虫の知らせ、というものだったのだろうか。


 ダフネが初めて城の中で隠れんぼの真似事――ソニアとしては、時の王が広大な城の中に隠れ、数人の花婿候補の内、最初に見つけ出した者に晴れて王の婿となれたという古事を起源とする隠れんぼという表現を、女同士の自分たちに使うのは抵抗があるが――をしだし、最初は激しく叱ってそのクセを改めさせようとしたが、ふとあることを思い立ってそれを思いとどまり、代わりにソニアは妥協案として『ではせめて、城内でも警備が薄い場所へお隠れになることだけはしないと約束してください』とし、ダフネもそれを了承してからは城内で比較的危険な可能性が高い場所には近づかないようにしてくれていた。それは同時に、ダフネとの隠れんぼの始まりでもあったのだが、二人の戯れの時間と考えるとそんな無為な行為も楽しく感じられたのだから不思議である。


 なのに今日に限って、その『警備の薄い場所には近づかない』という約束を破った。


 あるいはダフネは、敏感に嗅ぎつけたのかもしれない。――ソニア、生まれ出でてより今日この日まで、ダフネの母であり姉であり友であり続けた、自分の内面の変化を。


 ソニアは今日、ひとつの決意をしていた。


 本当は、その決意が鈍らぬように今日は一日、心を鉄にし顔にも決して感情を露にするような真似はしないつもりでいた。それが先ほど、いつものようにお菓子の争奪を掛けてじゃれるように追いかけっこをすることになったのは不本意も極まりない。それだけ自分がダフネに甘いということなのだが、もしダフネがそれらを悟り、無理やりにでもソニアの心を揉み解し決意を鈍らせようとしてきたのであれば、大した直感だと言う他はない。


 決意とは決断の催促。ダフネに、以後いかように生きるのかを問う覚悟である。


 ダフネとソニアは今、もうこの数年毎日の様に恒例となった、ダフネの個室でのお茶会を開いていた。マリナス教国が認める、ダフネに許された数少ない自由な時間のひとつである。決意を、そのダフネのささやかな楽園の時間で告げた。


「殿下。ご聖断の時です」


「わぅ? どしたのですかソニア、恐い顔して……お、お菓子はちゃんと全部残っているですよ!? 今回に限り、ボクは一口も手をつけていないのです」


「殿下。真面目なお話です」


 ソニアは、いつもと調子を変えないダフネに常ならぬ厳しい態度で相対した。努力せずにできた訳ではない、いつものように和みそうになる心を極限まで引き締めてのことである。


「お決めください、殿下。ご自分が何者であるのかを」


「……わぅ?」


 あどけない顔で、自分を見つめてくるダフネ。その邪気のなさ、これまで共に過ごしてきた時間を振り返りそうになって、決心が鈍りそうになるソニア。その心を惰弱と内心で自らを罵る。


 喉を潤していた紅茶の入ったティーカップを机に置き、ソニアは椅子に座る姿勢を正し、ダフネの目をしっかりと見据えた。


「貴女は六歳の幼女ですか。それとも、ルセリナの正当なる王位継承者であらせられますか。どちらの立場を選ばれますか」


 ダフネは、その質問に答えるのに表情と全身を一瞬硬直させ、ソニアの言葉が切れてから楽に十数秒の間、沈黙目した。それだけで、ソニアの質問の重みが理解できたことを物語る。


 ゆえにソニアは、いよいよ気を引き締めた。ならば、韜晦をお見逃しする訳にはいかない、と。


「……ボクはボクなのです。そんな難しいことを言われても理解できないのですよ。えへへ~♪」


 思った矢先からの韜晦、そしてこっちの心を溶かしてくるかのような甘く愛らしい笑顔。


「つまり。そのような判断は付かない六歳児だと仰るのですね」


「そ、そういうことに、なるのでしょうか?」


 そんな相手の思惑通りに溶けそうになる心を、鋼の意思で引き締めてソニアは口を開く。


「ならばお死にくださいませ、殿下」


 いつものほがらかな笑顔を、一瞬にして凍てつかせるダフネ。冗談でもそのような言葉、ソニアは今まで一度たりとて吐いた事はない。ソニアだけではない、王族にそのような暴言を吐くような女では、そもそも霊闘士どころか臣下も勤まらない。


 しかし今は非常時。必要なことだった。それが今日になったのは、その必要から今まで目を瞑ってきたというだけ。


 そんな、ソニアの初めての容赦ない言葉は氷の刃となってダフネの心を冷たく切り裂いたことが一瞬で見て取れる。


 その、自分を見つめてくる恐怖に凍てついた顔によって。


「無論、殿下を一人で死なせはしません。不肖ながらこのソニア=セルバンテスもお供します」


 もしダフネが自分を、王族や血筋など関係ないただ普通の幼女だと言うのなら、この御子に命を捧げる者として――否、それ以前、ダフネ=インドゥラインの『お姉ちゃん』として、一人寂しく死なせはしない。


「じょ、……冗談でもそんなこと言っちゃ、イヤなのです。ソニア、王様に死ねとか、犯罪なのですよ?」


「無論です。冗談でこのようなこと、臣下の分際で何の覚悟もなく申し上げられよう筈もありません」


 自分の言葉に顔を凍てつかせ涙を浮かべるダフネを見て、『冗談です、性質の悪いことを申し上げました』と抱きしめ慰めたくなった。その思いをすら、霊闘士としての公心でねじ伏せる。自分は何度、意思を鋼の刃と成して自らの心を刻まねばならぬのかと内心で嘆きながら。こんな不幸な殿下に、自分は追い討ちをかけるのか、と。だがそれを理屈でねじ伏せる。


 上を見てもキリがない、という。


 それと記されているのは文明がダヴィオニア世界統合によって加速され、紙が発明され様々な事柄が書に記されるようになってすぐの年代のものであり、であるからには誰かが言い出したのはさらに前であろうと思われる。


 人の価値観に規定はなく千差万別。自分にとって幸福でなかろうとそれは他者からさぞ幸福である、などとは当たり前。


 ゆえに、その上にキリはなく。欲ある限り、果てに届いたと思えることはない。


 であれば。そこにまた反する真実が存在する。


 下もまた最果てはない、ということである。


 ダフネ=インドゥラインは、なるほど不幸な人間の部類と言えなくもない。自由意志なく、生まれた時から籠の鳥。その身はマリナスによって、終身のお飾り役が押し付けられている。


 だが、ではダフネ=インドゥラインは『この世で一番』不幸であろうか?


 答えは単純にして明快、『否』である。


 ダフネと同世代の男女に区切ってすら、その日の食糧にも困り餓えて死ぬ娘がある。寒村の家が、家族が生きるための金のため、貴族に売られる少年がある。事故で死んだ者、また死なずとも体の自由が利かなくなった者――


 臣下の身を越えて言うのなら。食事にも困らず雨風にもさらされる心配のないダフネなど、幸福な人間の内に含まれるとすら言えるのだ。将来、政治的な理由で暗殺される可能性を謳っても、今この瞬間に病で死んでいく同世代から言わせれば幸福であろう。


 きたのだ、ケジメをつけるべき刻が。


 自分がダフネの姉ではなく。ダフネが自分の被保護者でなく。真に一人の王と、その臣下として振舞うべきかどうかの刻。


 この日この時までルセリナ王家に信頼を寄せ、その血税で自分たちを養い慕ってくれた、ルセリナの万民に償い、応えるべき刻が。


 ダフネが立たぬというなら、それも仕方ない。齢六歳児に国を背負って立てという方に無理がある。


 だがそれでもダフネはこの国の王族であり、その口は民草の財によって拭われてきた。責任を回避できる立場にはない。


 だから、ダフネには告げるしかないのだ。それが六歳児には決め難い残酷な難問であることは百も承知で、あえて心を鉄にし鋼にし刃と成して。


「殿下のお命は、民草の血税によって支えられてきました。マリナスに囲われ、政治的な判断とは無縁に。逆に言えば、民草に血税分の責任を何ら果たすことなくです。ゆえに殿下、ご聖断を。普通の少女であるならば、貴女は王を詐称し不当な権利によって何の苦労もなく今日まで生きてきたことになります。死によって贖うより他ありません。もしダフネ=インドゥラインは王であると申されるなら、以後、死ぬよりもなお苦難な道へと歩き出し、絶命するその日まで民草にそれまでの恩義に報いるべく王としての責務を果たさねばなりません」


 ダフネはソニアの口調と表情から、告げる言葉が嘘でも冗談でもないということを悟ったらしく、凍てついた顔を半泣きに崩して首を横に振りだす。


「い……嫌です、ソニア、ボクはそんなのどっちも嫌です、死にたくないです、でも本当の王様として生きるのも無理です、ボクなんかが――」


 ソニアはその泣き言には一切返事をせず、ゆっくりと椅子から立ち上がり、部屋の出入口へと歩き出す。感情のこもらぬ魔法人形のような動きで、一辺の無駄なく、非人間的に。


 ――そうしなければ、自分の弱い心が霊闘士としての尊厳を挫いてしまいかねなかったから。


「ソニ……ア」


「今、この場に介錯と自刃するための得物は持ち合わせておりません。また、突然このような話をされてはご混乱も極みであらせられましょう。今この瞬間より一週間お待ちいたします。来週の今日、槍稽古の際。答えをお聞かせください、殿下が王であらせられるのか否かを」


 その言葉を残して、ソニアはダフネの部屋を退出し、扉を閉めた。


 ――そして冷静なフリをしていられるのは、そこまでが限界だった。


 いや、果たして冷静でなどいられたのか。自分がそう思っているだけで、本当はダフネに激しく動揺している様、泣きたくなるような葛藤の中にあることを、悟られていたかもしれない。


 ソニアは『ついに言ってしまった』という衝撃により気持ちが混乱を来たしたため、ダフネの部屋を出ると目的地も定めぬまま当てもなく城の中を徘徊した。


 ――本当はもっと時間が欲しかった。


 突然、あんな冷酷なことを告げるような真似などしたくなかった。そんなことを心底から言えるような気持ちしか抱けぬ相手に、この日まで姉や母のような情愛をもって接してこられた筈もない。


 しかしダフネは今年でもう六歳、個人として見れば幼児に過ぎぬが、政治的にはもう大人と判断される。宮廷で飼われる籠の鳥でいられる時間はもうあまり残っていない。ダフネ個人としては元より、ルセリナ王国そのものにとっても意に沿わぬ、マリナスにとって都合のいい男を婿に迎えさせられることも十分にありうる。そうなれば永くダヴィオニア様式を継承してきたルセリナの文化が根底から破壊される日の到来が加速され、この島が神官たちの良いように作り変えられる日が到来することとイコールで結ばれる。


 そうなっては、全てが終わる。


 ならばその前に、現王たるダフネに逝去してもらい、地方の王族のどなたかに立ち上がってもらう方がルセリナの命脈は長らえる。マリナスがダフネの死を隠蔽する可能性は考えたが、これは昔日、ダフネを大陸に連れて行く陰謀と同様、姿が一向に見かけなくなれば暗殺の噂がたつことは押さえられず、結局は各地の貴族たちへの反抗心を募らせることになる。そうなってからダフネがトチ狂った霊闘士の手により殺害されたと発表したところで遅い、誰もそのような発表を信じはしないだろう。


 それを思えばむしろ、もっと早く言わねばならなかった。今日でも遅すぎたくらいである。本当ならダフネの誕生日の何日か前にでも告げて、六歳になったと同時に聖断してもらわねばならなかった話だ。


 ダフネの誕生日は六月、今は九月。本来なら言わねばならなかった言葉が三ヶ月前後も遅くなったその理由。


 それは未だ一〇代にも満たぬ幼いダフネに、そんな過酷な選択を突きつけようとしたその度、躊躇ってしまったから。もっと本心を晒せば、ソニア自身、このマリナス教国が作り上げた偽りの園でいつまでもダフネと戯れていたかったからに他ならない。


 霊闘士としてはこの上ない怠慢、末代までの恥である。ソニア個人としての情念によって、霊闘士という公人の立場と責務に曇りを生じさせてしまっていたのだから。


 だが、それももうあと一週間で終わる。いや、終わらせなければならない。


 ダフネが苦難を拒否して死を選ぶか、死の安寧を払いのけて王として生きるか。前者なら共に死し、後者なら自らの四肢と魂の限界のその先まで、王のために捧げる。ソニアとしての望みは無論後者である。だが今日の反応を見る限り、前者になる可能性が高いことは明らかであろうと思われた。だからダフネは、魂が引きちぎれそうな想像を働かせなくてはならない。


 ダフネを手にかけるという、それは光景。死にたくない、生きていたい、このまま恥も外聞もなく、マリナスの籠の鳥と蔑まれてでも。泣いてそうすがるダフネを、ルセリナ事実上最後の王としてせめて最後は潔く、とたしなめて、手に持つ槍でその首を――


 そこまで考えて、ダフネは固く目を閉じた。それが物理的な声ならば、閉ざすべきは耳であったろう。が、心の声から逃げるには、目を瞑るより他になかった。だが一度聞こえた心の声から逃れることは何者にも叶わない。それは霊廟開闢以来の天才と謳われるソニアとて例外ではなかった。


 できるのか?


 本来であればありえざる自問、その身を霊闘士と謳うなら、できるか否かではなく何があっても成すべき義務。


 しかしそれは『せねばならぬ』と決意した日から今この時まで、何度も脳裏で描いてみては最後まで果たすことのできなかったイメージ。


 自分に、本当にそんなことができるのか? ダフネをこの手に掛けるなどということが。


 ダフネがこの世界から消滅した後、自らの喉を掻き切り後を追う光景をイメージすることは簡単だった。だがそれに先立つ光景が、ダフネを自らの手でこの世から消滅させるというイメージが、ソニアには未だ出来ていない。


 槍を握る手に力を籠める、振りかぶってそれを対象に振り下ろそうとする。だがそこにある標的のイメージを、この世で多分唯一信じてくれていたであろう自分から殺意を向けられ、泣いて首を振るダフネにした時、ソニアの脳はそれ以上先の光景をどうしても思い描けない。その穂先をダフネの柔らかな首筋に打ち込むなどという光景に、どうしても展開させられない。無理に描こうとすれば、胃が蠕動し嘔吐すら催した。


 そんな様で。ソニア=セルバンテスという女が、ダフネ=インドゥラインという少女を殺すなどということができるのか。


 愛する我が娘を自ら手にかけるような真似が――


 そんなことが、本当に?

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