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「そうか」
最後尾に位置し、白き姿の神の花嫁たちに指示を出していたリーゼロッテの耳にすら。
「明快に、我らが敵となると告げたいのか、ソニア? 何をいまさら」
旧ダヴィオニア帝国の礎とすらなった魔導の象徴、精霊たちを崇め奉る霊廟。その守護者たる闘士の列に、開闢以来の天才とまで謳われて連なる者が難敵となって立ちはだかる。その忌々しいことでしかない筈の事実に、しかしリーゼロッテは獲物を発見した獣を彷彿とさせる笑みを浮かべる。
思い起こされる。あれは六年前、まだ生まれたて、幼子どころか赤子と称すべきダフネを、大陸の本国へと連れ帰ろうとしたときのことだ――
名目は貴族たちの反抗の名目と成りうるダフネの保護。ルセリナに置いたままでは、いつ不貞な野心家が神輿として利用を企むか知れたものではない、とした。自分たちを棚に上げてのその言葉、それを涼やかに言ってのけた面の皮の厚さは、マリナス教国人もたいした玉と言うほか無い。
それに反論したのが、まだ霊闘士の見習いであった当時一二歳のソニア=セルバンテスだった。
「そうなれば貴族たちは、殿下が王位継承者の列より抹消されたと告げ、いよいよ好き放題を始めましょう。お姿の見えぬ殿下は、もうお隠れになってしまわれたのだ、では新たに王を立てようと。各地におわす王家に連なる血筋の方々を立てて、それぞれ地方で割拠する光景が目に浮かぶ」
マリナス教国は、本国にダフネを連れて行ってしまえば、後は『マリナス本国にて保護されているダフネ陛下の勅命』という言い分を盾に、ルセリナを好き放題にするつもりでいた。なので、ソニアでなくとも正論をもってルセリナにダフネを留めようとする者など、血を求め周囲を旋回する蚊よりもなお鬱陶しい存在に過ぎなかった。
「私利私欲で集まることしか叶わぬ魔導貴族どもごとき、好き放題わめいたところでいかほどのことがあろう――貴様もダフネ陛下にあらぬ思想を吹き込む不貞の輩と認識する、よってここに天誅を食らわすっ!」
わずか数日前に、当初はルセリナ完全勝利と思われた対魔導貴族の連合軍を約五倍の戦力差を跳ね除けて打ち破ったことで浮かれていたこともあったのだろう。白銀の花嫁の一人が、そんな心情によって、まさに蚊を叩き落とす程度の気持ちでソニアにそう告げ挑みかかった。事実、すでにしてこの時までに、ダフネを傀儡ではなく真のルセリナ王として考え、ダフネのために何がしかを企んだ者を、その発覚した数だけ屍として周囲に見せしめとして晒してきた白銀の花嫁たちである。ソニア一人のために躊躇う必要性など、感じられよう筈もない。
いかな霊廟の天才児であろうと、若干一二歳ではそんな剣呑な輩の武技に対抗しうるとも思えない。その場にいる心あるルセリナ廷臣は、ソニアが血まみれになって害される様を想像する。
しかし、その予想は完全に外れた。
その魔導貴族を破った筈の、見目の麗しさに反比例した剣呑なる白き花嫁に属する一人が、ソニアの手に掛かった時、完全なタイミングで差し出された筈の錫杖による防御の型ともども一太刀で横腹を強打され、想像を絶する速度で壁に叩きつけられた。
先んじては壁と人間がぶつかりあう音、次いで響くはありえないほどひしゃげた錫杖が床を転がる金属音が広間中に響く。その光景に、場に居合わせたマリナスとルセリナの高官たちは誰一人として口を開かなかった。
そうしてよほどしばらくしてから、ソニアは立ち姿を正しゆっくりと周囲を一見する。
あまりの速さに瞬きすらする暇もなかった槍技を、あえて誇示するがごとく振り払うように一振りして後、事実上の支配者になりつつあるマリナスの高官たちへ、ソニアはその白き花嫁を完膚なきまでに一撃で叩きのめした罪に、怯むどころか挑発的な微笑すら浮かべて思うところを詠う。
