舌に乗せて、手で語って(後)


 典礼語手話の講義が始まって、一週間。


「違います!」


 カズスムクの教鞭が、ピシャリと僕の手首を打った。場所は僕の客室として与えられた部屋で、今は二人向かい合って立ち、個人教室として活用されている。


「それは〝A〟のサインで、〝Å〟の形はこうです。昨日もお見せしたでしょう」


 カズスムクはささっと指を折ったり曲げたり手を開いたり握り込んだりする、複雑怪奇なサインを手本として見せてくれた。しかし早すぎて覚えきれない。


「すいません……」

「謝って解決するなら、かまどの火はいらないのです、イオ」


 あの日から、僕が知る親切で、温厚で、紳士的なカズスムクは、血も涙もない残忍冷酷な鬼教官に変身した。タミーラクが僕を気の毒がるわけだ。

 容赦も寛容も慈悲も、地獄のかまどで焼き捨てられたらしい。どうやらこれまで、僕はよそからのお客さまとして、かなりの無作法を許されていたようで……。


「もう少し早く上達していただかないと、にかけますよ」


 カズスムクが言っているのは、パッセンロー・マツレワブ〔Pazzonroo幸せな田舎者 Mätsrevab〕に由来する拷問法のことである。

 彼は1200年ほど前、〝絶土帝ぜつどていイェルアーシェルフルッキ三世〔H'l Åsherflqq偉大なる Ⅲ〕の宮廷料理長ユアレントゥルに就いたザドゥヤ貴族であった。

 腕の良い料理人だったらしいのだが、ある時発狂し、「画期的な調理法」と称して生きたまま贄の皮を剥ぐなどの残虐な方法で三人を殺害。

 ザデュイラルで最も過酷な刑罰は、皇帝のザカーを損なった者に課せられる。激怒した聖アーシェルフルッキ三世は、パッセンローに「その三倍」を命じて責め殺したのち、酸の池で骨まで溶かして埋め立てて、未来永劫立ち入りを禁じた。ザデュイラル史上に残る、忌まわしき大罪人である。


 つまりその名前を出すほどに、カズスムクは激怒しているのだ。

 最低でも「てめぇいい加減にしねえと無茶苦茶ぶち殺すぞ脳足りんが」ぐらいのことは言っているが、これでもかなり穏当な表現だ。

……いや、ここでその正確さを追求するのはよそう。表面は品良く穏やかに、結構な罵倒をザドゥヤ貴族流にさんざん浴びせられているが、今はまだ耐えられる。


「さ、もう一度〝Slacktaスラクタ ånオン tekcýmティッキム〟を」


 カズスムクは手本を見せながら促したが、相変わらず早くて眼が追いつかない。なお、これはザドゥヤ語の「ありがとうスラクタ」を丁寧かつ古風にした言い回しだ。


 正直 Slackta. だけで良いのではとも思うが、祭宴パクサの場では厳密な礼儀作法が求められるから、そんな軽薄な物言いは許されないのである。

 しかも基本的な語彙は日常のザドゥヤ語ではなく、古シター語に基づくからまた難しい。僕は必死で教わったサインを次々と作った。

 何とか半分が過ぎたところで、ピシャリと教鞭が繰り出される。


「それは〝T〟ではなく〝L〟です。塩の湖に流されたいのですね?」


 ザデュイラル南西部のイムユウ〔Imuyu〕には巨大な塩水湖があり、そこではかつて手足を叩き折った猿を船に乗せて流す、謎の祭りが行われたと言う。

 その昔、タルザーニスカ半島は群雄割拠の果てに三つの大国が成立し、更に三国を統一して生まれたのが現在のザデュイラルだ。

 この猿流し祭りは統一前、南のアミパナフ〔Amipanach〕王国で行われていた。残念ながらその伝承については失われてしまい、祭りの詳細は不明だ。

 というわけで、現在においては「手足叩き折るぞクソ猿」という意味で「塩の湖に流す」という罵倒表現が使われているのだった。


Slackta……åntekcým

「すばらしい。今度は間違えませんでしたね」


 やっとお褒めの言葉をいただき、僕は大きく肩を落として脱力した。さんざん手首を打たれて痛いのはもちろん、指はくたくたで今にもつりそうだ。

 いくつもの形を覚えるのはもちろんのこと、それを繰り出す際も慌ただしかったり遅すぎたりしてはいけない。あくまで優雅にサインを結ぶのはもちろん、他人のサインもきちんと読み取って、的確に応答できなければいけない……そんな無茶な!

