そうした世界規模の事変の後。名目上の王、ダフネ=インドゥラインは王宮という鳥かごに長らく飼われる愛玩動物となった。


 物心がつかぬ内、どころの騒ぎではない。生まれてから数日と経たぬうちからそうした状況になったのだ。ダフネが、それを当たり前のことなのだと錯覚してその地位に甘んじ安住していても、誰も彼女を責めることはできないだろう。


 また、それを責めてダフネの喚起を促し、もってルセリナの再独立を図るような輩は、ただ一人の例外を除いてことごとく神官たちの鉄塊によって問答無用で打ち砕かれた。


 『問答無用で打ち砕かれた』との表現は、誇張ではなくまさしく読んで字のごとくである。少しでもそれと匂わせる発言をダフネの耳に吹聴した者は、反論の権利も与えられず錫杖の形をした殺戮用鉄塊によって誅殺された。その中には、あまりに無邪気で捕らわれている自覚のないダフネに、「少しはルセリナの末裔として、王族としての誇りと忸怩たる念をお持ちください」程度の苦言を呈したにすぎなかった侍従も含まれる。


 かくてダフネは名実ともにお飾りとなり、もはや誰もダフネをルセリナの王族として育てることも、その意識を喚起させることもできなくなったように思われた。それとは別に、マリナス教国の人間自身が、または教国の息のかかったマリナスシンパの者がダフネに、『マリナスに従っていればダフネは楽ができ、怠惰で気楽に生きていける』のだというような、教国にとって都合のいい理屈を、様々なニュアンスと言葉を変えてその耳に吹き込み、精神操作を行った。そのようにして彼女が六歳の誕生日を迎えてからしばらくした冥暦七一二年九月八日の時点で、もはや誰も彼女の身にルセリナの再建を期待する人間はいなくなったとすら思われたのである。


 だが、そんな衆目の見当は外れていた。


 一人。


 単に人数でだけ表するのならただの一人だけだったが、それでもそんな籠の鳥を真実、王として期待する者はいた。現職の霊闘士がその一人である。


 霊闘士とは何か。それは霊廟と呼ばれる魔術師の聖域を守護する者の役職名である。


 神官の築いたマリナス教国が、神の声を聞く場所に『神殿』という施設を持つのに対して、魔術師たちが営んできたルセリナには『霊廟』という建造物が存在する。魔術の源となる助力者ら、森羅万象の精霊たちを祭る場所である。これはルセリナ独自の文化ではなく、帝国時代、帝室とその帝室を支えた魔導貴族に建設を許された精霊たちとの契約を行う地とされる神聖なものである。この時代、ほとんどの家の公式な霊廟は破壊されるか、でなければ無人と化し風化してしまっていたが、ルセリナは島国であるため海が外敵の襲来を少なくしたことが幸いし、脈々と受け継いでこられたのだった。


 霊廟には、ダヴィオニアの時代からこの時まで代々伝わる超魔法を司る王族とその知識そのものを、外敵より守護し奉る闘士が仕えている。それを霊闘士という。


 契約した精霊よりの加護と、自ら鍛え上げた肉体を以て王族に仕えるそんな彼女らは、得物として主に槍を担う。


 オーソドックスな剣ではなく、長物の槍であるのは、その身が肉体を以って戦う戦士であると同時に魔法で戦場に臨む魔術師でもあるがゆえ。魔術師が杖を用いて呪文を織り成すその延長上に、霊闘士は槍術をその身に刻み込む。杖槍一体の技を以って、霊闘士は魔術師にして戦士となって戦働きを行うのである。


 ゆえに、霊闘士は“王の槍”とも謳われる存在だった。


 現役の霊闘士は名をソニア=セルバンテスといい、女性的な艶かしさと武力を発する者としての猛々しさが入神的な調和を見せる大きな体躯と、静かに流れる山の上流水に燃え盛る炎の色を溶かし込んだかのような艶やかかつ滑らかな紅蓮色の長髪が、人の目を惹きつけずにはおれぬ佳人であった。


 その、王たる者の杖にして槍であるところの現役霊闘士が忠誠対象の姿を求めて、件の美麗な赤髪を躍動させる勢いでルセリナ王城の中を東奔西走していた。


 もうかれこれ半時間前後、いい加減探し慣れた筈であるのに今日はやたらと手こずらされる。いったいどこへ、と思った時、ソニアはふと昔のことを思い出す。


 それは今この時のように、探している相手が誰にも何も告げず城内に姿を隠すことを初めて行った際の隠れ場所。ソニアはそこに迷子になっていた相手を見つけるのに、相当手こずったことを思い出した。


