第5話
何か、勘違いが起きている。
表面上はとても静かで、穏やかで、何となくやり過ごしているけれど、違和感は確実に存在する。
良太郎君に返すはずだった紺色の手提げと、貸すはずだった『狸ばやし』を持ったまま、僕は一人で家路についていた。どうしてだか、そうなった。
静久先生が直してくれた手提げはランドセルの中だ。このまま家に帰ったら、僕はランドセルから手提げを引っ張り出して、部屋の片隅に放り出すか、押し入れの中にしまって、二度と手に取らないような気がする。
それは間違った行為だと思う。それに、紺色の手提げも良太郎君にもらったわけじゃない。ちゃんと返さなきゃいけない。だけど、なんだか僕は、ずっとそれを返しそびれそうな気もする。良太郎君も、先生も、このカッコいい紺色の手提げについて何も言って来なかった。
家に帰る足取りが重い。真上の空は明るいけれど、西の空には千切れた雲がたくさん浮いている。これからあの雲が一つに固まりながら僕の頭上にやってきて、冷たい雨を降らせるんだ。そう思わせるような空模様だった。
大イチョウのある住宅地。去年まで駄菓子屋のあった小道。ちっちゃな緑の稲が植わった田んぼ道。
僕は空を見ないように、俯いて足を早める。
でも、家についてしまったら、僕はきっとお母さんの手提げを捨ててしまう。このままの気持ちではダメだ。
山のふもとの住宅地。この端に僕の家がある。でもまだ帰っちゃダメだ。
顔を上げると、歩道の横に石段があった。山の斜面を登る石段だ。毎日の登下校で何度も目にしているはずなのに、今まで一度も気に掛けたことのない石段だ。
石段と言ってもきちんと整備されたものではなくて、扁平な石を不揃いに積み上げた粗末なものだった。石段の左右は木が縦に並んで植わっていて、降り積もった落ち葉が段の半分を覆っている。
僕は足を止めて、階段の上を見上げた。階段は学校の三階ぐらいの高さまで続いていて、その先は平地になっているみたいだ。あそこには何があるのだろう。よく目を凝らすと、階段の上の方に奇妙なものが見えた。
天という漢字に似た、大きなものだ。どうやら鳥居のようだ。ちょっと柱の形が歪んでいるけれど、あれは鳥居だ。そうすると、あそこには神社があるのだろう。でも、こんな所に神社があるなんて聞いたこともない。
僕はもう一度空を見た。雲は出てきているけれど、暗くなるにはもう少し時間がありそうだ。僕は歩道の周囲を見渡した。誰もいない。誰も僕を見ていない。
そうしようと思った理由は分からない。
何かに引かれるように、すぐ近くにある家から離れるように、僕は石段を踏みつけて上り始めた。足の裏で落ち葉がぐしゃぐしゃと潰れた。
一歩、一歩、登るごとに光が木々に遮られて、視界が暗くなっていく。背後の町が小さくなっていく。姿は見えないけれど確実に人のいる住宅地から、一歩ずつ遠ざかっていく。
神社やお寺は神域とも言われるらしいけど、本当に、物語の別世界に向かうみたいだ。空気が五月じゃないみたいにひんやりしている。正月の初詣や夏祭りの神社とは全然違う。生まれて初めて、一人で踏み込む未知の領域だ。肌は冷えてきたけれど、心臓は生温かく震えている。
下から見上げた時より、実際の階段は短かった。大して疲れもしないですぐに頂上の手前まで登ってこられた。すぐ眼前に奇妙な鳥居が待ち構えている。木漏れ日に浮かび上がる鳥居の柱には瘤が見えた。
それは樹木の鳥居だった。鳥居って、大理石だの、なんとか石だの、そんなものばかりで出来ていると思っていたけど、それは細い木の幹を組み合わせて作った鳥居だった。切り出して皮を剥いだ木材ですらない。本当に、木のままで鳥居になっている。
石段を登り切ってみると、やはりそこは神社だった。たくさんの樹木に囲まれた小さな神社だ。祠というのが正しいような、小さくてみすぼらしいお社と、ちっともありがた味を感じないボロボロの鈴と紐、それに泥棒でも見逃すような賽銭箱。
お守りを売っているお店もないし、絵馬を飾るところもない。鳥居の左奥に石の手水鉢があって、木の柄杓が一本立てかけてある。もちろん、人のいる気配なんてまったくない。ネコの子一匹、小鳥の一羽もいやしない。
なるほど、神域といえば神域らしい空気かもしれない。僕が今までこの神社を知らなかったように、ふもとに暮らす多くの人々も知らないのだろう。田舎では一人の神主さんが複数の小さな神社を受け持っていることがあるらしいから、きっとここもその一つに違いない。
肌寒くて肌がちりちりする。けれど、僕の心臓はこの無人の空間を求めている。初詣の時にお父さんから習ったように、鳥居の前で一礼をして、端っこを通る。真ん中は神様の通り道だからだ。だけど、こんな神社に神様なんているのかな? どっちかっていうと妖怪がいそうな雰囲気だけど。
