不可を侵す先

 しかし指先が触れる前に、はっと顔を上げる。隠れて、と鋭い声で囁いた。

「ベッドの下、早く」

 慌てて紫雁が身を潜らせると、荷物とスニーカーも纏めて放り込まれる。律果は手近にあった適当な本を開いてベッドに腰掛けた。暗く狭いベッド下から紫雁の視界に入るのは、折れそうなほど細く白い足首。ノックも無く乱暴にドアが開いて、毒々しいほど赤いすそと色濃いストッキングに包まれた足が覗いた。

うるさいんだけど。誰か連れ込んでるんじゃないでしょうね」

「ごめんなさい、発表の練習をしていたから」

「煩い」

「……ごめんなさい」

 律果の母親の声は酒焼けなのかざらついていた。不機嫌そうな低い声は、息を殺す紫雁にも重い圧を加えてくる。弱々しい娘の謝罪の言葉に、苛立たしげな溜息が聞こえた。白い足首がひくりと震える。

「もう二十二でしょ、さっさと出て行って。あんたなんか要らないのよ」

 久成ひさなりさんも繋ぎ留められなかった役立たずのくせに。

 ヒサナリサン――紫雁は繰り返そうになって、どうにか口を噤んだ。白い足首は今度は微動だにしなかった。舌打ちがひとつ聞こえ、赤い裾は視界から消える。やがて玄関のドアが乱暴に閉められる音がした。暫しじっと気配を窺っていた律果は、完全に母が去ったと判断して、出て良いよ、と声を掛けた。

 這い出した紫雁の髪や服にはほこりが付いていた。苦笑した律果がぱたぱたと叩いて払う。

「すまないね、聞き苦しいものを」

「……神崎」

 違う。紫雁が聞きたいのは、質したいのは、そんなことではない。

 なおも髪を払うやわい手も構わず、小さなあごを捕らえて瞳を覗き込む。勢い余ってベッドに倒れた律果が、紫雁の下で小さく呻き声を上げた。

「神崎。お前、誕生日と親父さんの名前は」

「まってくれ」

「神崎」

「待って。……落ち着く時間くらい、少しくれても良いだろう」

 胸板を押し戻されて、初めて紫雁は華奢きゃしゃてのひらが冷え切って震えていることに気が付いた。

 逃れるように視線を迷わせていた律果が、観念したように紫雁に目を合わせた。ぱたりと掌がシーツの上に落ちる。知っている。紫雁はこの目を、見たことがある。

「……誕生日は五月四日。父親の名前は、四辻よつつじ久成ひさなり、というらしい」

 もっとも、戸籍こせきには載っていない。名前しか知らない父親だけれどね。律果の声は、静かな部屋にいやに響いた。

 唇が触れようかという距離で見つめる黒い瞳は、紫雁と、父と、そっくり同じ。



 夢だとばかり思っていた記憶に残るものと、何も変わっていなかった。

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