「私はいま、言論による理解の是非を怠り、突然襲い掛かってきた暴徒を振り払っただけと主張させてもらう。その上で貴女がたに問おう、ただいまの事象、汝らと我、どちらの驕りによる罪かを」
それまで呆然と佇んでいた鋼の白衣まとう神の花嫁たちが、にわかに殺気立つ。人の身に獅子や虎がごとく毛が生えていたのなら、全身の毛を逆立てたかのように剣呑な空気を漂わせ始めた。ただの一人に侮られて大人しくしていられるような性分なら、そも事の始まりからサイラス神殿騎士に属し白銀を花嫁衣装と纏いて戦場という舞台に踊り出るような真似などしはしない、血の気の多さ海原のごとき娘たちばかりである。
「そうだな。そなたに理がある、霊闘士」
そんな、信仰に絶対従順のある意味純粋な神の妻たちに待ったを掛けたのが、本来、そんな彼女たちの一番前で怒らねばならぬはずのリーゼロッテだった。
ダメだな、勝てん。
白銀の花嫁団長、リーゼロッテは臆病者ではない。少なくとも、彼女を捕まえてそう称することのできる者はこの場には存在しない。そのリーゼロッテが、恐怖心からではなく冷静に、ソニアの武技の程を目の当たりにしてそう結論付けた。
あれに対抗できるのは、おそらくこの場にてはただ一人、白銀の花嫁団長たるこのリーゼロッテのみ。それも実力は伯仲、ひとたび切り結べば勝敗定かならぬ死闘となることはリーゼロッテにとっては明らかだった。未だ反抗勢力を押し返しただけに過ぎぬこの時期、本国より大任を帯びる自らの命を、勝敗定かならぬ一個人としての死闘に投入することはできない。自分を合わせたこの場の白銀の花嫁が総力で襲い掛かれば討ち取れるが、今は魔導連合軍五万をただの一万で退けた事実を最大限効果的に宣伝する時期である。それをただの一騎に複数で押さえにかかるなどという醜聞で、台無しにしていい段階ではない。敵味方を合わせた周囲が過大評価しているほど、マリナスのルセリナ島侵略は容易く進行している訳ではなかった。
「非はこちらにあった。謝罪しよう、ゆえにそなたも矛を収められよ、霊闘士」
「リーゼロッテ卿。凡人の過ちなれば謝罪で済ませもしようが、卿は仮にも我が国の先王が同盟者として認めたマリナス国の代表。であるならば、具体的な行動をもって謝罪してもらわねば、こちらとしても矛を引くことまかりならぬ」
その発言に、リーゼロッテは薄く笑みを浮かべる。
「ではいかな具体的行動ならご納得くださるのかな、霊闘士殿は?」
「我が国の王を、我が国の玉座に。ダフネ陛下の大陸へのご非難行、白紙にしていただく」
「……なにぃ?」
それまでは、余裕すら感じられる笑みを浮かべていたリーゼロッテが、やおら顔をしかめる。図に乗るな、と態度で示した形であった。
だが、それを見て今度はソニアが微笑んだ。友好的なものではない、侮蔑・嘲笑を含んだ、あからさまな挑発の意を示す好戦的な微笑を。
「本来なれば領土の割譲すら求め得る非礼への返答、こちらとしては最大限の譲歩だが? もし、これを否というならば是非もない。汝らマリナスは口で共存共栄を謳っておきながらその実、このルセリナを支配略奪せんと欲する不貞の輩と断定する。この身が全身砕けるまで、汝らを槍のサビに変えるべく振り続けるより他ないが――」
そこまで告げるとソニアはやおら怒りを発露し、まるで城門を破城すべき槌が威力と思しき音量の怒声で謁見の間の壁と言う壁を叩きつけた。
「返答は如何!?」
たまったものではなかったのは、その場に居並んでいた廷臣一同である。その壁すら叩いて震わせる音量の怒声に、ある者などは物理的な衝撃を受けたがごとく、数歩後ずさらずにはおれなかった程だった。さらに、廷臣たちの中でも未だマリナスに染まっておらぬルセリナ派の者たちは内心で嘆息をつかずにいれなかったことだろう。そこまで言ってしまっては白銀の花嫁たちも引っ込みが付かなくなってしまう、と。
