第8話
景色って、不思議なものだ。昨日と同じ道を、同じ時間に歩いているのに、僕に見えている景色は全く違っている。昼まで居座っていた雲は遠くに流れて、夕方になりかけの澄んだ青空が広がっている。アスファルトの凸凹なんて少しも気にならない。僕の目は前を向いている。そして、僕の隣には良太郎君がいる。
「そいつ、そんなに変な奴なの」
「ホントに変な人だよ。なんか、こう、一人で勝手にお芝居をしているみたい。すごく気取った喋り方をする。でも、悪い人じゃないと思うよ」
「変質者だよ、絶対」
貞には悪いけど、その見解は否定できない。
僕らは例の神社に向かって歩いている。住宅地のすぐ傍にあるのに誰も知らない神社というのが、良太郎君の好奇心を刺激したようだ。
秘密の場所は男子の嗜みだ。隠れ家。秘密基地。穴場。とってもわくわくする響きだ。それに、変な大人もいる。絶対に好奇心がそそられる。僕だってそうだ。
ついでに言えば、石段の昇り降りで足腰も鍛えられる。それだけの条件が揃えば良太郎君が興味を示すのは当然だろう。
「大丈夫だよ。昨日は僕一人だけだったのに、何もされなかったもの」
あの赤ん坊のことだけは、まだ話していない。わざと話していないんだ。何にも知らずにいきなり空洞だらけの顔を見せられたら、どんな反応をするのだろう。意地が悪いとは思うけど、僕はいまからわくわくが止まらない。僕だって最初は驚いたけど、耐えたもの。良太郎君だって大丈夫さ。
石段の下まで来ると、良太郎君は鼻を鳴らした。
「ふうん、こんなところがあったんだ。何度も来ているのに、気が付かなかったな」
「そうでしょ。僕も、ずっとここに住んでいるのに、昨日初めて知ったんだよ」
晴れ空にも関わらず石段はうっそうとしていて、昨日とあまり変わらない。天の形をした木の鳥居が逆光に佇んでいる。
こんな時、なにか珍しいものを見つけた時は、良太郎君が真っ先に駆け込んでいって、その後を僕が追いかけるのが常だ。商店街のゴミ箱がいっぱい並んだ小道とか、蛙の大軍が出ると噂の用水路だとか、遠足のハイキングコースからちょっと離れたところにあるキャンプ場だとか。早く、早く、と急かされながら、その大きな背中を追いかけるのだ。今回もそうなるかと思っていた。ところが、良太郎君は石段を見上げたまま、足に根を張ったかのように動かない。
「誰も知らないのを見つけたのか。すごいなぁ」
「すごいでしょ」
口は開いても、足は動かさない。こんなことは珍しい。
良太郎君の様子が、何かおかしいぞ?
口では感心しているけど、なんだか、気乗りじゃないみたいだ。何をためらっているのだろう。
「行ってみようよ」
と誘っても、
「うん、うーん」
と、まるで学校での僕みたいに、煮え切らない返事をする。
――ひょっとして。
僕の頭に、ピーンと閃くものがあった。
「怖いの?」
ぎくり、と頬が強張るのを、僕は見逃さなかった。こんな時の表情も正直だ。
そうなのだ。良太郎君は強気で色々な場所に突っ込んでいくけれど、人のいない、寂しい場所は苦手なのだった。去年の夏祭りでも、たまたま落ち合った男子の間で、墓地に肝試しに行こうという話になったとき、良太郎君は僕の腕を掴んで賑やかな屋台の方へ引っ張っていった。
そういった点で僕らは真逆だ。僕も真っ暗なのは苦手だけど、静かで寂しいだけなら平気だ。慣れているから。
「怖くは、ない」
良太郎君の強がりが冷たい風に沁みる。
「じゃあ、行こうよ」
「怖くはないけどさ、なんか、こう……。行っちゃいけないような気がする」
「誰にも怒られたりしないって」
「そうじゃなくて……。行きにくいんだよ」
らしくない。曖昧な言葉で立ち止まるなんて、本当に普段の僕みたいだ。
だったら、僕が普段の良太郎君になってやろう。むくむくと元気が湧いて来る。僕が先だ。僕が引っ張るんだ。
「大丈夫、大丈夫! ほら、行こう」
先頭に立って、ぐんぐん段差を登り出す。
「待て、待ってよ、わかった。行くよ」
一人で置いて行かれそうになった良太郎君が慌てて追いかけてくる。僕が先頭に立つなんて、つくづく珍しいことだ。このうえ、貞や赤ん坊に会わせたら、良太郎君はどんな反応を見せてくれるのだろう。
得意で、得意で、仕方がなかった。ここ数日で一番に爽やかな気分だった。
町が遠ざかっていく。辺りの空気が段々と涼しく、神域とやらに近づいていく。木の鳥居がはっきり見えるところで、良太郎君が僕の隣に追い付いた。
「あれが鳥居?」
「そうだよ。木の鳥居だなんて、変でしょ」
「なあ、やっぱりマズいよ」
「なにがマズいの」
「よくわからないけど、良くない気がする。俺、これ以上は嫌だ」
「けど、神社はもうすぐそこだよ。上まで登れば貞がいるから……」
「そんな奴に会わなくていい」
ぴしゃりと、決めつけるように言い放った。そして足を止めた。
僕も止まる。止まって、良太郎君の顔を見る。それはさっきまでの頬の強張った顔ではなかった。まるで熱を奪われたみたいに色が白くて、うつむき加減になっている。硬い瞳が僕を上目遣いに僕を見ている。
怒った静久先生みたいな目だ。
僕はどきっとした。ほんの一瞬、ぼやけた印象だけれど、僕には確かに良太郎君と静久先生の瞳が重なって見えた。ただそっくり同じというわけではなくて、静久先生の瞳は硬くても透き通っているけれど、良太郎君のは三等星みたいな小さな火がくすぶっている。
良太郎君は怒っているのだろうか。でも、どうして……?
行きたくないと言っているのに、僕が得意げに先導しているから、それが気に障ったのだろうか……。
「俺、戻る。ミキも来い」
「ええっ。待ってよ」
僕が止めるのも聞かず、良太郎君はさっさと踵を返して、石段をずかずかと降り始めていた。
「空気が嫌だ。やっぱりここは良くない場所だって、今わかった。ミキ。ミキももう、こんなところに来るなよ。一人でもダメだ」
「どうしてなのさ、ねえ」
急いで後を追いながら問いかける。良太郎君が怖がるのは仕方ないけど、僕が来ることまで止める必要はないじゃないか。
――この時の僕には、良太郎君がこんなに嫌がる理由がまるでわからなかった。僕がそれを知るのは、もっとずっと後の事だ。
「どうしてでもだ。普通の奴は、こんなところに来ない」
「普通じゃないだって!」
心と声がいっぺんに叫んだ。
良太郎君が肩を震わせて振り返った。その瞳に僕の姿はどう映っていたのだろう。
「ミキ!」
慌てて駆け下りていた僕の足が落ち葉を踏んで、石段の上でズルリと滑った。頭ががくんと前のめりになって、体が宙に浮きあがる感覚がした。
――あれ、落ちている。
「ミキ! ミキ!」
下にいたはずの良太郎君の声が真横になって、上になって、遠ざかる。
木漏れ日。枯れ葉。ヒビの入った石段。アスファルトの歩道。色々なものが目まぐるしく映り変わったように、その後のことも目まぐるしく動いた。
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