第7話
「よーい、ドン!」
静久先生の号令で、僕は駆け出した。ドン、の音を聞いてからスタートしたのでは遅い。よーい、から、ドン、までの呼吸を計って飛び出す。今の出だしは最高のタイミングだった。一緒に並んでいる六人の誰よりも早く飛び出して、僕は直線を突っ走る。
心地いい風だ。僕が風を起こしているんだ。
昨夜のうちに少しだけ降った雨のおかげで、空気は湿っている。おかげでグラウンドの土埃が舞い散らない。空気は湿っているけれど土は乾いていて、走るのには快適だ。空は曇っていて太陽の光が鈍い。僕は鋭い。
爪先で踏んで、踵で蹴る。胸を張って、腕をしっかり引く。真っ直ぐに、真っ直ぐに。自分の動作と、呼吸と、大地と、大気が、しっかりかみ合っている。僕は風になっている。あっという間の百メートルを、僕は一番で駆け抜けた。
「繋木君、一等」
体育係の島井さんが記録をつける。一拍遅れて、バタバタと後続のランナーが駆け込んできた。誰が二番だ、三番だ、とみんなの注意がそっちに向かう。
ふう、と息を吐くと、背中に大きな手が触れた。
「ミキ、やっぱり早いな」
良太郎君だ。
「スタートが完璧だったぞ。他のみんなが遅く見えた」
良太郎君に褒められると、顔がにやける。僕は顔を隠しながら返事をした。
「先生の合図はタイミングが毎回一緒だから、計りやすいよ」
「どのくらい?」
「一呼吸と半分ぐらい」
「半分って」
「一回ずつ鼻息を吐いて、吸って、また吐くぐらい。吐きながら走り出す」
「ややこしいな。息を吸う前に吐くのって難しくないか」
そうかな。上手く伝わったかはわからないけど、良太郎君は先生の方を見て、次のグループへの号令を計っている。いち、にい、と心の中で数えているのが僕にも伝わって来る。
今日の体育はただの『かけっこ』じゃない。九月の運動会でのリレー選手を決める、重要な参考記録を測っているのだ。静久先生は運動会に力を入れていて、リレー選手を決めるのも一回の記録だけでなく、何度も繰り返し計測してから参考にするのだという。
これといって取り柄のない僕だけど、走ることだけはそれなりに自信がある。それなり、というのは、クラスで一番になれる程ではないってことだ。今のグループでは一等だったけれど、クラスには一年生の時からずっと学年一位の俊平君がいる。女子サッカーの結城さんも短距離では物凄く速い。僕はクラス全体でいえば五番目ぐらいだろうか。リレーの選手になれるかどうかは際どいところだ。
「おーし、行って来る」
良太郎君がスタート地点に向かう。出席番号順に六人ずつ走っているから、僕の次の次が良太郎君の番だ。
「頑張ってね。吐いて、吸って、吐くんだよ」
大きな右手が向こう向きに「おう」と答えた。
他の子と並んでみると、良太郎君は本当に大きい。頭一つ飛び出しているし、横幅もコースの枠からはみ出しそうだ。良太郎君の右隣は俊足の俊平君だ。
「よーい」
吐いて、吸って、吐く。
良太郎君の鼻の膨らむのが、百メートル先からでもはっきりわかった。
「ドン!」
最高の出だしだった。ドドドドド、と大きな体を揺すって、良太郎君がゴール目掛けて突っ込んでくる。凄い迫力だ。猛牛だ。ダンプカーだ。目をかっと開いて、鼻の穴がふがふがと膨らんでいる。柔道の走り込みで鍛えた脚力は、大きな体をもっと大きな力で突き動かしている。周りの空気が渦巻くようだ。
もうすぐ、もうすぐ。僕はゴールの横で待ち構えた。
良太郎君の必死の形相が近づいて来る。その背後から俊平君が弾丸のように追いかけてくる。そしてゴールまであと十五メートルというところで、俊平君は良太郎君の風を突っ切って追い越した。
「あっ、ちくしょう」
声には聞こえないけれど、良太郎君がそう言っているのが表情から伝わった。追い越された直後からがっくりと速度を落として、ダンプカーがゴールを越えた。
「樋口君、一等。舞田君、二等」
「行けると思ったんだけどな」
良太郎君が首をぶらぶらさせながら僕に笑いかける。
「最初は良かったよ」
良太郎君も僕と同じぐらい足が速い。柔道で走り込みをしているから足腰が強いし、それ以外でも校庭や公園で元気に走り回っているからだ。元から速い良太郎君がスタートのタイミングも覚えたら、僕よりもずっと速くなるかもしれない。
「でも、抜かれちまった。今日こそ俊平に勝てるに思ったけど、やっぱりアイツ、速すぎるわ。脚の回転が違う」
