その【肉】の名を呼ぶな

「公平、公平、ね」


 歌を口ずさむようにソムスキッラはくり返す。その手元で、花の入った杏仁乳寒天アーモンドゼリーがフォークで小さく小さく切り分けられていた。


「あんたも相当な変わり者だな」


 喧嘩腰の態度は、すっかりタミーラクから消えている。代わって見られるのは、面白がるような調子。


「僕が標準なら、この国にはもっとガラテヤ人が来てるでしょう」

「そりゃそうか」


 頬杖を崩して、タミーラクは干しトマトの揚げ物をつまみ始めた。カズスムクも、流麗な手つきでクランブルケーキに取りかかりながら言う。


「せっかくの機会ですから、シグ・カンニバラも何かお話していただけますか?」

「伯爵、できればイオG oとお呼び下さい。ヨーJ oでなくて大丈夫ですので」


 僕の名前 JoⰋ Ⱁ はザドゥヤ式に発音すると〝ヨー〟になるので、〝イオ〟と呼んでもらうには綴りを GoⰦ Ⱁ と説明する必要がある。

 もうちょっと早く言いたかったのだが、機を失していた。カズスムクは快諾してくれたので、これで少し肩の力が抜ける。


「神話の話などどうですか。魔族誕生の起源について、インカ〔Inqa〕とネル〔Nel〕の物語です。僕は長年この神話は道理に合わないと考えているのですが、あなた方なら、何かお分かりになるのではないかと思いまして」

「では、それをうかがいましょう」


 インカとネルの神話は、正式な聖典には載せられていないものだ。由来のよく分からない伝承の一つだが、ガラテヤではそれなりに知られている。

 とはいえ略すのも不親切なので、改めて記しておこう。


――創世期の終わり、仲の良い二人の兄弟がいた。

 ある時ガムルは兄弟に捧げ物を要求し、捧げたものに応じた祝福を約束する。

 祭儀の前日、弟ネルの妻は病に倒れて亡くなり、彼は彼女の遺体を捧げ物にした。するとガムルは満足されて、ネルに莫大な祝福を約束されたが、兄インカが捧げたみずみずしい果物や、子羊には目もくれなかった。

 これに激怒したインカはネルを打ち殺してガムルの怒りを買い、以後は『自分と同じ形の肉しか口にできない』呪いをかけられ、地をさまよった――


「しかし、この神話は不可解です。兄はガムルにより罰せられましたが、なぜガムルは再び人を殺さずにいられないような呪いをかけたのか、と。『これは魔族ではなく、殺人の起源の説明である』という説もありますが、ずいぶん強引に思えます」


 教父さまにこの疑問をぶつけた時、「その呪いを受けてなお、同じ過ちを繰り返さず耐えることこそ贖罪だからです」と教えられた。

「しかし兄は贖罪を果たせず、人を殺して食う悪魔に成り果てた。彼ら魔族は、ガムルの試練を乗り越えられず堕落した兄の末裔インカノックス〔Inqanox〕なのですよ」とも。


「神話が間違ってんじゃねえの」とタミーラク。「間違いだなんて、あんたにゃ面白くねえ話だろうけど」

「いえ、可能性としては価値がある指摘です」


 何か原型となる神話が別に存在し、それがこちらに都合の良いように改変されて伝わっている、という仮説は面白い。僕はそういう話がしたかったのだ。


「わたくしたちの間にも、その兄と弟の物語は伝わっているわ」


 ソムスキッラの言葉に、僕は待ってましたと胸中で喝采する。


「途中まではあなたの話と同じだけど、後がかなり違っているの」

「どう違いますか!?」

「分かりやすい食いつきだなあ、お前」


 タミーラクに笑われた。椅子から尻が浮きかけていた僕は、「失礼しました」と小さくなる。


「ネルの妻は病ではなく、夫の手で殺されて、ユワに捧げられたのよ」

「なんと」

「インカは激情家だったのでしょうね。弟の行いを知るなり打ち殺し、殺したことを後悔して泣いた。もう少し考えて行動すれば良いのではなくて?」


 ソムスキッラの評に同意しつつ、僕は「しかし、悔やんでも弟は戻らないでしょう」と肩をすくめた。死んだ者はよみがえらない。


「そう。だから彼は弟の遺体を焼いて、食べてしまうことにした。

『おお、ネルよ、私もお前も取り返しのつかないことをしてしまった。せめてお前を我が血肉とし、互いの命と罪を一つにしよう』と」


 食人鬼タミラスの話らしくなってきたではないか! 茶話会の席だからおとなしく座っているが、僕の心は楽しさのあまりぐるぐると走り回っている。


「この兄弟こそ、初めてヒトの肉を口にしたヒト。それは得も言われぬ美味、何にも勝る満足。『弟よ、お前はこれを神に捧げようとしたのか!』と感激したインカは、改めて弟とその妻の遺体をさばいて供物とした。ユワはそれを大いに喜ばれ、神に祝福されたインカは、多くの氏族の祖先となったの。めでたしめでたし」


