第4話

 僕の手提げ袋は、小学校に上がる前に、お母さんが縫ってくれたものだ。あの頃僕の大好きだった白と黄色の生地を使って、一つだけ好きな模様を刺繍してあげると言ったのだ。

「だけど、あんまり難しいのはダメだからね」

 色とりどりの布を床に広げながら、お母さんは目を細めた。

 僕は少し考えて、ドングリの刺繍がいいと答えた。保育園の最後の秋に良太郎君とドングリ拾いの競争をして、僕が四つだけ多く拾えたのが嬉しかったからだ。

 お母さんは髪が短い人だった。活発で、行動が早くて、どっちかというとのんびり屋のお父さんよりも、男らしく見えるところがあった。よくお友達と電話をしてはけたたましく笑っていた。

 だけど、縫物の時はじっと口を閉じていた。洋裁店のおばちゃんに習いながら、何日も、何日もかけて、やっと小さな手提げ袋を作り上げた。

「ほうら、出来た。傑作だよ」

 そう言って自分で大笑いしているお母さんの目には、寝不足でクマができていたけれど、瞳はきらきらと輝いていた。おそらくは隣で見守っていただろうお父さんも、疲れた目でにこにこしていた。

 僕は嬉しくて、嬉しくて、学校が始まる前から、どこかにお出かけするたびにその手提げを持ち歩いた。

 今まで色々なものを入れてきた。

 『新品の靴』

 『タオルと水筒』

 『ビーバーのぬいぐるみ』

 『借りた本、返してもらった本』

 『まだら模様じゃなく、完璧に色づいた紅葉』

 『河原のすべすべした小石』たくさん入れ過ぎて重かった。

 『良太郎君と協力して公園中からかき集めたドングリの大軍』その中に真っ白い幼虫が混じっていて、お父さんが悲鳴を上げた。それを見てお母さんはゲラゲラ笑っていた。

 色んなものを入れて、洗って、使い続けた。そのおかげで、いつの間にか落ちない汚れが染みついていた。それに気づいた僕は驚いて、訳も分からずお母さんに謝ったけど、お母さんはやっぱりゲラゲラ笑った。

「ずっと使っていれば、なんだって汚れるよ。その汚れは、美木正が大事にしてくれた証拠なの」

「汚したのに?」

「道具は、きれいなままでいる方が不自然なんだよ」

 なんだか不思議だったけど、僕は安心した。嬉しくなった。もっと、もっと、色んな物を入れて使いたいと思った。

 学年があがって、新しくクラスメイトになった友達に、手提げが子どもっぽいと笑われることもあったけど、僕は構わず使い続けた。

 ある日、ちょっとした事件が起きた。僕の手提げを何度も馬鹿にする子たちがいた。確か、陽介君と優斗君と達也君だ。

「あんなのをいつまでも使うなんて、子どもじゃん」

 そう言った。あの時は三年生だったから、自分たちも子どもだったくせに、そう言った。たぶん、幼稚園生みたいだと言いたかったのだろう。三人は僕の手提げを取り上げて、薄汚いと罵った。

 僕はカッとして、ムカムカして、手提げを取り戻そうとした。だけど相手は三人だし、その時は掃除当番の僕らしか教室にいなかったから、最初から敵うわけがない。誰だったか忘れたけど一人が僕を後ろから捕まえて、残り二人がひたすら嘲笑っていた。

「ガキくさいよね」

「ダサい」

 自分のやっている事こそダサいくせに。

 僕は何かを叫んだ。感情が高まり過ぎた声は言葉になりきっていなくて、変な喚きだとますます嗤われた。汚い笑顔だった。

 僕は、僕を捕まえている奴の足を思いっきり踏みつけてやった。

 その時だった。

「やめろ!」

 当時隣のクラスだった良太郎君が風のように飛んできて、二人の頬をひっぱたいた。僕を掴んでいた奴の胸倉をつかんで、一瞬、動きを止めて、それから突き飛ばした。

 三人はいきなり泣いた。そのうちの一人、たぶん陽介君だったと思うけど、その子は赤ん坊みたいにわんわん泣いた。本当はそこまで痛くないくせに。

 赤ん坊の泣き声に釣られて、担任だったおばちゃん先生が飛び込んできた。おばちゃん先生は、泣きわめく三人と、顔を真っ赤にした僕と、三人を傲然と見下ろす良太郎君を交互に見比べて、「何があったの」と恐ろしい声で聞いた。

「良太郎君に殴られた」

「いきなり、無言で叩かれた」

「胸倉をつかまれて突き飛ばされた」

 僕と良太郎君が口を開く前に、三人はてんでに主張した。喉を詰まらせて、鼻をすすって、大袈裟に腕をさすって、「僕たちは可哀そうな被害者です」と全力でアピールしていた。

 ――ダサい。ガキくさい。

 僕は、怒るのを通り越して、呆れるやら、情けないやら、とにかく顔の熱が引いていくのを感じていた。肩の力が抜ける、というか、沈んで落っこちる気がした。

今にして思えば、僕はあの時、三人以上に主張するべきだったんだ。

「この三人が僕に嫌がらせをしていたんです。三人がかりで僕一人を標的にしていたんです。卑怯です。それを良太郎君が助けてくれたんです。悪いのはこの三人です」

 そう言えばよかったのに、三人の剣幕と、廊下に集まった野次馬の視線に気圧されて、舌が動かなかった。僕はまんまと、三人の卑劣な主張に縛られていた。恥ずかしくて、こうした場所にいるのが情けなくて、早くこの場を立ち去りたいとばかり祈っていた。

