第9話
僕は泣かなかった。
全身のそこかしこが痛くて、頭もくらくらしていたけれど、心のどこかで大怪我じゃないと直感していた。事実、病院で診てもらった結果は、右足首の軽い捻挫と腕の擦り傷だけだった。
「落ちる時にランドセルがクッションになったんだね。落ちた場所が石段じゃなくて土の上だったのも良かった。普通に歩く分には問題ないけど、激しい運動は控えるように、だってさ」
診察室を出た僕は、待合室のソファに腰かける良太郎君に向かって、努めて明るい声をかけた。待合室には漫画の雑誌も置いてあったけど、良太郎君はぼんやりとテレビを見ていた。
「骨折とか、してなかった?」
「うん、してない」
「本当に大丈夫? 痛くない」
「ちょっとずきずきするけど、それほどでも」
「入院は」
「しなくていいって。大した事なかったんだよ、うん」
「そうか――」
良太郎君はやっと安心したように溜息をついた。
僕を病院へ連れていくように近所の人に頼んだのは、良太郎君だった。
僕が石段から転げ落ちた時、良太郎君はすぐに側に駆け寄って、しきりに声を掛けてくれた。僕は頭を打ったわけではないけど、急なことに心が驚いて、咄嗟に返事が出来なかった。すると良太郎君は物も言わずに僕を担ぎ上げて石段を下って、すぐ傍の玉井さんの家に駆けこんだ。
玉井さんはゴマ塩頭のおじいさんで、子どもを見るとすぐ口喧しく説教をしたがる人だ。庭で花壇の草取りをしていた玉井さんは、良太郎君の懇願を聞くと、ふんと鼻を鳴らして顔をしかめた。
「最近の子は軟弱だな。わたしらが若い頃は、階段から落ちたぐらいで騒いだりしなかったよ。わたしなどは学校の二階から飛び降りたこともある。ちょいと着地をしくじって肘を打ったが、それでも笑顔で堪えたものだ。男の子とはそういうものだ。骨を折ったわけでもないのにうじうじ泣いて、みっともない」
繰り返すが、僕は泣いていない。
「お前たち、何年何組だ」
「四年二組です」
「四年生か。上級生にもなって、なんだ、そのザマは」
「お話はあとで聞きますから、病院へ連れて行ってください。ひょっとしたら骨にヒビが入っているかもしれないんですよ。検査しないとわかりません。放っておくと悪化するかもしれません。お願いします。病院までは遠くて、僕一人ではミキを運べません。連れて行くのがダメなら、せめて救急車を呼んで下さい」
良太郎君は堂々とつっぱった。国語の授業で指されても、すらすらと教科書を読めないのに。
「家の前に救急車なんて呼ばれてたまるか。近所が騒ぐだろうが」
玉井さんは毒虫を見つけたみたいな顔をしながら、結局、自分の車を出してくれた。
「ありがとうございます。それから、ミキのお父さんに電話させてください」
「電話なら玄関を入ってすぐだ。さっさと済ませろよ。まったく図々しい子どもだ。わたしが若い頃はもっと大人に敬意を持っとったのに」
ぶつぶつ言いながらも、玉井さんはちっちゃな軽自動車で病院まで連れて行ってくれた。煙草の臭いと汚れが染みついた車だった。民放ラジオがガーガーと鳴っていて、運転中、玉井さんは一言も喋らなかった。
「帰りと治療代は、お父さんにして出してもらえよ。じゃあな」
病院の前で僕たちを下ろすや否や、煙草臭い車はさっさと引き返して行ってしまった。
「ありがとうございました」
僕らは精一杯頭を下げてお礼を言った。
良太郎君が電話したところによると、お父さんも仕事を早めに切り上げて病院に駆けつけてくるらしい。診察を終えて出て来た時には、まだお父さんは来ていなかった。僕らは待合室のソファでお父さんを待つことにした。
それほど広くない待合室はガランとしていて、僕らの他には、白髪頭のおばあさんと、その孫らしい幼稚園生ぐらいの女の子がいるだけだった。女の子は膝の上に絵本を広げていて、おばあさんが横から覗き込みながら小声で朗読している。
僕らもつられて小声になる。
「なんか、本当に大袈裟になっちゃったね」
僕は本心を言った。
「玉井さんやお父さんに散々迷惑かけて、結局、大したことなかったんだもの」
「別にいいじゃないか」
良太郎君はテレビを向いたまま言った。テレビは夕方の子ども向けのアニメをやっていたけど、その音声も控えめに聞こえた。
「大怪我しないで済んだんだから、それが一番いいに決まってるだろ」
「だけど、玉井さん、迷惑そうだったし……」
「だったら、あのじいさんに会う度に何度でも謝って、それから感謝すればいいさ」
「何度でも?」
「うん。何を言われても、無視されても、そうする。そうするしかないよ。相手が普通に話してくれるようになるまで続ける。俺、大人に怒られた時はいつもそうしてる。……そうじゃないと、大人って、話聞いてくれないもん」
良太郎君に言われると、なんだかそんな気がする。きっと、それが正しいことなのだろう。
だけど、出来るかな。この僕に、そんなことが出来るだろうか。怒っている人に向かって自分から、何度も謝るだなんて、出来るかな。うるさい、しつこい、って怒鳴られたら、とても続けられそうにない。僕は……。
表に車の止まる気配がして、僕は入り口のドアの方を振り向いた。ドアは透明のガラスだから外が見える。入り口のすぐ傍に乗りつけた車は、お父さんの青い車じゃなくて、僕の知らない薄緑の軽自動車だった。
エンジンが止まって、薄桃の上着を羽織った女の人が降りて来た。僕はあっと声をあげた。
「しず……科野先生だっ」
「え、先生?」
降りて来たのは静久先生だった。