 僕は語り終えたソムスキッラにささやかな拍手を送った。


「ゆえにあなた達は、自らのことを時にインカの末裔インカノックスと称される。ネルは最も愛する者の肉を真実の供物とし、神の祝福を受けたのですね。……しかしこのお話は、人間にとって人間が最高のごちそうだ、という前提に成り立っていませんか?」

「なんか都合が悪いか?」


 タミーラクがニヤリと笑う。


「俺たちは食べようとしたって、鳥も牛も豚も魚も駄目だ。でもあんたらは、人を食って食えないわけじゃないだろ。どうして食わないんだ、ってずっと不思議なんだよ。気持ち悪いから、ってのは知ってるけどさ」

「犯罪ですからね、基本的に」


 だから人肉を取り扱っていたハーシュサクは逮捕され、結果的に僕は彼と縁ができて、ここに来ることができたのだ。


「そもそも、人を食肉の選択肢に入れると、誰の肉を食うかで問題が生じます。少なくとも食うために殺す、という仕組みを成立させることが難しい。それに同族を食べるということは、相手の病気をそのままもらってしまうなどのリスクもあります。なにより根本的に人肉食はコストが良いとは言えません。狩りの獲物として見れば、これほど危険な対象もない。家畜としてはあまりに効率が悪い。戦争の副産物としての人肉を食べるということはありえますが、それが行われるのは主に首長制の社会発達段階までですね。社会が国家という政治組織形態にまで発達すると、どれほど軍事力が成長していても、人肉食はぴたりと行われなくなります。これは文明的であるとか倫理的であるとか賢明であるとは無関係に、単にコストとベネフィットの問題でして。たとえば戦争で捕虜を捕らえたとして、それは食べてしまうよりも、労働力に換えてしまう方がずっと利益を生むのですから――」

(※編註……イオの講義はこの後も原稿用紙20枚ほど続いたが割愛する)

「話が長すぎんだよ!!」

「ガラテヤ人の喉には、カササギが巣を作っているの?」


 タミーラクとソムスキッラを怒らせてしまった。

 僕はわりと乗ってきた所なので、ここで打ち切るのは中々不満ではある。こういう所が欠点なのは、分からないでもないが。


「まあつまり、我々の側にとっては、人肉とはとことん〝食べる必要性〟がなく、メリットよりデメリットがひたすら大きいのであって、倫理はその後からついてきたわけですね。いや、こういうこと言うと不信心だとか怒られるんですが」

「お前がめちゃくちゃ変わり者の学者先生なのはよく分かったよ」


 タミーラクはしかめっ面で、淹れたてのコーヒーに口をつけた。黙ってプディングを食べていたカズスムクが、入れ替わりに口を開く。


「イオ。あなたの話は裏を返せば、私たちも、私たちの祖先も、よほど【肉】を食べずにいられなかった、ということなのですね」

「ええ。あなた方の社会はコストの問題以上に、人肉食のニーズが高かったと僕は考えています。そしてどうにか、折り合いをつけることが出来たと」


 正直よく政体を維持できるなと思う。このへんは、そもそもの種族としての違いもあるのでは、と僕は考えているのだが。

 そこで、カズスムクが思わぬことを言い出した。


「私たちザドゥヤは【肉】を食べずに生きようとして、何度も失敗しました」

「……本当ですか!? それは、ああ、失礼ながら意外です」


 カズスムクはニコニコと笑っていた。氷と言うよりもっと細かく柔らかな、新雪がキラキラと光るような笑み。「そうでしょうね」と言外に含まれた気がした。


「実際に、菜食主義を標榜する者たちもいます。我々も【肉】を食べずに生きられるはずだ、と。しかしほとんどの者は健康を害し、性格までも変わってしまって……あまり良い結果を出している者はいません」


