最初の渡航(後)


 1267年4号月、僕は「食用人サルクス」の肩書きをつけてガラテヤを出発した。家族にも友人にもこのことは黙っていたが、生きて帰れることやら。

 一応護衛になってくれる人間を探したのだが、事情を知ると高額の報酬をふっかけられ、僕は手持ちの乏しさから断念した。

 魔族というものは――人族より何倍も怪力で、頑丈で、鼻がきき、動きがすばやい。戦場で一人の魔族に出会ったら、三人いないと殺される、ともっぱらの評判だ。それが単なる噂でないことは、いくつもの戦争史に証明されている。

 力で来られたら、僕みたいなやせ小僧は死ぬしかない。


「本当に食べませんよね?」

「ま、味見されるぐらいは覚悟しておいてくれよ」


 軽い口調でハーシュサクに訊ねると、こう返されて苦笑いするしか無かった。……いざとなれば、ちっぽけな拳銃一つが頼りだ。

 遺書と手弁当を持って、僕はハーシュサクの船に乗り込んだ。

 魔族の角は、毎日油で磨いて手入れする。特に船の上だと潮風で傷むから、念入りに香油をすりこむ、と彼は実演しながら教えてくれた。


「油を塗り立ての角で風に吹かれると、明日の天気がだいたい分かるんだ」


 事実、船旅の間、ハーシュサクの天気予報は外れなしだった。


 タルザーニスカ半島と、アポリュダード大陸に囲まれた地中海――帝都ギレウシェは、この海に広がる諸島群に築かれた水の都である。

 個々の行政区画は十数個の小島によって分断され、その間を六十から七十の橋と船によって結ばれていた。ガラテヤの港からここまでざっと1000フィチ〔Fithi〕、北海を渡る船で三日ほどの旅だった。


 空気は肌寒いを通り越して、きんきんと固く凍えた冬の冷気だ。僕はズボンにシャツにサスペンダー、コートを一枚引っかけて、ちょっと軽装だったと反省した。


「ようこそ、ザデュイラルへ! せいぜい楽しんでいってくれ、カンニバラくん」


 船から降りると、ハーシュサクは芝居がかった仕草で手を広げてそう告げた。ここから滞在先の屋敷までは徒歩だ。僕らは玉石敷きの通りを歩き始めた。

 この旧市街は、レンガ造りに漆喰の家々が建ち並び、まさに古色蒼然。中世の都市構造をそのまま残した、不規則で陰影の深い景色だ。


 旧い城壁を利用したナタイ〔Natag〕通りはことに狭く、僕らは見も知らぬ人々と肩をぶつけ合うようにして歩いた。ところが一歩裏道に入ると、雑踏が背後に遠く去り、薄暗く静まり返った石畳の空間が広がる。

