ごしていただろう。きっと実際には数分にも満たない僅かな時間だったに違いない。ても、私にはそれが永遠にも続くように感じられた。

 その息が詰まる心地の時間は、リリィが私の向かいから隣に移動した事で途切れる。ソファの右隣が、少し沈んだ。それとは反作用のように、私は肩をびくつかせた。

「シア様、お顔を上げてください」

 そう言われても、いまだ顔を上げられなかった。目線だけをリリィに寄越す。

 だけど、カーテンのような黒い前髪の隙間から見たリリィの顔はさっきまでの悲痛なものとは違う、真剣な思いを滲ませる表情で、私は何かを思う暇もないまま顔をあげてリリィに向き直った。

「シア様に、大切なお話があります」

 これは、ナルシス様にもお話しした事の無いものです。そう言って一旦区切ると、リリィは自らを落ち着かせるように深く息を吐いた。


「私はもうすぐ、この仕事を辞めなければいけなくなります」


 リリィが何を言っているのか、すぐにはわからなかった。それは今まで耳にした事の無い異国語だといわれた方が、私には信じられた。

 私が何も言えないまま、リリィは話し続ける。

「私は、病気に罹っています。詳しくは解明されていない病気なのですが、この病気の患者は見た目だけが全く変わらなくなるのです」

 ただ、それだけなのです。そう言葉を紡ぐリリィは、自分の事なのにどこか俯瞰しているように冷静だった。

「それ以外は、普通の人達と何ら変わりは無いのです。発症の仕方や治療法はわかっていません」

「ですが、感染はしないのです。それが、この病気に関する究明を遅らせている一因でもあります」

 そこでリリィは一旦区切り、目を一瞬逸らしてから再び口を開いた。

「私は、この病を十にも満たない頃に発症しました。私自身も、明確な発症時期はわからないのです。しかし、私の外見はその時から一切変わっていません。それこそ、何をやったって一度たりとも私の外見が変化する事は無かったのです」

 そう言ってリリィは、服の袖を捲って私に左腕を差し出した。そして、どこか自嘲を含んだ調子で語る。

「たとえ、腕を切っても傷は生まれないのです。ですが、確かに肌を破る痛みは感じます。流れ出る血は赤く温かいのです。ですのに、傷だけがない」

 そういう体なのです、私は。そう言って自らの傷一つ無い滑らかな肌を撫ぜるリリィは、目を伏せた。

「ですので、私は見た目はこんなに幼いのに、本当はもうおばあちゃんといってもおかしくない年齢なのです。もしかしたら、仕事中に体に限界が来て、倒れてしまうかもしれません。シア様に、本当の事を話せぬまま、いつまでも貴女を待たせてしまう事になってしまうかもしれません。私は、それが一番怖いのです」

 そう言うリリィに、私は何と返すのが正解なのかわからなかった。だが、本当はもう一つ、理由がある事だけはわかった。私の大切な友達なんだから、それくらいならわかる。だけど、言葉にする事は酷く難しい。

「なぜ、それを今私に話したの?」

 結局、私が口に出す事ができたのは何の捻りもないただの問いかけだった。これが、本当にリリィの望んでいるものかなんてわからないまま。

「私は、二度も私よりも未来がある筈の方が亡くなってしまうのは嫌なのです。それも、揃って友人が」

 少し湿っぽい声でそう言うリリィに、私は酷く胸が締め付けられた。普段と違って見た目と同じような幼さを錯覚するその姿は、いっそ痛ましさすら感じられる。

「お願いです。約束です」

「もう二度と、こんな事をしないでください。私より先に、逝かないでください」

 リリィが、いつもと違って泣きそうに歪んだ顔で困ったように微笑むから。私はもう、何も言えなくなってしまった。



 その日のお茶は、味も香りも、名前すら覚えていない。



 その後、いつもとは違って膝を抱えてソファに沈んでいる時、ノックが響いた。お腹の具合を鑑みるに、まだお昼の時間ではない。と、いう事はだ。

「よ、シア」

「ラヴァンド」

 一瞬前の自分の予想通り、白い扉の向こうからやって来たのはラヴァンドだった。彼の薄紫の髪が、さらりと揺れる。

「元気だったか? ほれ、土産だ」

 そう言ってラヴァンドが渡してくれたのは、ここより遠くの観光名所などが載った写真集だった。

「ありがとう」

「どういたしまして。じゃあ今日はまず、この前読んだお話を僕がアレンジして聞かせよう」


 そろそろラヴァンドの帰宅の時間が近づいてくるだろう頃、私たちは向かい合ってお茶を飲んでいた。

 ラヴァンドもほとんどいつも通りだったけれど、いつもより外の話は少なかったように思う。

「もしかして、負い目とか感じてる?」

「そんなわけないだろ」

 唐突な私の問いに、ラヴァンドはすぐに否定の言葉を返した。まさしく、いつも通りの表情で。

 だが、気付いていただろうか。いつもより、僅かに喋るスピードが速かった。彼の話を沢山聞いてきたからこそわかる。彼は今、嘘を吐いた。

 しかし、それを悟っても私は口に出しやしない。彼の気遣いを無駄にしたくなかったという事もある。

 しかし、私の中を一番大きく占める理由は、彼の足をここから遠のかせたくなかったというただの自己中心的な考えだ。私が余計な事を言って、彼をここへ来づらくさせるような事はしたくなかった。

「じゃあな、また来るよ」

「うん、今日もありがとう。またね」

 ラヴァンドの向こうにある白い扉の前で、いつも通りに別れの挨拶を交わす。しかしその後も、ラヴァンドはなかなか扉のノブに触れなかった。どうしたのだろうと思っていると、突然彼は私の顔を覗き込んだ。

「あとあんた、余計な事を考えすぎるなよ。僕らは友達なんだから、変な気は遣わなくていいだろ」

 そう、分かりやすい早口で伝えて彼は、私が手を振る暇も与えないまま逃げるように帰っていった。



 ラヴァンドも、ずっとラヴァンドなりに考えていたのだろう。彼は優しいから、私よりも考えたに違いない。彼が私に言い逃げしていった言葉は、彼にこそ送りたいものだ。


 だがきっと、ラヴァンドも苦しかっただろう。それでも、また来てくれるのだ。

 一人の友達として、私の退屈を紛らせに。



 一人になった時、ベッドに寝転んですぐ傍にある花を眺めて思った。


 この小さな可愛らしい花とは違う、大輪の美しい虹の花で生き永らえている私。きっとこれは、恵まれているのだろう。けして入手しやすくは無いであろう治療品は惜し気もなく与えられ、周りには優しい人達がいる。

 きっと、恵まれ過ぎている。


 これからも、私は無為に命を消費し、時々有為な時間を過ごすだろう。でも、それでも。


 私はきっと、幸せだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あかいはな だいち @daichi-tukinari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