 菜食主義の食人鬼、なんだか下手な冗談のようだ。

 だが、彼らにとっては真剣な問題だろう。ひっそりと秀眉をひそめるソムスキッラと、苦い顔のタミーラクの様子から、あまり歓迎はされていないようだが。


「鳥が食べられれば良かった、という話をしましたね。その少し前に、私は〝Nimhacagånnニマーハーガン〟で、初めての友達を食べました。彼が死んだことを理解できないまま、どうしてあの子はここにいないんだろう、とさびしく思いながら」


 カズスムクは遠くを眺めるような、夢見るような眼差しをした。


「それでも、何より、美味しくて」


 喉も吐息もとろけたような、恍惚こうこつの声。その舌に、ありし日の味がよみがえってでもいるように。それはこれまで彼が見せていた、貴族としての姿ではなかった。

 ただの十七歳の少年でもない。生物としての本能に根ざした、剥き出しの官能に身を任せた食人鬼だ。それもごく一瞬のことだったが。


「……詳しくお聞きしても?」

「その子は、平民サルクスのザドゥヤ人でした。物心ついた時からマルソイン家で暮らしていて、私は彼のことを弟だと思っていました。ただ、右の角が赤い塗料で塗られており、その意味を知ったのはずっと後のことです」

「それは」


 僕は首を巡らせてアジガロを見た。貼りついたように変わらぬ笑みの上、赤く塗られた角がある。


「それは、間もなく死ぬことが決まっている者の印でした。私と、幼い妹以外の誰もがその意味を知った上で、いつも優しく世話をしていたものですよ。そして六歳のころ、私の角が生え変わりニマーハーガンのために抜け落ちました。その日から、あの子はマルソイン家から姿を消してしまったのです」


 動物の角も、人間の歯も、生涯何度か生え変わる。

 人肉を食べることの危険性を僕はさきほど語ったが、それは彼ら魔族も承知の上。免疫を持たない幼い子供に、彼らは決して【肉】を食べさせない。

 角の生え変わりニマーハーガンNimhacagånnさきわいしもの〕は、体が出来上がった大きな節目だ。


「私は必死であの子を探しました。誰に訊ねても、内緒ですとしか言ってくれない。みんな知っていて黙っているのは確かで、妹とタミーラクの他には誰も信じられなくなりました。……それなのに、あの子が帰ってきたと言われて信じてしまったのは、どうしてでしょうね? 子供らしい愚かしさですよ。新しい角が生え終わった私は、また友達に会えることで頭がいっぱいで、食堂の扉を開けました」


 扉の向こうで最初にカズスムクが見たものは、小さな頭蓋骨だった。綺麗に漂白され、花とともに専用の台で飾られていたと言う。扉の横にいた使用人が、彼の手に赤い角を握らせて席へ案内し。母親が「おめでとう」と告げた。


「出されたのは心臓とプルーンの煮こみです。まさに、極上の美味でした」


 カズスムクは自分の表情を隠すように、片手で顔を覆う。


「『あなたたち二人はとても仲良しだったから、そんなにも美味しくなるのよ』と母上は教えてくれたものです。後になって、何が起きたのか理解してからも、その味が忘れられません。あの時食べなければ、【肉】に飢えるような思いを抱かなくても済んだのかもしれない……それも無意味な仮定ですが」


 飢える、という直接的な表現を彼が使うとは思わなかった。

 この風習がなければ、最初から【肉】を一度も食べさせなければ、完全な菜食主義の食人鬼というものは育つか? 答えは否だ。


 紀元前480年、シャナー共和国〔Seanh〕の古代王ケソリ〔Kesory〕が、ちょうどそのような実験をしている。魔族国家ベフォム〔Befuom〕を滅ぼしたケソリ王は、三百人の赤子を手に入れ、試しに一切の肉類を与えず育てたさせた。

 結果、誰一人として十歳まで育たなかったという。

 それは牛乳や卵、動物性の油が受け付けなかったのか、環境の違いからなのか、いくつか検討する要素はあるものの、多くは栄養失調と病気が原因のようだ。


 だが、栄養だけだろうか? 同族、あるいはそれに近い人族の【肉】。それは彼らにとって、ただの食物以上の意味が存在しているのではないだろうか?

 いや、あって当然だ。その【肉】は人なのだから。


「……彼の、名前はなんと?」


 僕の問いに返ってきたのは、またも新雪のような笑みだった。触れば溶けて消えてしまいそうなのに、はっきりと拒絶の冷気を横たわらせた。


「教えられません。もう私が食べてしまいましたから。なんなら、そう、仮に〝ネル〟とでもお呼び下さい――あの神話の弟と同じように」

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