 それは地下にあり、人が無用心に近寄るには城内では比較的警備が手薄で、危険が絶無という訳ではない場所であった。いい大人で、城に奉仕すべく勤めている者ならばともかく、今ソニアが探している人物が立ち寄っていい場所では決してない。


 だが、


「殿下、やはりこちらにおられましたか」


 ダメ元でそこに行ってみると、求めていた姿はやはりいた。


「あ、ソニア」


 民草から徴収した麦、それを粉にしてまとめ積んだ麻袋の山のひとつに寝転がっていた影が、あどけない笑みを浮かべてソニアの呼びかけに応える。王城は地下、食糧保存倉庫の一角でのそれは光景だった。


 麦袋の山から飛び降りてソニアに駆け寄るは幼き姿。齢は今年でようやく六、幼子からようやく少女へと移行したばかりといった年頃の女の子である。一見では、とてもルセリナ諸島の覇権を巡って、マリナス教国とルセリナ魔導貴族の狭間にあって渦中の身の上にある悲壮な姫君、という印象は皆無だった。


「ちょうどおなかが減ってきていたところなのです。ソニア、おやつの時間にするですよ」


「それよりもまず、お説教です。お話があったのですが、それよりもまず今回のこのことを。このような私の目の届かない場所に黙って行かれては困りますと、以前申し上げた筈ですが?」


「えへへ~♪」


「笑って誤魔化そうとしてもダメです。お昼寝なら自室でなさってください」


「ボクの部屋は麦の匂いがしないのです」


「では今度からお部屋に麦をもってこさせます」


「ここみたく暗くひんやりもしていないのです」


「では窓を覆うカーテンと氷柱も用意させましょう」


「なにより、部屋だと迎えにくるのがソニアだけではないのですよ。ボクを起こしていいのも迎えにきていいのもソニアだけなのです」


 そこでやや、ソニアは数瞬言葉を詰まらせ沈黙を先立たせる。ダフネからの絶対の信任が心地よかったからだが、それを表立って見せるような真似はしない。少なくとも、ソニアはしていないつもりで言葉を続けた。


「それは、城内で物陰に隠れた殿下を見つけられるのは私だけでしょうからね」


 でもその度に駆り出される私の心労を、と続ける前に、


「です。ソニアがボクを見つける嗅覚は天才的に鼻の利く腹ペコオーガさん並みです。恐い恐いなのですよ」


 ソニアは主の口から放たれた言葉の毒矢に自尊心の一部分をけっこう深く打ち抜かれた。


 オーガ、て。


 いつも人を喰らうことのみに思いを馳せ、年がら年中涎を垂らしているあの品性のカケラも存在しないバカ面の魔物と一緒にされては、さすが忠義者のソニアも年頃の女、不貞腐れたくなってくるというものだ。


「……隠れられた殿下を探し出すのに、少し勘が働くだけです。その仰りよう、若干……いや、相当人聞きが悪いと、ご配慮いただくことはできませんか?」


「実際、槍の授業の時はオーガやデビルも真っ青だから表現に誇張なし、まったく問題なしなのですよ」


「……………。では次の授業では、殿下から賜ったその名に相応しい水準で、殿下を鍛えさせていただきますはい」


「わぅ!?」


 その言葉に含まれる意味の過酷さ、実現した際に地上へと具現される地獄を想像できるのは天上天下で唯一無二、ソニアから直接学問と武術を叩き込まれているダフネだけであったろう。いやまあ今ですらちょっぴり地獄の過酷さだが。