「うん、風車みたいだよね。だけど、良太郎君も最後まで本気で走っていたら、もっといい記録が出たと思うよ」
ストップウォッチの記録は、僕の方が少しだけ勝っていた。
「あちゃ、しまった」
「次からの課題だね」
ほんの少し勝ったぐらいで偉そうなことを言っているかもしれないけど、僕が良太郎君に勝てるのは足の速さぐらいだから、つい威張ってしまう。それに、良太郎君は気にしていない。
計測は順調に進んで、結局、僕はクラスで六位、良太郎君は七位だった。一番の栄誉であるクラスの選抜リレーは上位五人だ。
「なんか、欲が出てきた」
授業が終わって教室に戻る間、良太郎君がぽつりと言った。
「うん。次からは五位以内に入りたいね」
僕が気軽に答えると、良太郎君は頭を振った。
「違う。もうちょっとで俊平に勝てそうだったから、一位も目指せる。今までは厳しいかと思っていたけど、ミキのアドバイスのおかげでだいぶ近づけたような気がする。もっと練習すれば追い越せるぞ」
いつもより一段と濃い汗の匂いをふり撒いて、キッパリと宣言した。同じように汗をかいて、同じような記録だったのに、僕と良太郎君は見ているものが違っている。きっと、体の内側で燃えているものの量が違うのだろう。リレー選手になりたいとは思っていたけど、一番になりたいだなんて、全く考えてもいなかった。僕には、勝負して勝ちたいという気持ちが欠けているのかもしれない。
クラス中が汗臭くて、みんな喉が乾いている。水道の前は行列が出来ていた。僕らも大急ぎで汗を拭いて、着替えを済ませて、行列に並ぶ。体育は三時間目だったから、のんびりしていると休み時間が終わってしまう。
「今日の昼休み、練習しないか」
良太郎君が隣の列から声を掛けてきた。
「練習って、何の練習?」
「か、……と、徒競走の練習に決まってんじゃん」
かけっこ、という言葉を使うのがちょっぴり恥ずかしい年ごろなのだ。
「俺、もっと速くなりたいもん。ミキは?」
僕は、どうだろう。
列が動いて、僕の番はすぐ次になった。今気が付いたけど、僕の目の前で水を飲んでいるのは結城さんだった。髪が短くて、ツンツンしていて、あんまり女の子っぽくないけど、走っている時はとても姿勢がいい。拭い損ねた汗が日焼けした首筋に光っている。
僕は走るのが好きだ。でも、走るための努力はしたことがない。体育の授業では真剣にやるけど、それ以外で練習をしたことは一度もない。そんな事をしなくてもそこそこ速かったからだ。
学年が上がって、授業以外でも運動する子が増えてくると、僕の順位は徐々に下がっていく。今年はリレーの選手になれるかどうか怪しい。
頑張って、みようかな。
徒競走は柔道と違って、他の人をやっつけなくていい。自分が頑張れば結果になる。だから僕にも頑張れるはずだ。
「うん、やろう」
「よし、やろう」
一番になれるかどうかはともかく、二人で一緒に選ばれたい。僕の中で炎がめらめらと燃え上がって、順番が回ってきた水道の水を浴びるようにガブ飲みした。熱さと冷たさがお腹の中で混ざって沸いている。良太郎君はいつもこんな気分を味わっているのだろうか。この目的をやりきったら、僕ももう少しは強くなれそうな気がする。
教室に戻って席に着こうとすると、再び良太郎君が提案した。
「なんなら、放課後にもやろうか。今日は柔道も休みだから」
「放課後、かぁ」
返事に詰まったのは、練習が嫌なわけではない。今日の放課後もあの神社に行くつもりだったからだ。
神社のことは、お父さんにも、静久先生にも言っていない。なんとなく、あそこは秘密の場所で、あまり言いふらしてはいけないような気がしたからだ。それに、赤ん坊にあげた手提げの事もある。
「なんか、用事とかある?」
「用事って程じゃないけど……」
良太郎君になら、話してもいいかな。僕の友達だって紹介すれば、貞も喜んで迎えてくれると思う。
「あのね」
「はい、みんな席について」
静久先生が教室に入って来た。僕は声を潜めて、「後で話すよ」と良太郎君を追いやった。先生が僕らを見ていたような気がするけど、僕は先生を見なかった。だって、あの事は僕らの秘密にしたいもの。
四時間目のチャイムが鳴る。先生はいつも通りに授業を始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます