約束の一週間の間、ダフネは生きた心地がしなかった。なにをやるにも上の空で、事情を知らぬ侍従たちはいぶかしんだほどである。


 ダフネにはあの日、ソニアが出て行く際に閉めた扉の音が、現世への道が閉ざされた音のように聞こえた。まるで伝説に伝え聞く彼の冥姫治める国から黄泉路より逃れようとして果たせなかった、亡者にでもなったような気持ちで。


 しばらくは呆然としていたダフネは、やがてソニアの言葉がゆっくりと心に染み込み、顔を青くし体を小刻みに振動させ始めた。


 ソニアは言った。王を僭称し民の血税を飽食してきた詐欺師は死ぬしかないと。だが仮にも主として仕えたからには一人では死なせない、自分も共に死ぬとも。


 震えが止まらない。ソニアは、すると言ったらする。泣いて縋っても無駄であることは分かっている。


 ――自分はどう転んでも死ぬ。


 王として生きることなど自分には不可能だ、ということも理解しているつもりだった。


 自分にはあらゆる才能が不足している。


 王の育成が始まってから、なにをやってみても平凡以下だった。光るような才能など、どの分野にも持ち合わせていない。ソニアという傑出した霊闘士の下、ほぼ四六時中付きっ切りで教わってそのザマだったのだ。今後も見込みがあるとは思えない。


 そんな無能な自分が、無理に気張って王を名乗りソニアの主となったとて、それでどうなろう。真のルセリナ王を名乗るのであれば、王都から脱出しなければならない。傀儡という立場から脱却し、自由を得て初めて諸侯に自らが王たるを名乗り、号令を下すことも叶おう。まずそこからして難題だ。マリナスが指を加えて王都脱出を見逃してくれよう筈もない。この時点ですでに命がけだ。


 それでも、ソニアなら可能とするかも知れない。王を得、真の霊闘士として力を解放した者の戦闘力はもはや凡百の魔術師が立ち向かえる領域から逸脱すると伝説は謳う。それがどれほどのものであるのかは、ダフネは実際に見たことはないから推測するしかないが、『霊闘士の存在をもって帝室と一二柱、数多の魔導貴族たちの頂点に君臨す』と文献に謳われているからには、王都から逃げ出す程度の臨界突破は期待してもいいだろう。


 だが、仮にそうまでして危険な橋を渡りきり、王都を無事に脱出し得たとして、それからどうする? どこか最寄の貴族の元に駆け込み、そこで助力を得て島の再統合を呼びかけることにでもなろうか。しかしそんな真似、拙い自分の行動の一つ一つが、地方の貴族たちの行動の邪魔となるであろうことは目に見えている。そもそも、脆弱な自分ではそこまでたどり着く前に野垂れ死ぬ可能性の方が高そうだった。


 幾度、穏やかな生存の道を探ろうと思考してもたどり着くのは『そのような道は皆無』という無常な解のみ。


 ゆえに死は確定的であり、だから怯えた。心底から、怯えることしかできなかった。


 ソニアに殺されるのも、王として死ぬよりも辛い義務を背負って生きるのもいやだ。穏やかに、今までのようにただ楽しいだけの生を貪りたい――ダフネの生存本能は悲鳴を上げ続けた。ソニアから逃げ切ることなど不可能だったし、仮に可能だったとしても、逃げてどうなるものでもない。その身はマリナスの囚われの身、唯一の味方である霊闘士ソニアに背を向けるということは、すなわちその身をマリナスに差し出すということと同義。その先に待つのは、王族として屍を野山に晒すよりもなお絶え難い、マリナスの傀儡奴隷として恥辱のみの人生が待ち受けているだけであろうから。


 だから。ダフネ=インドゥラインは期限の日が命日となった。そう考えるより他なかった。逃げ道などどこにもないと。


 ダフネには永遠のようにも感じられた恐怖の時間も、怯えていたのは実質には三日。引き付けをおこしかねないくらい徹底的に怯えて続けると、後は不思議とさっぱりとした気分になった。後は野となれ山となれ、という心境である。


 ――ソニアだけ、脱出してもらいましょう。


 王となる。ソニアの力を解放する。そうして後に命じるのだ、『次なる主を求めよ』と。


 魔導貴族と霊闘士は、精霊の力を介して霊的に結ばれると聞き及ぶ。あるいは自分が死した後、ソニアの力が減退するかも知れないが、とにかくもソニアが生き延びてくれればそれでいい。自分という足手まといさえ居なければ、ソニアならどうとでも逃げおおせられるだろう。


 ソニアという傑出した霊闘士を、こんな張りぼての王と運命を共にさせてはいけない。


 どう転んでもこの命は消える。ならば、と決意することで、ダフネは約束の日を迎えられたのだった。


 雲もまばらな晴天の下、王城の中庭で、動きやすい動物の皮で精製された運動着となったダフネとソニアは互いに長物を手に向き合っていた。ダフネはソニアに礼をし、教わる者の礼儀を示す。その点は、たとえ王者と臣下の間であろうと例外とはなり得ない。


 今日は、約束の日。


 自分が、王であるのかそれとも否か。王を詐称した愚者として泣き喚きながら死ぬか、王を名乗り余生を死よりも辛い理想へと捧げる殉教者となるを謳うのか。


 それを、定めて告げるための日。


「殿下、約束の刻限です。お聞かせください、殿下は何者であるのかを」


 その、予測された問いに。ダフネは応えるべく口を開けるのにまったく分単位の勇気を必要とした


「そ、ソニア。ボク、……じゃない、わた、私、私、は」


 ――答えは定まっている。


 自分は、王の器に非ず。王族としての権利を貪る一方で、傀儡であることを逆用し義務は放棄し続けた卑劣者。この命は、ルセリナにとり百害あって一利もない罪業の徒。


 ゆえに、我を殺せとソニアに告げる。むしろ今日までよく見逃してくれたと、感謝さえせねばならぬ。


「ルセリナ直系の王族として、」


 さあ、言うのですダフネ。自分を殺せと。


 しかるのち、後を追う事は禁じると。そして野に下り別の有為な王族に改めてその槍を捧げ、以てルセリナ再興の礎の一柱となるべし、と。


 それが、お飾りなれども操り人形なれども、この列島の王として君臨した者の、最後の矜持。最後の勤め。


 いつも、母のよう、姉のように穏やかな微笑と共にこちらを見ている人はおらず。まるで鋼鉄の殺戮人形が立ちはだかるようなソニアの威圧感に、屈しそうになりながらも。


「……未だ未熟者、」


 そう、未だ未熟……


 て、いやいや自分、『未だ』とかそうでなくて。ここで死ぬんだからそれはいらない。


「王としての責務というものが何なのか分かりません。だから、……こ、」


 そう、それでいいのです。


 少し弱気が胸奥を吹きぬけましたが、ここで殺せと言えばそれで軌道修正完了――


「こ、こ、……ここ、で。王になると宣言することはできません。もう少し考える時間が欲しいのです。ソニア、そのための時間稼ぎのために、ボクに命を捧げて欲しいのです。僕を南東の貴族の地まで、逃亡させてください」


 て、違うよじぶーーーーーん!


 最後のキョージやら王族のツトメやらいうご大層な名文、ご立派な決意からはほど遠い、未練たらたらの見苦しい発言をなした自らの口に、逆説的だがダフネは死にたくなった。


 だ……ダメなのです、ソニア。恐いのです。死ぬのも、死ぬ以上に大変に生きるのも。


 内心で地に手をつき膝を折り、『あああああボクってやつはぁぁぁ』と地面に向かって血を吐く思いで嘆くダフネ。しかし内面世界ではどれほど自らのヘタレっぷりを嘆こうと、現実世界の自分の肉体には毅然と立たせて顔には年相応のあどけない懇願顔を浮かべさせているところ、さすがソニアをして『幼狸』と言わしめる自分。ダフネ=インドゥライン様の真骨頂ってなものなのであった。


 ……ああ、生きていたくない。死にたくもないけど。

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