或る女の話

 律果の母親は、元々、長野の片田舎に住むホステスだった。

 繁華街とも呼べないような小さな裏通りが、どこの町にもひとつやふたつはある。そこにのきつらねる一件のクラブが彼女の職場だった。律果は母方の親族には会ったことが無いから、元より関係が希薄なのか、あるいは天涯孤独の身の上なのかもしれない。その点を確かめたことは無いが、選んでなのか必要に駆られてか。いずれにせよ、彼女が若くして夜の世界に入ったことは察せられた。そうして、客として訪れた久成と懇意こんいになった。何とも陳腐ちんぷな筋書きだ。

 やがて子供が出来た。久成に熱を上げていた彼女は、これで一緒になれると喜んだ。久成が既婚者であることは知っていたが、子供まで出来たのだから離婚して自分と一緒になってくれるだろうと、久成が愛しているのは、選ぶのは自分だと、彼女はそう信じていた。

 しかし時を同じくして久成の妻も妊娠していた。しくも腹違いの二人の赤ん坊は同じ日――五月四日に産み落とされた。だが、父親を得たのは妻が産んだ男の子だけ。もう一方の女の子は公的な認知もされないまま、母親共々放り出されることとなった。律果、そう名付けられた赤ん坊と母親は、手切れ金だと押し付けられた金銭を元手に東京に移り住み、今日まで生活してきた。

「諦めきれなくて、何度か長野まで戻ったらしいけれどね、母は。でも結果はこの通りだ。私が三歳くらいのときかな。四辻の家で最後の話し合いがあって、それきり」

うっすら記憶にある。俺、お前と会ったろ」

「私ははっきりと憶えているよ」

 ベッドにうつ伏せて頬杖を突いた律果が笑うと、隣に転がる紫雁にも振動が伝わった。大人たちが話している間、怒号の飛び交う応接間から追い出された律果は所在無しょざいなく、庭に降りた。そこに池のこいのぞき込んでいる子供がいたのだ。自分と同じ年頃のその子は、自分そっくりの目をしていて、不思議そうな顔で首を傾げていた。多分、律果も同じ顔をしていただろう。

 お互いに手を伸ばし、指先が触れようかというとき、血相けっそうを変えて紫雁の母親が飛び込んできたのだ。夫の浮気相手の子供が自分の子供と一緒にいるのが、余程耐えかねたと見える。母親のあまりの剣幕に紫雁は大泣きし、律果は引き離された。それが最後だ。

「腹違いの兄か弟の存在と、その名前がヨツツジユカリだということは知っていたんだ。流石に東京の大学で出会でくわすとは思っていなかったけれど。一生会わずに終わるんだと思っていたよ。でもあの講堂で、顔を見た瞬間気付いて隣にお邪魔した。名前を聞いたらすぐに確信した、男でユカリという名も珍しいからね」

「何で言わなかったんだ」

 言えるわけもないと分かっていて、それでも紫雁の口から不満が零れた。自分が律果の立場であっても言えなかっただろう。言われたところで、紫雁は受け容れられたか自信が無い。

 それでも、もっと早く知りたかった、そう思った。そうだなあ、と寝返りを打って律果も零す。

「私も言いたかったな。何度言おうと思ったか分からない。苗字ではなく名前で呼びたかった」

 恋人ではなく、親友でもなく。きょうだいに、なりたかった。同じ日に生まれた、双子のきょうだいに。

 どうして、腹違いだったのだろう。同じ母親から生まれたかった。そうすればきっとこんな面倒事はひとつも無くて。仕事熱心な父親と、程良く優しい母親のいる家で。お互いを名前で呼び合って、一緒に育ってこられただろう。

 けれど、そんなことはすべて幻想だ。既に紫雁は四辻紫雁であり、律果は神崎律果だった。望むと望むまいと、それぞれがそれぞれ、一人っ子として自我を確立するまでに、二十二年という時間は充分じゅうぶんすぎた。きょうだいでない関係を定着させるに、三年間は充分すぎたのだ。

「母さんは、ずっと言っていたよ」

 ぽつりと律果が吐き出した。

 律果の母親は何度も律果に向けて吐いた。紫雁と紫雁の母親への怨嗟えんさを、律果への怨嗟を。あの二人さえいなければ自分は久成と一緒にいられたのに。律果がいなければ自分はもっと自由なのに。若く、頼る相手も無かった彼女には、律果の存在は酷く重い負担となっていた。あんたなんか要らないのよ。律果はその言葉を聞きながら成長した。

 律果はあの男の子に負けたのだと。律果のせいで、母は父を得られなかったのだ、と。

 母にとって律果は父を繋ぎ留めるかすがいになるはずだった。そしてそれは失敗に終わった。役に立たない鎹など、不要品以外の何になろう。

 それでも最低限の世話を焼いたのは、虐待の疑いを掛けられる方が自分にとって不利益だと考える冷静さが彼女に残っていたからだ。だから律果は生きている。玩具おもちゃも与えられず放っておかれても、自力で近所の図書館に辿たどり着けるぐらいの賢さはあった。小学生にもなれば閉館時間まで連日入り浸った。親子連れで賑わう児童書のコーナーは自然と避けて、黙々と小説や専門書を手当たり次第に読みあさって。口調がどこか芝居掛かっているのは、他人と話すことに慣れるより先に古い書物に慣れ親しんだからかもしれない。

 本に没頭している間、物語に入り込んでいる間は、律果は律果以外の誰かになれた。成長して映画や演劇の存在を知ると、ますます物語の世界に傾倒していった。表現学科などという稀な学科を選んだのはそれが理由だ。

 出て行けと繰り返す母はきっと高校卒業を、或いは義務教育を終えたら、律果を目の前から消し去りたかったことだろう。だが未成年の律果がどこかで問題を起こせば、結局自分が呼び出される――渋々律果の存在を認めているのはそういうことだ。

 よもや生き別れたきょうだいも逃げてきた先が、自分が逃げ場を求めた果ての同じ場所だとは、夢にも思わずに。

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