 それは早い話『次の授業時は容赦しねえ』な訳で、実行されたらダフネ的にはやめてください死んでしまいますなのであった。


「お、大人気ないのですよ、ソニア!? 王様苛めは犯罪ですご注意ください、なのです!」


「さて。幾度の心無き仕打ちをこえて心より仕えさせていただいている殿下から、オーガよデビルよと呼ばれては……私も傷心を押し隠すため意固地にならざるを得ません」


「……ソニアこそ人聞きが悪いのですよ。ボクがいつその『幾度の心無い仕打ち』とかいうものをしたですか?」


 その言葉に、ソニアはむしろ待ってましたと言わんばかりの勢いで懐から小さな羊皮紙の束を取り出して、わざとらしく一枚一枚丁寧に、丁寧にめくった。


「朝食のおかずを召し上げられたこと八二回、昼食のおかずを召し上げられたこと二七七回、夕食のおかずを召し上げられたこと二一四回……」


 そして、と、一呼吸置いてからソニアは、血涙も流れよと言わんばかりの裂帛な気合、悲壮な表情と共に、


「おやつをまるまる召し上げられたこと、一八九回っっっ!」


 と叫んだ。


「しかもっ! それらは全てことごとく、私に何らの咎もなく、ただただ殿下の味覚と空腹を満たしたいと言うご欲求に応えんがため! その求めにことごとく応じた私に対して鬼と!? 悪魔と!? おおおおお、なんという言葉の暴力、なんという心無き仕打ち! 稽古のお相手時、手にいつもより『ちょっとばかり』加減を解除したとて尊き精霊方もお許しくださいますええきっと」


 ちなみにこの場合のちょっとばかりとは、ソニアにとっては『羽ペンを折る程度から鉄の文鎮をひしゃげる程度に』くらいの加減解除ということになるのだが、大丈夫この殺しても死ななそうな幼狸、死にゃーしねえだろってなノリでツーンと顔を横に向けた。


「人殺しは犯罪ですご注意ください。それよりざーとらしい嘆きのフリはそのへんにして、そろそろおやつにしましょう」


 口調こそ素っ気無かったが、ダフネの顔には『やばいのですこのまま会話進めたらボクに不利なのですよ』と、冷や汗をインクとして克明に記されていることをソニアは見て取った。だが、そんな程度でこれまでの恨みつらみを逸らせると思ったら甘い。


「私の食事への未練とそれを超えての殿下への忠誠を、ざーとらしい!? フリ!? 心外、き・わ・ま・り、なしっっっ! よろしい殿下、今日こそは食事を召し上げられてしまった者の空腹と嘆きというものをその身心に刻んでいただきますっ!」


 その饒舌な言葉よりも雄弁に、ソニアは心の血涙をインクに己が顔へ『食べ物の、ましてお菓子の恨みどうして忘れずにおらりょうか。つーかむしろ七代経っても忘れねぇ』と克明に記した。


「そんなダリーことはしてられねーのです。先に部屋に戻ってるので、早くしないとそれこそソニアの分もペロリなのですよ」


 しかしこの時は、ダフネがソニアを一枚上回った。


 戦況不利、戦術的撤退。ダフネはきっとそう判断したのであろう、その場から脱兎のごとく駆け出した。標的が目指すは王族の個室の方角、美味しい紅茶と菓子が用意さるる楽園。そこにはソニアも垂涎の物資あり。


 補給物資を狙うは戦術の王道。他の誰でもない、ソニアが直々ダフネに教えたのである。戦に情け容赦は無用、まったくもって戦いとは嘆きのみを生産する愚行ってなものなのである。ああ戦争の悲嘆ここに極まれり。


「あ、ああ!?」


 ダフネの狙いに気づいたソニアは、それまでのおかしの怒りもそぞろに、水編みを嫌がるネコさながらの逃げ足で駆けるダフネを必至で追跡し始めた。食べることのかなわなかったかつてダフネのお腹に消えたお菓子の恨みより、食べられるかも知れない現存しているお菓子がダフネのお腹の中へと今まさに永遠に失われるかどうかの瀬戸際であることの方が重要だった。


「きょーは確か東のソルボンからの献上品、最高級品の中の最高級品なのです! きっとボクはその甘いゆーわくに勝てず二人分をケロリなのですよ、あぁソニアかわいそかわいそなのです!」


「お、お待ちなさい殿下! も、もしまた私の分を取ったら絶対容赦しません! 腕がもげるまで腕立て伏せ、足がもげるまでスクワットです! 絶対ですからね!? 絶対なんですからっ! だからダメ、食べちゃダメ! た、……食べちゃイヤです殿下ぁぁぁっ!」


 ダフネにルセリナ王族としての意識を喚起させようとした者は、そのことごとくがただの一人を例外として誅殺されたことは前記した。


 その例外たるただの一人が、霊廟出身の霊闘士見習いで名はソニア=セルバンテス。その文武の才によって、様々な伝説を構築することとなる優雌である。


 ――しかし、今この瞬間はまだ、そこには王も霊闘士もなく、ダフネという幼女とソニアという女性がお菓子を巡ってじゃれているに過ぎなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る