『城』 第4話

「今日はお母さんが早く帰って来られるから、お母さんとご飯食べます」

「わたしも……」

 祐君に続いて、里奈ちゃんも暗い声で呟いた。おばさんの頬がぶるぶる震えている。

「まあ、まあ、二人してそんなにバタバタ帰ってしまったら、ミキマサ君に失礼じゃないの。あなたたち、お友達を歓迎したいと思わないの?」

「パーティー、やろーよー」

 健太君は相変わらずだが、思わぬ助け舟を得て戦況は二対二になった。最後は僕が決めてやる。

「おばさん、すいません。家に帰らせてください。お願いします」

 これでもかと勢いをつけて、頭を下げた。

 効き目はあった。

「まあ、まあ! そんなに畏まらなくたっていいのに。嫌ねえ、これじゃあ私が無理に引き止めているみたいじゃないの。いいわ、いいわ、わかったわ。今日のところはお家に帰りましょう。歓迎会は、そうね、また明日にでもすればいいわ」

「今日はパーティーしないの? うー、じゃあ明日、絶対ね」

 僕は返事をしなかった。

 ガラス窓から外に出れば、そろそろ星が瞬き始めていた。生ぬるい風が東から吹いて来る。

 玄関からおばさんがあたふたと出てきた。

「車で送ってあげるわね。お家はどこ?」

「さっきのお店に送ってください。自転車が止めてあるから……」

「ダメ、ダメ! もう暗くなるじゃないの。こんな遅くに自転車で出かけたりしちゃ危ないでしょ。絶対にダメ。お家に直接送ってあげるから、案内しなさい。いいじゃないの、たかが自転車の一晩や二晩、あそこは広いんだから誰も困らないわ」

 やって来た時と同じように有無を言わさず、おばさんは僕を車に押し込めた。

「また明日!」

 開けっ放しの窓から、健太君が手を振っている。仕方なく手を振り返した。一年坊主は気楽でいいな。

「祐君、里奈ちゃん、おばちゃんが戻ってくるまで、ちゃんと健太君の面倒を見てあげるんですよ! それぐらいは居られるでしょ!」

 ワインレッドの車がブルルと鳴った。

 車の中で、僕はずっと落ち着かなかった。明日以降の事を考えるのも億劫だし、目の前の問題も深刻だった。

 もしもお父さんが先に帰っていたら、おばさんと鉢合わせしてしまう。おばさんはお父さんのことを、子どもにおつかいを強いる悪い人だと思い込んでいる。家の中まで上がり込んで親子ともども説教をされたらたまったものじゃない。

 そう、こんな風に。

「明日は学校が終わったら直接うちに来なさい。もう場所はわかったでしょ。宿題なんてさっさと済ませて、健太君たちと遊んで……。いえ、待って。あなた、塾に行っていないのでしょう。いけないわね……。そんなんじゃあ受験で遅れをとるわ。うちの子のノートがあるから、それを使って……」

 おばさんはまた一人で勝手に話を進めている。

 僕は何も言う気力もない。疲れた。どっと疲れた。お風呂に入りたい。

 家に着いた時、幸いなことにお父さんはまだ帰っていなかった。灯りのない真っ暗な家の前に車を乗りつけた直後、僕は元気を振り絞って、車から飛び出した。

「こんな時間まで子どもを一人でいさせるなんて、親はいったい何を考えているのかしら。愛情が足りてないわね」

 おばさんに家の場所を覚えられたのはすごく不安だけど、とにかく帰って来られた。僕のいるべき場所に、帰って来た!

「待ちなさい」

 エンジンの音が止まった。僕の昂揚も止んだ。おばさんは車を降りて、僕の眼前に聳え立った。夕闇の中で唇がつやつや輝いていた。

「あなた、私の事をお節介なおばちゃんだと思っているでしょう」

 その通りです、とは言えない。

「その通りよ」

 言ってよかったんだ。

「お節介で、迷惑だと思っているでしょう」

 そこまで自覚があったんだ。

「でもね、今はお節介で、口うるさく思われるかもしれないけど、きっといつかわかるわよ。そうやってでも自分を守ってくれる人間のありがたさ、愛情の素晴らしさを、絶対に理解するわ。私とあなたは出会ったばかりだけど、私はあなたを愛するわ」

 おばさんが両手を広げて僕に迫って来た。

 背筋が震えて動けなかった。

 むっとする香水と脂肪のかたまりが僕を包み込んでいた。

「どんなことでも言って。どんなことでも頼って。いいこと? 私をお母さんだと思って、甘えてもいいのよ……」

 お母さん⁉ あんたが?

 体中から力が抜けそうになるのを、懸命にこらえた。足に力を入れて踏ん張った。力が抜けたら、ますますおばさんは僕を縛ってしまう。耐えるんだ、耐えるんだ。

 お母さんは一人でたくさんだ。

「あら、もうこんな時間。そろそろ夏希を迎えに行かなきゃ。それじゃあ、また明日会いましょうね。こどもの城は、いつだってあなたのお城よ」

 ワインレッドが轟音を立てて去っていく。あっという間に夜に消えた。

 頭がくらくらする。石段から落ちた時よりもひどい衝撃だった。

 いったい何の権利があって、あの人が僕のお母さんになるっていうのだろう。そんなこと誰が許すんだ?

 僕を愛しているだって? なんで? 出会ったばかりの他人の子どもでしょ?

 脂肪の感覚が肌に蘇る。僕の皮膚に居座るように、ざわざわと産毛をさすられているような気がする。

「わあ、わあ!」

 鍵を開けて、ベスの寝転がる玄関に飛び込んで、服を脱ぎ捨てながらお風呂場に向かう。お湯を溜めるのももどかしい。栓をひねって熱いシャワーを頭から浴びた。

 お父さん、お父さん、どうかまだ、もう少しだけ帰って来ないで。

 祈りながら、石鹸で強く体をこすった。

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