 ちょっと限界を感じてきた。


「あの……少し、休憩をいただいて、いいでしょうか……」

「休憩? いいですね。ユンブロボリの黒い茶葉を入れましょう、飲まれますか?」


 ここで言う黒い茶葉とは毒のことである。

 400年前、女傑と名高い大商人ユンブロボリ〔Ljunbroborg獅子王子の丘〕は、美男だが女にだらしない夫に、とうとう我慢の限界を迎えた。


『この黒い毒茶を飲むか、あたしと離婚して出ていくかお選び!』


 なんと夫は毒の茶を選び、それを飲み干してしまった。たちまち彼は血を吐いてもがき苦しんだが、ユンブロボリが控えさせていた医師の処置により生還。

 が、介護が必要な体になってしまったため、女遊びなど二度とできるはずもなく。残りの生涯を、ユンブロボリに養われて過ごしたそうだ。めでたし、めでたし?


 ここから〝ユンブロボリの黒い茶〟は、「お前のようなろくでなしは、毒を飲んで死んでしまえ」という罵倒に転用されるようになった。

 よってカズスムクの発言は「休憩? 死ねば永遠に休めるぞクズが。毒茶飲んで死ね!」という感じの意味になる。


 別に言葉を額面通り受け取っていれば、穏やかに話しているだけなのだが。図書館の本を読んでいるうちに、このへんのあれこれが分かるようになってしまった。

 言われた当時は気づかなくて、後になってからとんでもないことを言われていた、と分かったものもあったが……。


「黒茶は謹んでご遠慮させていただきます。引き続きご教授お願いいたします」

「よろしい」


 なまじ目鼻立ちが端正なぶん、カズスムクに冷酷な顔つきをされると、刃の前にさらされたような寒気を覚える。氷で出来た処刑器具のようなものだ。

 しかし、恐怖は学習効率を上げる役には立たない。


 正直、初心者に一ヶ月半で習得しろと言う方が無理難題と言える。カズスムクもさすがにそれは理解しているので、必要最低限のやり取りだけできるように……と考えて講義してくれているのだが、それでもかなりの厳しさだ。

 多忙な中レッスンをつけてくれるのはありがたい、ありがたいのだが。


「伯爵」

「何ですか」

「もし僕の典礼語手話の修得が間に合わなかったら、どうしましょう」

「(※編註……この発言は1350年代のポリティカルコレクトネス違反により削除されました)」

「そこまで言わなくとも!?」


 さすがに僕も傷ついた。カズスムクは深々と嘆息する。


惰弱だじゃくですよ、イオ。そんなことで古祭アルマクに参加できるとお思いで? この程度で音を上げて、何のために我が国まで来られたのです」


 ついにハイコンテクスト罵倒が尽きたのか、直接表現に入ってきた。


「皮を剥がされてでも参加したいです」

「あなたなら本当にやりそうだ……」


『指先から徐々に切り落としていったら、どのへんで降参するかな』と品定めするような目つきが怖い。半分ぐらいは僕の被害妄想だろう……。

 だが、どう良いように見積もってもそこまでにしかならない、という現実が恐ろしかった。本当に皮を剥がされる前に、僕は身振り手振り口を動かす。


「ただまあ、血肉を差し出すことと、短期間に一定の技能を身につけることは……またこう、代価としての種類が違うじゃないですか」

「努力あるのみです。私もお婆さまや叔母上に、こうやって躾けられました」

「でしょうね」


 カズスムクによく似たレディ・フリソッカの顔を思い浮かべて、僕はうなずいた。貴族教育ではままあることだ。問題は、それを一ヶ月半の速成コースで叩き込まれている今現在の状況だが、やると言ったのは僕だ。仕方がない。