 そこからはまた、網目のように張り巡らされた細い路地の連続だ。曲がりくねって先が見えない通りは、どれもこれも迷路のよう。


 行き交う人々の足音は、ガラテヤの耳慣れた雑踏とはリズムさえ違って聞こえた。誰もが僕の知らない、見えない決まりごと、礼儀や流行に従って身を処している。

 それは頭に角を戴いて、身頃のゆったりとした筒襟の服に身を包む、そんな見た目の違い以上に顕著な異質さだった。いや、ここで異質なのは僕の方なのだが。


 谷間のようにそびえる家々は、どれも三、四百年からなる建築物で、なんだか巨大な生き物が壁ごしに見下ろし、きらきらと眼を輝かせているような威容があった。

 けれど美しい生き物だ。すごく年寄りで、穏やかで、この国の美意識や、歌や光の厳かなしわが幾重にも複雑に彫られたいわお


「あんまりボンヤリするなよ、角もないやつが一人で突っ立っていたら、誘拐されて解体されちまうぞ。塩漬けと肉団子、どっちが好きだ」

「その場合、あなたのが盗まれたことになるのでは?」


 僕は大小の旅行かばんを背負ったり抱えたりしながら、軽快に前を行くハーシュサクからはぐれないよう必死でついていった。

 旧市街の小島は皇族や貴族の別邸が集中する地所であり、そうした犯罪はほぼ無いので完全にからかわれただけ――と分かるのは、もっと後のことだ。


「そうだ、大損だぞ。自分の身は自分で守ってくれよ、食用肉くん」

「いくらで売れるんですかねえ、僕は」


 細い路地に次ぐ路地から突然、視界が開けて、僕らは公共広場の一つに出ていた。狭さに慣れた体が大きな空間に放り込まれ、僕はたたらを踏みそうになる。

 ガラテヤより弱く低い太陽の光が、建物の隙間から柔らかく降り注ぎ、鮮やかな黄色やオレンジの壁に、緑の蔦がアーチのようにかかっていた。


 この都市はただ暗然と古臭いだけではなく、明と暗、大と小の空間的コントラストが利いているのだ。広場のあちこちで、吊るされたザデュイラルの国旗が揺れていた。

 十字架と、十字の交差部分を囲む二重の環でできたシンボル〝輪廻チャーグラ十字架デーキ〟〔Tjhaghradhekg〕が青地に描かれた金十字旗だ。


「ほら、ここだぞ。懐かしの我が家ってわけじゃないが」


 広場から東、ハーシュサクは貴族の邸宅が並ぶタッルム青 の通り〔Ttålm élla〕のある門前で足を止めた。何世紀も昔からここに根を下ろす、巨樹のごとき堂宇。

 滞在先として紹介された、〝アンデルバリ伯爵マルソイン家〟別邸だ。

 所領にある本邸とは別に建てられた、都市用の住居である。広大な庭園とはいかないが、充分な前庭を備え、威風堂々とした門構えだった。


〝伯爵〟と訳したが、ザデュイラルの伯爵位イシュー〔Ýseue〕は三種類ある。

 下からL'mレム称伯しょうはくÝ'lイル称伯、そしてL'm Ý'lレム・イル称伯で、三つ目がガラテヤで言う伯爵に近いだろう。よってL'm称伯は男爵、Ý'l称伯は子爵あたりと考えられる。


 当主である伯爵本人は事故で夭逝ようせいしており、この当時のアンデルバリ伯爵レム・イル・イシュー・アンデルバリは空位である。というのも、嫡男が十七歳という年少のため正式に家督を継げず、後見人を立てているためだ。彼は公的には〝アンデルバリ子爵イル・イシュー・アンデルバリ〟である。


「どうせもう数年すれば正式に継承するから、公の場でない限りは伯爵扱いだな」


 とハーシュサクは言った。


(※編註……ガラテヤでもザデュイラルでも、〝儀礼ぎれい称号しょうごう〟という慣習がある。複数の爵位を持つ貴族の後継者は、一番高い爵位を父が使っている間、名目上は二番目に高い爵位を名乗ることができる)


 天窓から光が降り注ぐ玄関ホールでは、暖色に彩られた陶器タイルの床と、浮き出し加工された壁紙に迎えられた。なんというか……突飛な異文化や、異国情緒という感じはしない。ガラテヤでも、個人の趣味の範囲でありそうな内装だ。


 平凡だが、細かく凝った室内装飾――それが、ザドゥヤ貴族の館に対する僕の第一印象だった。だが、それはすぐ血なまぐさいものにすり替わる。

 壁に、柱に、窓枠に、繰形くりがたに。繊細な浮き彫り細工で、ある所にはリンゴと木々が、ある所には並べられた生首が、ある所にはたおやかな葉群れが、ある所には髑髏や骸骨が、花や、蔓草や、切断された手足が、共に描かれていた。


 壁にかかったつづれ織りや、絨毯に使われている図案もまた、恐ろしい〝人狩り〟の場面が多い。面積があるぶん、浮き彫りよりもっと鮮烈に。

 矢を射かけられ、雉のように撃ち落とされる有翼人。

 猪のように、よってたかって槍で貫かれる毛皮人。

 網に捕らえられ、銛で突かれる半魚人。

 宴会で供される男や女と調理器具。


 なんて優雅で豪奢な地獄絵図の内装だろう! 彼らにとっては、善美な花や動物のモチーフと、陰惨な狩りの場面は矛盾なくひと揃いらしい。だが、狩られているのが人間ではなく獣であれば、僕もそう気にはしなかったはずだ。

 あらためて、自分が背負った〝食用人〟の肩書きが重たく感じられた。

 僕は本当に、食用の家畜同然になって彼らの前にのこのこやって来たのだ。死ぬまでの間、できるだけ有意義な話が聞けるといいのだが。


 この旅の条件として、僕はザデュイラル国内での単独行動を禁じられ、マルソイン家の監督下に置かれることとなっている。どの程度厳しく監視されるか不安ではあるが、当面はおとなしく過ごそうと思う。肝心なのは夏至祭礼なのだ。


 ザドゥヤの夏至祭礼こと〝アルマク・トルバクッラ〟〔Ålmak Tǫlbakurra〕は多数の贄が選出され、彼らの祭祀でも重要な位置を占めると言う。

 歌って踊ってうんぬん……と文献には言うが、あまり詳しい描写に触れたものはなかった(想像上の邪悪で野蛮な残虐ショーめいたものはたくさんあった)。


 タルザーニスカ半島は北国だ、夏が近づけば一日中太陽が沈まない白夜の季節になる。岩盤と森林に国土を覆われ、耕作に向かない半島は、ただでさえ食べられる物が制限された魔族には過酷な環境だった。

 一年のほとんどは厳しい冬か、比較的穏やかな冬かで、鮮やかな夏はほんの一瞬。だから夏至祭礼では、夏を迎えた喜びと太陽への感謝を盛大に表現する。


 ハーシュサクいわく、アルマク=〝古の(祭り)〟と言えばこの夏至祭礼のことだ。僕は屋敷の使用人に案内されながら、まだ見ぬ古祭アルマクへの期待に思い巡らせることで自分の緊張を緩和させようと務めた。

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