ルセリナの臣下からすれば、この場は霊闘士の大いなる武を示し、花嫁たちが怯んだその隙に、少しでもルセリナに優位な交渉をまとめて収めるべきだった。それが今の挑発で全てが台無しになったと、ルセリナに与する者は誰しも思ったはずだ。
「だが」
しかし、そんな失望したであろう廷臣たちの耳に、ソニアの言葉の続きが届く。
「もしこちらの提示した条件を飲んでくださるというのなら。マリナスの厚い信任と気遣いを無用な疑いにて汚したこのソニア=セルバンテスの命、差し出そう」
こいつ――リーゼロットは目を見開いた。
霊闘士の存在のことは、文献によるものだけだが知っていた。かつて、マリナスがエルクティア大陸の西域を席巻した数百年前、強大な魔物たちや都市国家群と並んで立ちはだかった巨大な壁の一つが、魔導貴族の末裔たちとそれに付き従う霊闘士だったために。
大陸の魔導貴族たちは、人間が神より見放される結果を招いたダヴィオニアの末裔という理由をもって世界各地で迫害を受け、到底国家規模の勢力を形成・維持することが出来なくなっていた。ゆえにそれは戦争というよりは狩り立てに近いと、勢力拡大の黎明期には思われていた。
だがそれがとてつもない見当違いであったと、マリナスの神官たちはそれこそ自分たちの血肉に刻む形で思い知らされることとなった。
魔導貴族の中でも、かつて帝国の政治中枢を司った一二柱と呼ばれる家に連なる大貴族たちは、今、眼前のソニアのような霊闘士なる存在が傍に侍っていた。魔導貴族の操る強大な魔法への対策は十分に検討されていたが、魔術世界の深奥のひとつ、霊闘士のことは完全に度外視していた。その危険度がまるで分からなかったのだ。魔導貴族の常で、魔法を詠唱する際の時間稼ぎができる連中であろう、という程度の認識だった。
だが大陸でマリナスと相対した魔導貴族と霊闘士の中には、マリナス覇権主義による大軍の尖兵たちと、一歩も引かず戦い抜いた者がいたという。ただの兵隊ではない、魔導貴族の魔法に十分対抗する術を会得した数千のマリナス神官たちを相手に、主たる魔導貴族との二人だけでだ。
その事柄一つとってみても、霊闘士が魔導貴族にとってどれだけ大切なものであるかは容易に推察できた。魔導師たちの歴史も少しは学び、その二つが精霊を介し、切っても切れぬ特別な契約を交わし合う間柄であることも。
その霊闘士となる危険性を孕んだ女を今、問答無用で葬れる機会が到来した。
リーゼリットの心は揺れた。今ここで、将来確実にルセリナを実効支配する際の禍根となる霊闘士を排除すべきか。
ソニア=セルバンテスなる霊闘士見習いは、その幼さにしてすでに天賦を謳われる才能の持ち主と聞く。ただの一騎に再び自分たちが大多数をもってしても圧倒できないなどという、マリナス教国黎明期の悪夢がこのルセリナを舞台に現代へ再び顕在しないとも限らない。そんな、マリナスの神官にとっては伝説級の災禍たる霊闘士を抵抗なしで、まったくの被害なしで今ここで排除できることへの誘惑は決して小さくなかった。
だが、その誘惑に身を委ねてしまったらどうなるだろう。
悩んでいた時間は、実際にはごく僅か。リーゼリットは殺気立つ配下の花嫁たちを手を水平に上げて制し、能面のごとき無表情で宣言した。それには及ばぬ。むしろ霊闘士ソニア、そなたの諫言のお陰で私はマリナスとルセリナの間に無用な火種を生まずに済んだ、感謝する、と。
――六年前のあの日、命を差し出すと言ったソニアは、告げた後に得物を壁に大切そうに立てかけた後、そこから離れて広間の中央に移動し、そして不動となった。
