末つ方の婚礼
僕はマルソイン家の監督下のみで、ザデュイラル国内での自由を保証されている。アジガロの結婚式は屋敷の外で行われるので、一人では参加できない。
レディ・フリソッカは僕とあまり顔を合わせないし、彼女もカズスムクも忙しい。そこへちょうど、夏至祭礼目当てのハーシュサクが帰国してきたのだ。
僕はヘラジカの首が壁を飾る貴賓室に、彼を訪ねた。角持つ獣はザデュイラルで神聖視されており、剥製や頭蓋骨は装飾として珍重される。神聖とされるものを殺して飾るのは疑問だが、彼らの文化では敬意ある扱いなのだろう。
「結婚式ね、
ハーシュサクは即座に承諾。当のアジガロからも、既に歓迎するとの返事を得ているので問題なしだ。僕はほっと胸をなで下ろす。
室内には、年中船旅をする叔父に合わせたのか、ボトルシップや鯨を描いた海の絵などが飾られていた。
「ありがとうございます。故郷でも、あまり結婚式なんて出てないんですけれどね」
「まあ、お前さんにはまだ先の話ってことか。それよりシグ、いやイオでいいか? その後どんな調子だい」
二つの椅子をつなげたような形のソファにだらしなく身を沈め、ハーシュサクはぶどう酒を開ける。そのまま手酌でやり始めて、僕も勧められるまま一杯もらった。
甘酸っぱい風味に、きりっとした酸味が硬質に立つ赤だ。
「いい酒ですね。近況ですが、まあ色々ありまして」
ザデュイラルでは、何かにつけてナッツ類がよく食べられる。ハーシュサクはぶどう酒と一緒に、つまみのナッツ盛り合わせも勧めてくれた。
茶話会のこと、図書のこと、食事を始め各種習慣の違い。僕があれやこれやと彼が発った後のことを話していると、典礼語手話のあたりで大笑いされた。
「お前さん、よく生きてたな。いや、まだ終わってないんだったか」
「そうです。結婚式の日はお休みをもらいましたが、後が怖い」
「せいぜい頑張ってくれ、お前さんを連れてくるのにずいぶん面倒かけられたんだ、こっちは」
僕に山ほど剥かせたピスタチオを勝手に頬ばって、ハーシュサクは「若者同士、仲良くやってるようで何より」と笑った。横暴だ。
「最初はな、別の所にお前さんを紹介するつもりだったんだよ。大学の偉い先生とか、商売仲間とかさ。でも、たまたまこの話を知ったカズスムクが、ぜひうちで預からせてくれ、って言い出してな」
「それは、何でまた」
つい、僕はピスタチオを剥く手を止めた。
「よその国の話に興味があると言ってたな、それも
「確かに、雑談ではよくガラテヤのことを聞かれます。聖誕節とか、復活祭とか」
カズスムクに聞かれたことに答えていると、互いの文化の違いがたびたび浮き彫りになって面白い。たまに見解が食い違うこともあるが、ガラテヤとザデュイラルは本当に別世界のようだった。
「ま、若いやつはみんな一度はそういう興味を持つ。人が人を食わなくてもいい世界ってのは、どんなもんだろうってな。……もし自分がそういう国に生まれていれば、なんて想像したくなるものさ」
「あなたも?」
「だから海に出ている」
ハーシュサクはとうとう、瓶に直接口をつけてぶどう酒をあおった。どぷりと、ガラスの中で赤紫の海がうねる。
「でもな、どこに出たって同じさ。海も陸も所詮つながってるんだ。母にして父なる
僕が剥いた端から食べているのは、誰だと思っているのだ。ザデュイラルの文化なのか、ただの嫌がらせなのか、酔っぱらいに絡まれているだけなのか分からない。
(※編註……ザデュイラルにそんな習慣はない)
「だいぶ酔いが回ってますね。僕は一つも食べてないんですけど」
「さっきから殻を剥いてたのにか。ははは、妙だな」
しょうこりもなく、ハーシュサクは二本目のぶどう酒を開けた。今度は口をつけず、またグラスに注ぐ。
「ほら、お前さんももう一杯飲め」
「いただきます。……飲みすぎないで下さいね」
◆
一夜明けて。
光も、雲も、何一つよどみのない青空は、地上から真っ逆さまに吸い込まれて、どこまでも落ち続けそうなほど澄み切っていた。婚礼の祝福にふさわしい日和。