手水鉢で手を洗って(あんまりキレイな水じゃなさそうだけど)、お社の方へ行ってみた。神社には大抵、何の神様が祀ってあるのか示すものがあるけど、ここには本当に何もない。
学校にはお財布を持って行かないから、当然お賽銭なんか持っていない。そこは勘弁願うとして、とりあえず鈴だけ鳴らしてみることにした。僕の手提げなんかとは比べ物にならないほどくすんで汚れた紅白の縄を引っ張ってみると、ガランガランと、これまた壊れかかったようなもの悲しい音がする。
二回お辞儀をして、二回拍手をして、手を合わせたまま目を閉じる。
願い事なんてしない。ただの挨拶。お賽銭もあげていないし、そもそも神様がいるかどうかも怪しいのだから。
それに、今僕が抱えている違和感は、きっと神様なんかに解決してもらうことじゃない。それは僕自身が何とかすべきことなんだと思う。
最後に一礼をして、頭を上げた。
そこに変なものがあった。
――こんなの、あったかな。
さっき鈴を鳴らす時には気が付かなかった。
普通、お社の中には、木の格子の向こうにご神体だとか、神棚みたいなものが祀ってある。だけど目の前の紐の向こうに見えるお社の中には、そのようなものは一切見当たらず、がらんと開けた空洞に奇妙な人形のようなものが転がっていた。
手足のもがれた人形。
最初に抱いた印象はそれだった。両手の手のひらに乗るぐらいの大きさで、顔を向こう向きにして横たわっていた。胴体の手足のあるべき場所にはイボのような小さな膨みがあるばかりで、まるで芋虫のように見えた。頭には薄茶色の毛のようなものが、よく注意しなければわからないほどか細くまばらに生えていた。丸裸で、うっすらと褐色に色づいた肌をしていた。
――赤ちゃんの人形だろうか。だけど、あまりに無残だ。いかに古ぼけた神社だからといってこんなものがご神体のわけがない。
誰かが捨てて行ったのだろうか。古いお人形を神社で供養してもらうという話は聞いたことがある。その類なのだろうか。それにしてもご神体のあるべき場所に置いていくのはおかしいような……。
それとも。
それとも、まさか。
背筋がぞーっと粟立つ。天気は関係ない。服の内側に無数の蟻がたかっているかのような、嫌な、嫌な悪寒に襲われた。
まさか。
まさか。
僕の中で突風が弾けた。ごりごりとした嫌悪が頭を真っ白にした。
気が付けば、僕は賽銭箱を回り込んで、お社の中からそれを取り上げていた。触れた感触は柔らかくて、温もりがあった。生きていた!
人形なんかじゃない。確かに生きている。これは本当に、信じられないけれど本当に、赤ん坊だった。猿のように萎びた体は僕の手の中に納まった。だけど、人間の赤ちゃんにしては随分小さいような……? 親戚の赤ちゃんが産まれて、病院にお見舞いに行ったときは、僕には抱えるのも大変なぐらいの大きさと重さだった。
僕は赤ん坊の顔を見た。その途端、もう一度頭が真っ白になった。
ぎゃ、あ、あ、あ、あ。
声は嵐になって木の葉を揺らした。
その赤ん坊には目がなかった。鼻もなかった。耳もなかった。唇もなかった。どれも空洞ばかりで、口らしい穴の中には歯も舌もなかった。やっぱり神様なんかじゃなくて、妖怪がいた。でも生きていた。赤ん坊の独特な湿った匂いがした。
ふるふる。ぶるぶる。僕は震えた。目玉が落っこちるんじゃないかと思うぐらい、頭が揺れた。
僕はどれぐらいの時間、そうしていたのだろう。赤ん坊を手に乗せて、お社の前でずっと立ち尽くしていた。はっはと荒い呼吸が自分の耳にうるさくて、一切の世界から隔絶されたみたいだった。赤ん坊は呼吸をしていないけれど、手に伝わる温もりは、まるで脈を打っているかのように心地よいリズムを持っていた。様々な疑問と混乱の中で、その温もりだけは実感していた。
やがて、僕は間違いのない一つの真実を見出していた。この子は生きている。弱いけれど、確かに生きて、ここに命が存在している。命は誰であっても守るべきものだ。
赤ん坊をいったんお社に戻して、背中のランドセルから手提げを取り出した。黄色と白の、ドングリ刺繍の手提げ袋だ。お母さんとの思い出と、静久先生の優しさが縫い合わさった手提げに、その赤ん坊を収めた。
上ずった声が勝手に唇からこぼれる。
「どうだい、少しは温かいだろう?」
その返事は意外な場所から届いた。
「優しいな、君」
背後で大人の声がした。
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