 おばちゃん先生は良太郎君を見下ろして尋ねた。

「本当に殴ったの?」

「殴りました」

 一瞬の躊躇もなく、良太郎君はキッパリと言い放った。

 事実だから。殴っていない、といえば嘘になるから。

 良太郎君は真っ直ぐに、事実を述べた。

 それはきっと、自分の行いを正しいと信じている故の正直だったのだろう。正しくて、真っ直ぐで。良太郎君は紛れもなくヒーローだった。

 良太郎君は柔道クラブの優等生だ。相手の胸倉をつかんだ時、投げようと思えばできたに違いない。だけどそれは踏みとどまった。道場のマットならともかく、教室の固い床で投げ技を使うの、はあまりに危険だからだ。それに相手は受け身を知らない素人だ。投げればきっと大惨事になる。良太郎君は咄嗟にそれを悟って、踏みとどまって、突き飛ばした。一瞬だけ動きが止まったのはそのためだ。あれは良太郎君の優しさなんだ。

 でも、おばちゃん先生には、「人を殴っても反省をしない、開き直った太々しい子」だと思われたようだ。先生はみんなを職員室に連行して、一緒くたにくどくどとお説教をした。

 ――暴力を振るう事は人間として最低です。

 ――友達はみんな仲良くしなくてはいけません。

 ――悪いことをしたら反省しなくてはいけません。

 そんな感じの事を、たっぷりと四十分ぐらい時間を使って、繰り返し、繰り返し、硬軟織り交ぜて語った。熱意の籠った、見事な独演会だった。舌に油を引いたようにというのはこんな有様を指すのだなと勉強になった。しゃべればしゃべるほど熱が増して、身振り手振りが増えて、でも何を言っているのかは段々わかりにくくなってきた。

 職員室には他にも先生がいて、誰も僕らに声を掛けてはこないけれど、机に向かって何か仕事をしながら、黙って聞き耳を立てていることは伝わって来た。凄く恥ずかしかった。

 三人は、本当はとっくに涙なんて止まっているくせに、しきりに嗚咽を繰り返していた。必死に過呼吸になろうとしていた。

 ――僕たちは泣いているんだよ。苦しいんだよ。可哀そうでしょ。味方になってよ。

 そうやって先生たちに涙を売り込んでいた。

「おばちゃん先生の説教長いから、誰か止めさせてくれないかな」

 という想いだけは僕とも共通していたに違いない。同じ事を十回、百回繰り返したところで、百回分理解できるわけはないのだけど、おばちゃん先生は百一回目を信じて同じ言葉を繰り返す。本当に、熱意だけは伝わって来る。凄い人だ。

 僕と三人はうんざりしながら、ただただ時が過ぎるのを待った。

 良太郎君は違った。真っ直ぐにおばちゃん先生の目を見返して、「わかる?」「わかりましたか」「いいですね」と言う度に、素直に頷いていた。何度も、何度も、同じ事を言われても、その都度頷いた。おばちゃん先生が悦に入って、演説が長引いたのはそのせいかもしれないけど、たっぷりと語りつくしたおばちゃん先生は、最後には満足そうな顔で僕らを解放してくれた。

 職員室から出た途端、三人はケロリと涙を忘れて教室に去って行った。僕はその背中を見送って、溜息をついた。

「良太郎君」

 ごめんね、と言うつもりだった。

「あいつら、逃げ足が早いな」

 良太郎君はニヤリと不敵な笑みをつくった。

――先生なんて関係ない。男としてあいつらに格の違いを見せつけてやった。

そんな笑みだった。

「ありがとう」

 僕は口を広げて、より相応しい言葉に変えた。

 僕たちは親友だ。

 あの時、静久先生も職員室にいた。僕はよく覚えている。あの時の静久先生は二年生の担任で、他の先生と同じように、自分の机でテストの答案か何かを見ていた。一言も口を利かなかったけど、先生の耳はしっかりとおばちゃん先生の演説を聞いていたに違いない。

 僕はおばちゃん先生に悟られないように、何度かこっそり静久先生を見ていた。きっと静久先生も僕を見ていた。静久先生は、僕の事をどう思っていたのだろう。良太郎君の事をどう思っていたのだろう。

 あの頃、先生たちの間で僕の存在は特別だった。

 あれは、去年の夏休みにお母さんがいなくなってから、最初の学期のことだった。

 急にこんなことを思い出したのには、訳がある。

 手提げを直してもらったその日、休み時間に図書室へ行こうとして、職員室の前を通りがかった。職員室なんて生徒には嫌なものだ。まして、そこで延々と説教をされた思い出があるから、余計に苦手だ。普段の僕はなるべくそっちを見ないようにして足早に通り過ぎるのだけど、その時は何故だか、吸い寄せられるように廊下の窓から職員室を見た。

 静久先生がいた。後ろ向きで、誰かと話をしていた。おばちゃん先生だった。おばちゃん先生は、あの日のように、身振り手振りを交えて熱心に何かを語っていた。静久先生はあの日の良太郎君みたいに、はい、はい、と頷きながら返事をしていた。先生が頷く度に、髪の毛の尻尾が揺れた。

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