第6話

「いきなり声をかけてすまないね」

 その人は木の鳥居に背中をもたれて、腕を組んで僕を見ていた。男の人だ。白いカッターシャツに黒い長ズボンで、髪は短く、地味な格好をしていた。

「そうそう出来るものじゃあない。君は優しい子だ」

 その人は鳥居を離れて、僕に近づいてきた。右手に杖をついている。何の木だか知らないけれど、大きな瘤が持ち手になっている、時代劇のお爺さんが持っていそうな杖だ。でも、その人がそれをついて歩く姿はシュッとしていて、杖というより、西洋の紳士が使うステッキと呼ぶのが相応しいような気もした。

「君の名前は何というのだね」

 手足がすらりと細長く、背も高いけれど、威圧するような感じではない。色白で、顎が小さい。僕はなぜだか童話の絵本に描かれているキリギリスを思い出していた。シルクハットが似合いそうだと思った。その人は目を細めて微笑んでいる。ああ、だけどその目は、お母さんとも、お父さんとも、良太郎君とも、静久先生とも違う。おかしな目だ。

「名前は、と聞いているのだがね……?」

 その人は目を開けた。顔の割に目が大きくて、目の中の白眼が広くて、瞳が縦に細い。蛇のような目だ。その瞳に射すくめられた僕は蛙だろうか。

「美木正、です。繋木美木正」

「ミキマサ君か。うん、きれいな名前だね。心もきれいだ。君にぴったりだよ」

 そんな褒め方をされたのは初めてだ。

 この人は何者なのだろう?

「あのぉ……」

 おじさん? お兄さん? どっちとも言いかねた。するとその人はステッキをくるりと一回転させて、自分の唇を指さした。

「私はさだ。貞とだけ呼んでくれ。他には何も不要だよ。敬称も肩書もいらない。私は貞と呼ばれるのが好きなんだ。滅多に呼んでくれる人はいないけどね。君、美木正君。私を貞と呼んでくれるかい?」

 口紅を塗ったように真っ赤な唇が、おしゃべりな薔薇のように動き回る。蛇と薔薇、それにキリギリス。この人はいろんなものが混ざっている。

「えっと、貞」

「そう、貞だよ。呼んでくれてありがとう」

 貞はステッキを左手に持ち替えて、右手を僕の前に差し出した。長い指が握手を求めている。僕は左手に手提げをぶらさげて、右手で握手を返した。

「改めて、よろしく」

 ぎゅっと握った手の力は、その細身からは想像もできないほど力強かった。決して暴力的ではないけれど、握手を通じて、僕の中に何かが刻み込まれるような気がした。

「君のような子に出会えて嬉しいよ。最近、この神社を訪れる者もめっきり少なくなったからね。それも時流だろうし、ちっとも構わないけど、やっぱり寂しくてねぇ。すぐ近くに大勢の人が暮らしているだけに、ここの沈黙は深い。それも清涼ではあるけれど――」

「貞は、ここに住んでいるの?」

 僕は敬語を使わなかった。その必要はないと判断したし、それは正しかった。

「そうさ。ここからじゃ見えないけど、お社の後ろに小屋があってね、そこに住んでいるのだよ」

「神主さん?」

「そうではないが、そのようなものさ。私の立場を形容する言葉はないよ」

 怪しい人。変な人。僕はそう形容する。この人の身形がもっと汚ければ、僕は躊躇なくホームレスだと決めつけたことだろう。けれど、服装は地味ながらも新品みたいにきれいだし、髪や皮膚も清潔な感じがする。

 ひょっとして、人さらいだろうか。僕のような子どもを誘拐する犯罪者だろうか。それとも変質者?

 変質といえばとても変質だ。いや、異質かもしれない。とにかく言えることは、この人は僕の知っているどんな大人とも違っているという事だけだ。

「まァ、私の事はいいさ。私は単なる介添え。その点では神主と一緒だよ。神社に必要なのは神主ではなく神様さ」

 神様――。

 僕は手提げに目を落とした。

「この子は、その……ご神体なの?」

「神そのものさ」

 わあ。

 いくら僕が子どもだからって、この時代に、平然と神と言い放つなんて。

 貞は真剣な顔で、先生が授業するみたいに語り出した。

「この神社はその子を祀るための場所さ。その子はね、生まれてすぐに捨てられたのさ。君は見ただろう。その子には顔も手足もない。とんでもなく出来の悪い失敗作だね」

「失敗作!」

 子どもをそんな風に言う大人がいるのか。

「怒ったね。その反応は正しいよ」

 正しくったって、それがどうした。

「私も君と同じ事を思う。けれど、その子の両親は失敗作と考えて、その子を捨てた。だけど、君も感じている通り、まだ生きている。これからも生き続ける。いつまでも、永遠にこの世に在り続ける。最初から息をしていないのだから絶えることもない。厳密には永遠なんてものは存在しないのかもしれないが、とにかく世界の全てが終わるその時まで、この子は在り続けるのだよ。何しろ神だからね」