そうなれば話は簡単。口で約束してソニアを殺し、後に約束など反故にしてしまえばいいだけのことだ。白銀の花嫁たちは、誰しもそう思ったことだろう。
だが、それでソニアを排除していたら、その後はどうなっていただろう。
まったくの孤立無援で抵抗も一切せぬ、魔術師にとって神聖なものである霊闘士を殺した件は瞬く間にルセリナ全土を駆け巡り、せっかく敗北に追いやり意気消沈させた魔導貴族たちに真の敵愾心を植えつけ立ち上がらせることになっていたことはまず間違いない。今度は見せ掛けではなく正真正銘、団結して挑んでくる可能性も存在した。しかも先の大敗を踏まえてのこと、恐らくは入念な準備を整えて。
とどのつまりは、二つに一つ。一人の霊闘士と真に連携した魔導貴族、どちらの形の将来の禍根を大きく捕らえるか。
確かに魔導貴族たちには勝った。それもマリナス教国が大陸で狩り立ててきたような個々の魔術師との戦闘などではなく、軍を所有し数多の同胞をまとめることで国家を形成する本格派の魔導帝国貴族の末裔たちを相手にしてだ。被害の差とそれまでの魔導王国不敗神話を崩した点をも考慮すれば、完勝の名にすら値しよう。
だが、だからといってそれで一気にルセリナを支配下におけるというものでもなかった。
王のために自らの命を差し出す、当時齢一二の霊闘士見習いだったソニアを問答無用で殺して、挙句その約束を反故したとあれば、義憤に駆られマリナスに絶対不服従を誓う者の数が増大していたことは疑いない。術策を用いて離間させた、マリナスの女たちに隷下を強いられてきた男たちの中からすら、反感の声をあげて再度裏切る者すら出ていたことだろう。人の口に戸は立てられぬ例え、そして魔導師の目は千里を掛ける例えの通り、どれだけ緘口令を敷こうと風聞はダフネを事実上の傀儡に仕立てたことなど足元にも及ばぬ勢いでルセリナ全土に蔓延し、今日より頑強な抵抗が各地で起こっていたことは想像に難くない。
二つの災禍のうち、魔導貴族の団結をこそ警戒すべしという選択の結果が、もっと砕くならば霊闘士を軽く見た末の結果が今、リーゼロッテの前に雷の暴風という形で広がっていた。
あれをマリナスの障害と、その覇権を邪魔立てする災禍なのだと認識するのなら、その呼称はもはや人災ではなく天災。数はただの一人だろうが、排除への気構えには万の軍を相手取る気概でも足りない。津波や嵐、地震や雪崩といった大いなる自然災害をせき止める覚悟が求められよう。
「ダメだな、勝てん引かせよ」
かつて心の中で呟いた言葉を、今度は実際口にし声として現世に解き放つ。
「閣下!? そのようなことはございません、敵は実質一人、閣下がいてくださればいかようにも――」
「マドレーヌ」
「は、……は」
「私は『引かせよ』と言った」
リーゼロッテより名指しされた、ただの一騎で白銀の花嫁に抗する相手に狼狽していた女は、上司の静かな恫喝に浮上した恐の感情をもって冷静さを取り戻し、一礼をもってその返答とした。
それは、『かつて魔導貴族軍五万を一万で退けたことによって生じた慢心によって、その隙を突かれて王と側近を取り逃した』という方が、『千の兵力をもって、ただの一人に跳ね除けられみすみす逃がした』という事実の方よりまだしも政治的な宣伝としてマシである段階であったがゆえの、リーゼロッテの判断だった。
もはやこれ以上の戦闘は無駄と、副官にそれだけ伝えリーゼロッテは手綱を繰り馬の踵を返させる。
あれに勝つには、
「(私が、人を捨てねばなるまいよ。本国に戻りて、この身の肉という肉に尼僧たちの呪いを刻む気概でな)」
と、胸郭の奥で呟きつつ。
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