「さ、時間は無駄にできませんよ。講義の続きを始めましょう」

「おお、地獄が僕を呼んでいる」


 ここにはとても書けない罵倒が飛んできた。



 うっかり軽口を叩いたせいで、一段と厳しい講義を受けたが、僕はなんとか生きて終了時間を迎えた。新兵教育だって、もう少し人情の温かみがあるだろう。

 教師役を終えたカズスムクは、いつもの紳士的態度に戻っていた。野花の命ひとつ摘み取らなさそうな柔和な顔つきが、しかし今の僕には死神の威容に見える。


「本日はまずまずですね。この調子ならば、祭礼までにはギリギリ仕上がるでしょう。お疲れさまでした、イオ。明日も……」


 そこでカズスムクは、何かを思い出して言葉を切った。


「ああ、お伝えすることがありました。来週、アジガロが結婚します」


 えっ、と声が出る。挙式予定日は、アジガロが退職するその翌日ではないか。

 なぜ今この時に結婚するのか、僕はいくつかの可能性を検討した。死にゆく前の最後の思い出にか、そういう習慣があるのか。まあ聞いて確かめなくては始まらない。


「それは、個人的に? それとも慣習としてですか?」

「贄になった者の【肉】は、その家族にも取り分があるのですよ。結婚していれば、それがどんなに直近のことであっても、伴侶にも受け取る権利があります」


 贄を出した家族には、贄本人の【肉】から一部が「遺産」として渡される。


「私は立場上、顔は出せませんが。ご興味があれば、参加されるといいでしょう」

「是非とも!」


 結婚式にはその国の文化風土による様式が現れる。この旅の目的は夏至祭礼だったが、これを見逃す手はない。僕は一も二もなく参加を決めた。


「では、タギュクタヂェク〔Tagjuk〕が必要になりますね」

「Ta……なんです?」

「ああ、怪我や病で角を欠いた方がつける、作り物の角です。さすがに何も被らずに表へお出しするには、色々とはばかられますから……」


 僕は思わず、何も生えていない自分のこめかみをさすった。


「角が無いのって、そんな変な感じがしますかね」

「説明をお聞きしたいですか?」

「遠慮なくおっしゃってください!」


 言いづらそうなカズスムクの様子に、僕の好奇心が弾んだ。眼帯の伯爵は少し言葉を探すように間を置いて、口を開く。


「結論から言えば、角がない人間の顔は、鼻のない人間の顔ぐらい変に見えます」

「えっ」


 思った以上にひどい回答だった。多分、ザデュイラルに来た当初ならば、もっと柔らかく持って回った表現をしたに違いない。

……ということは、これまでの僕は「鼻のない変な顔した外国人」としてカズスムクらには見えていたことになる。

 幸いにも不細工扱いされた覚えはないから、彼らは実に紳士的だ。


「我々が人の顔立ちに言及する時、目口鼻に加え、角とのバランスを含むのです。角が悪いと褒められた器量とは言い難くなりますし、目や鼻が少々良くなかろうと、角が美しければもてはやされる。そういうものなのです」


 なるほど、それは結婚式に顔を出せないわけだ。


「それでは、来週の講義は式に合わせて休みとしましょう。一日だけですからね」


 喜びがこみ上げて、僕は思わず握りこぶしを天に突き上げたくなった。しかしカズスムクは、たちまち冷や水を浴びせかける。


「そのぶん、休み明けは倍厳しくいきますので、お覚悟を」


 なんて鮮やかで屈託のない、ぶん殴りたくなるほどチャーミングな笑顔だろう!

 僕はさっきまで「カズスムクは相当な美形に類すると思っていたが、角の良し悪しは判断できないから、ザデュイラル的にはそうでもないのだろうか」と考えていたが、撤回する。この人はザドゥヤ基準でも間違いなく美形だし自覚もある!


「殺す気ですか!?」

「死んだ方がマシと思う程度には」


 笑みを消して、カズスムクは凛と表情を引き締めた。


「イオ、典礼語手話は、単なる行儀作法の問題ではありません。その身を捧げて【肉】となった者たちへ贈る、最期の栄誉と敬意の形ですよ」


 それは講義の最初にも聞かされたことだった。

 僕ら人族の歴史を紐解けば、人肉食はしばしば侮辱の手段として登場する。文字通り相手を「食い物にする」ことで、強い憎しみや復讐心を晴らすのだ。


 これは僕らが人肉を口にした理由の一つに過ぎないが、敵がこちらを食べようとする時、つい当てはめがちの動機でもある。食べられることをおぞましいと感じているから、人肉食を冒涜行為として受け止めるのだ。だが、ザドゥヤは違う。


「口、舌、歯、喉、すべてを集中させて故人を――典礼語手話は、そのために必要な技術であると、どうぞ重々ご理解下さい」


 厳粛に語るカズスムクの口調は、信仰篤き聖職者と同じものだ。

 盲目的な熱狂ではない。何のためにそれがあるかという信仰の意義を理解して、自らの誇り、信念と一体化させた、冷静な情熱だ。これが氷の中身だ。


 僕らが思い描く想像上の魔族は、人肉を食らうことを残虐な行為として位置づけていた。だが、現実は真逆だ。少なくともザドゥヤ人は、人間だったものを食べるにあたり、敬意と哀惜を持ってそれを行う。その態度が文化の根幹をなしている。


 なぜなら、食われるのは自分の隣にいる誰かかもしれないのだから。

 その【肉】は、すべてが愛しいものなのだ。

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