先生の本名は科野静久。みんなは科野先生と呼ぶし、僕も口に出す時はそれに倣っているけれど、心の中では静久先生と呼んでいる。だって、その方が先生には似合っていると思うもの。
「先生にも報せたの?」
「いや、言ってない。どうして来たんだろう」
静久先生はガラス越しに僕らを見つけると、足を早めて入って来た。受付の人に何事か告げて、心なしか硬い顔をしながら僕らの前にやって来た。
「繋木君、怪我は大丈夫なの?」
ちょっと上ずっていたけれど、温かい声だった。
「はい。大丈夫です」
急いできたのだろう。ほんの少しだけど息が上がっていて、うっすらと汗をかいている。
「あんまり激しい運動はダメだけど、普通に生活するなら、大丈夫だって……」
「そう……。それは良かったわね」
先生は軽く目を閉じて、安心したように息を吐いた。熱い息が僕の唇にまで届いて、思わず背中が震えた。
「それじゃあ、当分の体育は見学にしましょう。ね?」
「はい」
徒競走、頑張るって決めたばかりなんだけどな。
僕が勝手に転んだのだから、仕方ないのだけど……。
「ご近所の玉井さんに連れてきてもらったのでしょう。ちゃんとお礼は言いましたか?」
「はい」
玉井さんが先生に報せたのか。でも、どうしてそんな事をしたのかな。これ以上は関わりたくないって態度だったのに。
「舞田君」
先生はゆっくりと頷いて、良太郎君の方へ向き直った。
「繋木君がどうして怪我をしたのか、先生はまだ聞いていません。玉井さんからは、子どもが遊んでいて怪我をしたとだけ聞いています。どこで、何をやっていて怪我をしたのか、教えてくれますか?」
「はい」
良太郎君は背筋をしゃんと伸ばした。
「ミキ……繋木君の家の近所に、石段があるんです。僕たちはそこで遊んでいました。そうしたら、繋木君が足を滑らせたんです」
「どうして足を滑らせたの」
あれ、この感じ……。
学校での、硬い感じの声。
「僕が帰ろうと言い出して、先に石段を下りたんです。繋木君は慌てて僕を追いかけて、それで、滑ったんです」
「そう。そうなのね」
そう、って。何が「そう」なの。
質問というより、尋問みたいなこの感じ。
ああ、わかった。
先生は僕の怪我を、良太郎君の仕業だと疑っている。ううん、良太郎君のせいだと決めつけている。だからあんなに硬い声で問い詰めるんだ。手提げ袋と同じように、良太郎君が乱暴な事をする子だと勘違いしているんだ。
そうじゃない。そうじゃない。
「良太郎君のせいじゃありません」
僕は言っていた。言葉が勝手に出た。
「繋木君? 先生は今、舞田君に話を聞いて――」
「僕が無理に誘って、石段の上まで一緒に行ったんです。それで、降りる時に、ちゃんと足元を見ていなかったのがいけなかったんです。良太郎君は悪くありません」
言った。言い切った。言い切ってやった。
「繋木君」
先生が戸惑いの目で僕を見る。深い目だ。先生のそんな目は初めて見た。笑う時の水晶のような目でも、硬いお皿の目でもない。濃くて、揺れている。不思議な目だった。
「良太郎君は僕を助けてくれました。大人の人に頼んで、僕を病院に連れて行ってくれました。それに、今も、今も隣にいてくれています。僕を心配してくれています。だから、先生」
僕は、どんな目をしているのだろう。
「良太郎君ばっかり、責めないでください。」
やっと、それが言えた。ずっと前に言うべきことだったけど、ようやく言えた。
先生はびくりと肩を震わせて、目を伏せた。
僕の言葉が先生を突いた。こんなこと、初めての感触だった。
しばらくして、先生はまた熱い息を吐いた。
「……わかりました。先生は、ただ事実を確認したかっただけですけど。舞田君、繋木君を助けてくれたんですね」
ぱっと開いた目は、キレイな水晶だった。
「でも、二人とも。階段は気を付けて歩きなさいと言っているでしょう。学校の外でもそれは同じですよ」
「は、はい!」
「はい!」
僕らは素直に頭を下げた。伏せた顔の下で、ニヤリと笑い合った。
外に車が止まって、お父さんがあたふたと駆けて来た。先生もそれに気づいて、僕らの傍を離れた。お父さんは僕の姿を遠目に見て安心したのか、静久先生と、診察してくれたお医者さんを交えて、大人だけの話を始めた。
「ミキ……」
良太郎君がぽつりと、僕の名を呼んだ。それきり二人とも黙り込んだ。
診察室から女の人が出てきて、絵本を読む女の子に笑いかけた。あれはきっとお母さんだろう。
テレビのアニメが終わってニュースが始まる頃、ようやく大人の話が終わった。僕はお父さんと一緒に帰ることになった。
「舞田君は先生が家に送っていきます。その前に、一緒に、玉井さんのところへお詫びをしに行きましょう」
お詫びという言葉で合点がいった。玉井さんは僕の怪我を先生に報せたというより、自分の家に生徒が押し掛けて来たことに対して、学校に苦情を言ったんだ。そう言えば、学年を聞かれて、四年二組だと答えた。だから静久先生に話が伝わったのだろう。
きっと良太郎君は玉井さんに説教をされる。それを承知で、良太郎君は背筋を伸ばして立ち向かう。それは強さだ。
「良太郎君!」
駐車場で、別々の車に乗り込む時、僕は声を張り上げて、青い手提げを押し付けるように渡した。
「また明日! あと、ありがとう」
僕なりの応援と、誓い。
「また明日!」
応援は笑顔と一緒に返って来た。
茜空をカラスが飛んで行く。二つのエンジン音がその鳴き声を掻き消した。
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