第3話

「へふぁげ、ほうした」

 玄関で靴を履いていると、歯ブラシを咥えたお父さんが後ろから尋ねてきた。手提げ、どうした。と言っているのだろう。本当は、「おや、手提げ袋がいつものと違うじゃないか。どうしたんだ」と言いたいのだろう。

 僕は床に置いた紺色の手提げをちらりと見て、しまった、と思った。それから大急ぎで靴を履いて、手提げと帽子を掴んで、急いで玄関のドアを開けた。

「一日だけ取り換えっこしたんだ。じゃあね、行ってきます」

 お父さんが歯ブラシでもごもごしているうちに、家を飛び出した。

 悪いことをしたわけでもないのに、僕は逃げた。色々と聞かれることが嫌だった。聞かれて、昨日の事を話したら、僕はきっと辛くなる。心が冷える。

 だけど、学校についたらまたその話になる。

 どうしよう。また良太郎君が目を合わせてくれなかったら、僕はどうしよう。不安が染み出してきて、目が重くなる。唇が吊り上がる。顔中の皮膚が真ん中に吸い寄せられたみたいに縮こまっていく。どうしようもない『どうしよう』が、止めどなく溢れてくる。

 ところがこの心配は杞憂だった。

「ミキー!」

 大イチョウのある曲がり角で、後ろから元気な声が追いかけて来た。振り向くと、良太郎君がバタバタ駆けてくるところだった。大きく振った腕に、僕は一度も見たことのない、赤い手提げ袋がぶらさがっていた。

「おはようっ」

 良太郎君は頬っぺたを丸くしてにっこり笑った。

 その笑顔で、僕もいっぺんに笑顔になった。体の芯が温かくなって、顔の真ん中に寄っていた皮が解れて、柔らかく広がっていく。口も広がった。

「おはよう!」

 イチョウの根元で、僕らは合流した。

「昨日は」

 と言いかけた僕の舌は、また固まってしまった。その後に何を言ったらいいのかわからなかった。

「昨日は、ごめん」

 良太郎君は真っ直ぐに言い切った。同じ言葉を先生に言わされた時より、ずっといい声だった。

「俺、本当にミキの手提げを破るつもりはなかったんだ。言い訳みたいに聞こえるかもしれないけど、ホントに、そんなつもりじゃなかった」

 言い訳なんかじゃない。事実だ。僕の固い口がやっと動いた。

「うん。あれは、たまたま運が悪かったんだよね」

「ううん。あれは、やっぱり俺が悪かった。引っかかって取れないから、力を入れて無理やり取ろうとしたのが悪いんだ。今度は気を付けるよ」

「ううん、僕が、自分で取れば良かったんだ」

 並んで歩きながら、僕らは、「ううん」を繰り返した。言えば言うほど、何だか愉快になった。

 良太郎君とのつき合いは保育園からだ。良太郎君はその頃から体の大きくて、やんちゃ坊主で、いつも誰かを捕まえては悪戯をしていた。

 ある日、良太郎君が猫じゃらしをどこからか取ってきて、僕の鼻をくすぐった。やめてよ、と言ったけれど、やめてくれなかった。ヘラヘラ笑って猫じゃらしを押し付けてきて、なんて嫌な奴なんだろうと思った。鼻がムズムズして、熱くなって、堪え切れずに大くしゃみをした。

 ハァークション!

 噴き出した鼻水と唾が良太郎君の顔面を直撃して、驚いた良太郎君は後ろにずっこけた。鼻水を垂らす僕と、ひっかぶった良太郎君。僕らは互いの間抜けな顔を見て、笑った。二人とも園長先生に叱られたけど、僕らはそれ以来の友達となった。

 謝っているのに、笑った。

 謝れるから、笑った。

 いつもの僕たちだ。

 五月の朝だけど、日射しが強くて暖かい。走って来た良太郎君からは、ほんのりと夏草みたいな汗の匂いがした。

「今日の体育、四時間目だろ。今からこんなに暑かったら、昼前はもっと暑くないか」

「うん、天気予報でも、ずっと晴れだってさ」

 この町の五月は東京の七月ぐらいに暑い、とお父さんが言っていた。僕は東京なんて行った事もないけど、きっとそうなのだろう。

「暑すぎて中止にならないかな」

「なったらいいな。だけど、まだ五月だもん。きっとならないよ」

「地球オンダン化だから、五月でも暑い」

「そうなの?」

「そうさ。父ちゃんらの時代と、今の気温とを比べると、今の方が確実に暑くなっているんだって。テレビで誰かが言っていた」

「へえ、そうなんだ。じゃあ、昔の人より、僕らの方が我慢しているんだね」

 良太郎君も、それから実は僕も、運動すること自体は嫌いじゃない。僕は力も弱いし、反射神経も鈍いけど、足の速さだけはクラスで上の方だ。

だけど、あまりに暑い中で運動をさせられるのは、また別の問題。

 イチョウの木から学校までの短い間に、僕たちはたくさんの事を話した。

良太郎君の赤い手提げは、お兄さんのお下がりだそうだ。高校生のお兄さんはバンドをやっていて、良太郎君の家に遊びに行くと、時々ギターの音がする。僕は物珍しさで聞き入っていたけど、良太郎君は、「毎日聞かされてうるさいよ」と言って、ギターの鳴る日は家で遊びたがらない。

