『城』 第5話

 お茶碗に盛ったご飯の山に窪みをつける。そこに生卵を投入する。上手く着地させれば白身もこぼれない。普段ならここに醤油をかけて混ぜるところだが、今日は明太子の切れ端を乗っける。茶碗からはみ出さないように気を付けながら卵の黄身を潰し、明太子をほぐし、お米全体に馴染むように慎重に、しかし力強く混ぜる。

「醤油は?」

「いらない」

 お父さんの差し出す醤油を断って、最初の一口を味わう。つやつやで丸みのある味わいに明太子の塩気がちょうどいい。

 一杯のご飯の上に二つの食材を乗せる。なんというゼイタク。ああ素晴らしき日曜日。

 ワカメの味噌汁。昨日の残りの生姜焼き二切れ。豚肉と一緒に焼いた玉ねぎがたっぷり。これに牛乳をコップ一杯飲めば、完璧な一日の始まりだ。味噌汁がインスタントなのは目をつむろう。

「ごちそうさま」

「うん」

 先に食べ終えていたお父さんが、新聞とにらめっこしながら生返事をする。

洗い物を終えてベランダのカーテンを開けば、雨上がりの庭に柔らかな朝日がさしている。今日はこのまま晴れになりそうだ。

 六月の半ばを過ぎてようやく梅雨入りが発表されたけど、その後も晴れの日が多く、たまに小雨が降る程度だった。本格的に雨が降り出したのは七月になってから。なんだか先走って咲いた紫陽花が可哀そうな梅雨だった。

 雨が上がって太陽が出た後は、じめじめと蒸し暑くなる場合と、水分が蒸発して涼しくなる場合とがある。今日は涼しくなる方だ。窓を開けて、風の匂いで決めつけたら、くしゃみが出た。

「風邪でも引いたんじゃないか」

「大丈夫」

 窓を閉めて振り返ると、テレビが今日の占いをやっていた。おひつじ座はまあまあだった。

「今日はお城に行くのかい」

「ううん、良太郎君と遊ぶ。八時に出るよ」

「うん。じゃあ、お昼御飯は帰って来るんだね。お父さんは会社の用事があるから、お昼はいないけど……」

「冷蔵庫の焼きそば作る」

「お城に行けば昼御飯も出るんだろう。良太郎君と一緒に行ってみたら?」

「いい、うちで食べる」

 僕の『お城通い』は、習慣の一つとしてすっかり定着してしまった。お父さんもそれを受け入れた。どうやら、初めて『こどもの城』に連れていかれた日の夜、お城のおばさんがお父さんに電話をかけて、話を付けたらしい。

「美木正。ごめんな」

 部屋で宿題をしていた僕をリビングに連れ出して、お父さんはソファに腰かけたまま謝った。テーブルの前には携帯電話が置いてあった。その電話に向かって、「はい」とか、「ええ」と言っている声が部屋まで届いていたから、こうなる事は覚悟できていた。ただ、開口一番に謝られるとは思わなかった。

「お前がしっかりしているから、お父さん、つい甘えてしまっていたんだな。夜遅くまで一人で放っておくなんて、やっぱり、良くないよな」

 そりゃあ――。

 良い事だとは、言えない。理想的な環境だとはとても言えないだろう。だけど悪い事だとも言われたくない。少なくとも、他人に勝手に決められたくはない。

「嶋田さんの家で世話をしてくれるっていうのなら、美木正。頼ってもいいんだぞ。友達ももっとたくさん出来るだろう」

 お母さんがいないから。

 お父さんは働かなくちゃいけないから。

 もう四年生なんだから。

 僕の境遇には色々と理由がある。でも、お父さんが自分でそれを口に出すと、言い訳みたいになってしまう。きっとそう思っているんだ。もしかしたら、おばさんに電話でそれを言って、言い訳をするなと怒られたのかもしれない。おばさんが怒ったって仕方のないことなのに。

 僕は本を読むのが好きだ。学校の図書室には、いくらかかっても読み切れないほど本がある。一冊、一冊、それらを借りて読んで、読んだ後で空想の余韻に浸るのは楽しいことだ。僕は気に入った本なら何度でも読める。一人で家にいても退屈なんてしない。それに、ベスもいる。自分からはあんまり動かない奴だけど、僕が背中を撫でてやると、尻尾をぶんぶん振ったりもする。

 だから、僕は寂しくなんかない。

 だけど――。

 僕が自分でそれを言うと、強がりになってしまうんだろうなぁ。

 きっと、おばさんはそう言うだろう。子どもに強がりを言わせるなんて、なんて悪い親でしょう。とかさ。

 結局のところ、僕ら親子は、あのおばさんに完敗したのだ。

「今日はどこで遊ぶんだい」

「鶴々公園。お昼食べたら、また出かけるからね」

「うん。気を付けて。お父さんも夕方には帰るつもりだから」

 パジャマを着替えて支度する。Tシャツと半ズボン、それから帽子。学校の黄色い帽子じゃなくて、お父さんの黒いゴルフ帽だ。サイズ調整をめいっぱい小さくして被る。公園には水道があるから、飲み物の用意はいらない。あとは家の鍵を財布に入れて、ズボンのポケットにねじ込んで、準備完了。足の傷もとっくに完治している。

「行ってきまーす」

 ベスをまたいで靴を履く。

 外にはまだ早朝の涼しさが残っていた。自転車を漕いでいけばもっと涼しくなるだろう。

 この自転車を無事に回収できたのは幸運だった。おばさんに連れ去られた都合で、一晩中お店の駐輪場に置きっぱなしにしていた自転車だ。あの日はずっとそれが気に掛かっていた。お店の人に取り上げられて、どこかに持って行かれるかもしれない。放置自転車として警察が呼ばれるかもしれない。怒って持ち主を探しているかもしれない。もしも、お節介な誰か(それこそおばさんみたいな)が勘違いして、子どもがいなくなった事件だと騒いでいたら……。

 こういった事は初めてだし、知識もないから、不安ばかりが大きくなった。お父さんとの会話に身が入らなかったのも、一つにはこの理由があったのかもしれない。朝早く家を出て、こっそり取りに行こうか。何度もそう考えたけど、真剣に考えるほど寝付けなくて、寝坊しそうになって、実際に取りに行ったのは放課後だった。ランドセルを背負ったまま大急ぎで駆け付けたお店には、昨日の位置にちゃんと自転車が置いてあった。何の変化もなかったし、誰かが見張ってもいなかった。

 ――泥棒じゃありませんよ。正当な持ち主ですよ。ここに置きっぱなしなのは僕のせいじゃないんですよ。

 心の中で念じながら、自転車のカゴに入れたランドセルをタオルで隠して、大急ぎで家に帰った。何人もの大人たちとすれ違ったけど、誰も何も言わなかった。密輸は成功だ。

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