 ちっともわからない。

 ただ、この子が今ここで、生き続けているのは事実だ。

 手提げの中に手を突っ込んで、もう一度その子を引っ張り出す。小さな皺くちゃの赤ん坊だ。その顔の空洞は、最初に見た時ほど恐ろしくはない。これが神様だって。

「君がその子を守ってくれるのは、すごくありがたいことだよ。私も、その子も心から喜んでいる。君は優しいし、勇気がある。君のような性根の人間は貴重だ」

 勇気がある、だって。そんなことはない。僕は困ったことがあると、いつも立ち尽くして涙をこらえているだけだ。勇気というのは良太郎君にこそ相応しい。僕は臆病で、弱虫だ。

 そんな想いが表情に出てしまったのだろうか。貞は妙な事を言った。

「弱虫には、弱虫の勇気があるのさ」

 そしてステッキをくるりと一回転させた。

「それはそれとして、美木正君。君はその子をうちへ連れて帰るつもりかね?」

 問われてから、僕は初めてその事を考えた。

 赤ん坊を手提げに入れた時、僕は連れて帰ることまでは考えていなかった。素っ裸で寝ている赤ん坊があまりに弱々しくて、寒そうで、何かに包んであげたいと衝動的に突き動かされただけだ。

 もし、貞が現れて声を掛けなかったら、僕はその後どうするつもりだったのだろう。

 家に連れて帰る? 犬や猫じゃあるまいし、お父さんに何て説明すればいいんだろう。この子は全然身動きしないのだから、こっそり隠れて飼う……いや、面倒を見ることぐらいは出来るかもしれないけど、学校に行っている時はどうしよう。ベスに嗅ぎつけられないかな……。でもベスだって身動きしないから、高いところにおいておけば……。

 ――馬鹿。僕は何を考えているんだ。いつの間にか勝手に連れて帰るつもりで考えているけど、そんなことが許されるわけがない。

「ううん。この神社の、その、神様、なんだから、連れて行かない」

「ああ、わかってくれていたのだね。素晴らしい。君は物事を正しく見る知恵がある。天理というものを知っているね。知らなくても感じられる才覚を持っている」

 この人の褒め方はいちいち大袈裟で、難解だ。

「可哀そうだと思い、その直覚に従って行動できる人間は意外に少ないのだよ。私は改めて君に敬意を表したい」

 勝手にどうぞ。

 その頃になると、雲がぽつぽつと空を覆い始めていた。空気も一段とひんやりしている。もう、帰らなくちゃ。

 その前に貞に聞いてみた。

「連れて帰らないけど、この袋をあげてもいい?」

「うん?」

「この子、裸のままじゃ寒そうだから。この手提げ袋、この子にあげる」

 貞は蛇の目をした。

「それは君の大切なものではないのかい」

 大切なものだよ。だからこそ。

「いいんだ」

 言い切って、僕は手提げに包んだ赤ん坊をお社の中に納めた。息をしていないのなら、窒息もしないだろう。振り返ると貞が目を閉じて微笑んでいた。

「素敵だな、美木正君」

 まるで貞の方が温かいものに包まれているかのような、幸せな笑顔だった。なんだか悔しいけど、その笑顔の方が素敵だと不覚にも思ってしまった。

「僕、もう帰るよ」

 ランドセルを背負い、紺色の手提げを取って、そそくさとお社から離れた。

「そうだね。暗くならないうちにお帰り。足元に気を付けて」

 貞の声が追っかけてくる。鳥居の前で、僕はもう一度そっちを振り向いた。

「また、ここに来てもいい?」

「もちろんだとも。鳥居は迎えるためにある。君が来たいと願うならいくらでも来てもいい。そして、必要がなければ二度と来なくても構わない。決めるのは君だ。我々は君を迎えはするが、君の居所は君自身が選択すべき事なのだから」

 当たり前のことをやけにしつこく言う人だ。

 僕は、「さようなら」と言わずに鳥居をくぐった。鳥居を出た後も一礼をした方が良い、と教わったけど、今はその必要がないような気がして、そのまま石段を下った。一歩、一歩、下るごとに「町」が近づいて来る。僕の暮らす住宅地。今日までの当たり前の世界に戻っていく。

 石段を下りきってしまえば、いつもの景色だった。

買い物袋を一杯に積んだ自転車のおばさんが向かい側の歩道をよたよたと走って行く。五年生ぐらいの女の子が四人連れではしゃぎながら歩いている。その傍を白髪のおじいさんの車がゆっくりと追い越していく。見慣れた夕方の世界がそこにあった。

 その誰一人として、僕が石段を下りて来たことに気を留めない。僕の姿は見えているはずなのに。

 冷たい風の中で、僕は家に向かって駆けた。

 もう帰るのをためらう必要はない。お母さんの手提げはあの子にあげた。捨てたんじゃなくて、あげた。だから許してもらえると思う。

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