ガラテヤより低く感じる太陽も、薄く感じる陽光も、この時ばかりは輝きに満ちて、小さな楽団が奏でる弦楽器の調べに弾んだ。中年男の歌手が声を張り上げる。
「さあさあ早く! 人生は短い♪
共に歩む日は短い! 日々を追いかけろ♪
人生を追いかけろ! 太陽を追って駆け抜けろ♪」
歓声を上げて、参列者たちは互いに手をつなぎ、アーチを作った。
その下を黒い髪の新郎アジガロと、金髪の新婦ジアーカ〔
新郎新婦は共に身頃のゆったりとした(これはザドゥヤ衣装の基本だが)、緑の衣装を身につけていた。その下に、アジガロは白いズボン。ジアーカのドレスはたっぷりのビーズと、幾重にも重ねたフリルのレースで華やかだ。
若草、
「太陽が沈むぞ! 火を燃やせ♪
輝きが消えるぞ! 目に焼きつけろ♪
冬がやってくるぞ! たくわえはあるか♪」
衣装で特筆すべきは
アジガロは鹿のような雄々しい枝角、新婦のジアーカは羊のようにねじれた角の冠をそれぞれ戴いていた。あれをつけている内は、彼の赤く塗られた角も見えない。
皆は手に持ったスズランやリラの花、あるいは紙吹雪を投げつけ、振りまいた。鈴をころころとまき散らすように、誰もが笑い転げている。
けれど、これは
「おおユワの子らよ! 豊穣なるかな♪
おおインカのすえよ! 夏を見たか♪
とこしえなるユワの中! 火に飛び込みたまえ♪」
アーチをくぐった先は、青い芝生の広場に作られた野外祭壇だ。
正面に愛と結婚と豊穣の
ディケリタは両の側頭部から樹木の枝を生やした、長い髪の女神だった。
枝には小さく可憐な花が咲き、果物の詰まった籠を持ち、赤ん坊を片手に持って空へ掲げている。乳房もあらわなのは、まあそういうものだろう。
祭壇前で新郎新婦が足を止めると、アーチを崩した参列者は二人を取り囲んだ。聖院から派遣されてきた司祭が先ほどの歌を歌い始め、参列者全員で唱和する。
その中に、僕とハーシュサクもいた。
礼服はいらないと言われたので、普段着のシャツとズボンとサスペンダー姿。不安があったが、本当に他の参列者も、誰一人かしこまった衣装を着ていない。
僕がいつもと違うのは、借りた
これを付けた時の皆の反応は劇的だった。タミーラクは「似合うじゃん」と笑った後「お前、そんな顔してたんだな!」と言い出すから怖い。
「今まで僕の顔が何に見えてたんですか?」
「ことわざに〝角がないのは顔がないのと同じ〟ってのがあってだな」
「つまり、のっぺらぼう!?」
カズスムクが言っていた「鼻がない顔」と、どっちがマシだろうか。ハーシュサクは、「オレには目鼻口がでたらめに並んだ抽象画に見えたな」とのことだ。
そういえば角をつけてから、マルソイン家の使用人も愛想が良くなった気がする。
(※編註……後の研究で、
「こういう野外の結婚式って普通なんですか? あと、妙に恐ろしげな歌ですが、これも普通? それとも、僕に聴こえないだけですかね」
「場合によりけりだな。広場じゃ野外挙式する贄は多いんだが。ああ、歌は定番だ。お前さんになんて聴こえてるかは知らんが、歌詞は分かるだろ?」
ザデュイラルの音楽には、しばしば「角で聴く音」が織り込まれており、僕には一部のメロディを聞き取ることができなかった。幸い、角で聴く音は彼らにも発声できない音域なので、言語上の影響はない。
この式はごく簡易なもので、新郎新婦が
司祭が片手を挙げ、歌が止まった。ここからが介添え人たちの出番だ。花婿に一人、花嫁に一人、介添えに指名された友人は細長い箱を捧げ持っている。
箱の中身は、複雑かつ
「なんじユワの子ら。新郎、アジガロよ」
「はい」
呼ばれてこうべを垂れた彼に、新郎側の介添えがイチシを手に近寄る。それを飾り角に結びながら、友人はアジガロに祝いの言葉を投げ、肩を叩いて離れた。
次に司祭は新婦ジアーカとその介添えを呼び、女友達同士で同じ行程がくり返される。介添えの女性は、花嫁を抱きしめて祭壇から離れた。