 そんなわけで、僕は何度も良太郎君の家に遊びに行っているけど、お兄さんの姿を見たこともない。良太郎君が言うには、校則があるから髪を染めたりはしていないけど、私服やアクセサリーが派手で、学校に行く時と家にいる時は別人みたいになるそうだ。小さい頃から赤や金色といった派手な色が好きだったんだって。

 赤い手提げは女の子みたいで嫌だ、と良太郎君は言っていたけど、戦隊もののヒーローみたいでよく似合っていると、僕は思った。でも、それはそれで、四年生としては恥ずかしいのかもしれない。クラスメイトには今でもそんなのが好きな子もいるけど、僕と良太郎君はとっくにそんなものを卒業している。

 うちを出る時には、良太郎君に会ったらすぐ紺色の手提げを返すつもりだった。だけど、登校中に手提げを返すと僕の荷物を持たせることになってしまうから、教室に着くまで借りておくことにした。

 東棟の靴箱から階段を上がって、四年二組の教室に向かう間も、僕らはずっとおしゃべりをしていた。

 教室のドアを開けると、教卓に静久先生がいた。

「あら、丁度よかった。おはようございます」

 先生は花みたいに笑った。とってもきれいな笑顔だったけど、普段の先生は僕らより後に教室に来るから、僕はびっくりして、どもりながら、「お、おはようございます」と返した。良太郎君も元気よく挨拶をした。

「繋木君、舞田君、ちゃんと仲直りできたんですね」

 もちろんだよ。だって、僕たちは最初っから喧嘩なんてしていないんだから。

 僕らは曖昧に頷いた。すると先生の目がほんの一瞬だけ怖くなった。どうしてだろう? でも先生はすぐ笑顔に戻って、後ろ手に持っていたものを僕の前に差し出した。黄色と白の、ドングリ刺繍の手提げだった。

「はい、繋木君の手提げ袋。直しておきましたよ」

 本当に直してくれたんだ。やっぱり先生は優しい。僕は手提げを受け取った。

 その最初の感想はこうだった。

 ――違う。

 そう感じた。ちゃんと直っているけど、違う。直っているから、違う。

 僕の手提げは、あまり自慢にならないことだけど、薄汚れている。一年生の時からずっと使い続けているから、洗濯しても落ちない汚れが染みついている。白いはずの部分が茶色くなっているところもある。その色は変わっていない。変わっているのは、破れた場所が縫い直されて、新品の真っ白な糸が見えていること。

「わあ、先生、裁縫も出来るんだ」

 良太郎君は素直に感心している。

「そうよ。小物ぐらいなら自分でも作れるんだから」

 先生も得意そうだ。

 本当に、きれいに縫われて、直っている。

 だけど違うんだ。もうこれは以前の手提げじゃない。見慣れた生地を貫く真っ白な糸が、僕の目には新たな亀裂に映った。

 先生は悪くない。とても親切だ。文句なんて言えるわけがない。先生だって学校の仕事が忙しいのに、わざわざ僕のために縫ってくれたんだ。先生の気持ちは嬉しいはずなのに、ありがたいはずなのに、僕の頭は重くなって、徐々に項垂れていく。いけない事はわかっている。でも事実なんだ。しょうがないんだ。

「ミキ……美木正君?」

 項垂れた僕を、良太郎君がきょとんとした様子で覗き込んでくる。きっと先生も不思議な顔をしているのだろう。やっぱり、お礼も言わずに黙り込んでいる僕は間違っている。

「美木正君。先生が直してくれて、良かったな」

 良太郎君が軽く背中を叩いてくれた。叩かれた勢いで、声が出た。

「あ、うん。ありがとうございます、先生」

 やっと言えた。良かった。

 僕は顔を上げた。

 静久先生は、冷たい顔をしていた。

「舞田君」

 どうして? どうして先生がそんなに硬い声になるの? 僕にはさっぱりわからない。

「良かったな、じゃ済まないんですよ。これはあなたが破いたのが原因なんですからね。それを忘れちゃ駄目ですよ」

 大きな声じゃないけど、硬くて、冷たくて、尖っている。今度は良太郎君が、さっきの僕みたいに項垂れた。

「自分のしたこと、特に、人に迷惑をかけたことは、ちゃんと反省して覚えていなければいけないの。直って良かったな、なんて済ませられないんだから。わかる? 舞田君、先生の言っている事が、わかりますか?」

「はいっ」

 良太郎君は顔を上げて、自分の力で返事をした。僕はおろおろしているだけだった。

「いいでしょう」

 先生の顔が柔らかくなっていく。

 チャイムが鳴って、朝のホームルームの時間になったので、その話はそこで終わりになった。席に着こうとすると、先生が僕だけを呼んで、教卓の陰でこっそり耳打ちをした。

「繋木君。嫌な事は、嫌って言ってもいいのよ。先生が守ってあげるから、怖がらないでね」

 先生の顔が近くて、耳がこそばゆくて、胸がどきどきした。

 だけど、いったい何が嫌な事なのだろう。先生は、僕が何を嫌がっていると思っているのだろう。僕自身でさえわかっていないのに、先生にはわかっているのかな。

 僕は自分の席についた。ホームルームの間、机の横のフックには戻って来た黄色の手提げと、返しそびれた紺色の手提げが一緒にかかっていた。

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