飾り角から垂らされたイチシが、風に吹かれてきらきらと揺れる。それは力強いのに、同時にがらんどうのような寂しさがあった。晩春の名残りも濃い空気に若葉の香りが混ざって、生命の気配そのものみたいなのに、場の中心に死の匂いがある。
司祭の声が、容赦なく時計の針を進めた。
「新郎アジガロの命は、新婦ジアーカの中へ」
アジガロは自分のイチシを、ジアーカの飾り角に結んだ。
「新婦ジアーカの命は、新郎アジガロの中へ」
ジアーカも自分のイチシを、アジガロの飾り角に結んだ。
「今この時をもってなんじら夫婦となり、互いに一つとなりし
アジガロは、ジアーカの腰から彼女の
花婿は優しく手首を握ると、よどみない仕草で薬指の先を刺した。僕はびっくりしたが、周りはしんと静まり返っていて、見守ることしかできない。
ぷっくりと血の玉が浮かぶまで、ほんの数秒。
アジガロは口づけるように、その血をそっと舐めた。
アウクを収めたら、今度はジアーカの番だ。同じようにアジガロのアウクを抜き、手を取り、薬指を刺して血を舐める。
その瞬間、参列者から熱い歓声が上がった。
「
「
「
そういえばハーシュサクから聞かされた猥談でも、「相手の血を舐める」行為が何度か登場したから、これはエロティックな場面だったのだろう。
二人は照れくさそうに観衆に笑いかけてから、互いにきつく抱擁を交わした。リボンで結ばれたままの飾り角がごつごつとぶつかっているが、気にもかけない。
祝福、歓声、笑いさんざめく声。その中心にいる二人は、今まさに幸福の絶頂にいる新婚夫婦と言うよりは、もう何十年も連れ添った老夫婦のような静けさだった。
またたく間に過去へと変わっていく一瞬一瞬を、遥か昔のことと思い返してでもいるような、悟りきった顔つき。共に歩む日は短い、日々を追いかけろ。
その時の僕が思い出していたのは、昨夜ハーシュサクと交わした会話のことだ。
◆
注がれていくぶどう酒を見ながら、僕はぼんやりとカズスムクのことを考えていた。〝ネル〟のこと、死んだカナリヤのこと、そしてタミーラク。
「
「だろうな。珍しくもない話だ、
ハーシュサクは、思い出したようにぶどう酒をあおって言葉を切った。
――もともと予定になかった者を捧げることとなったのです。
七年前、カズスムクの従兄弟なら年齢は近いはずだ。十歳になるかどうかの子供を、兄の命令で差し出したハーシュサクの胸中はいかばかりだっただろう。
ザドゥヤの人々にとって、誰かが贄に出されて死んだこと、自分が贄に選ばれていることは、あまりにありふれていて、隠すということがない。
「オレがこうして酒の海に出るように、カズスムクはあんたの話で少しだけ酔っぱらいたいんだ。何も解決しない、できない時間にだって価値がある。人生なんざ、飲んだくれる合間にやっときゃいいんだよ」
飲んで、笑って、ハーシュサクは朗らかに振る舞う。
けれどその声音の奥底に、生ぬるい疲れが横たわっているように思えた。いちいち何かを悲しんで、それに付き合うのも面倒だ、という投げやりな温度。
これまでの僕はこの国に来て、自分が見るもののことしか考えていなかった。けれど、彼らにとっては? 人を食べたことも、食べるために殺される人を見ることも、人を食べる必要もない身の上の僕は。どんな生き物に見えていたのだろう?
僕は所詮、異種族の異邦人なのだ。
ガラテヤの価値観で言えば、人食いも生け贄も許されることではない。アジガロも、タミーラクも、何も死ななくても良いだろうとは思う。だが、ザドゥヤに人を食うなと言うのは、滅ぼしてやるという宣戦布告にしかならない。
この人肉食について、僕は何もできない、するつもりもない。そんな権利も資格も、持ち合わせちゃいないのだ。
ただただ、記録して、編纂して、研究する。それだけが唯一の使命だ。
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