未踏の領域

 律果の自宅は大学から三駅ほどの住宅街に建つ、四階建ての賃貸マンションだった。思い返すと、紫雁が訪問する側になるのは初めてのことだ。三年以上の付き合いでも、踏み込んでいない領域はお互い未だに多くある。本来なら、紫雁は足を踏み入れることも無いまま卒業を迎えるはずだったのだろう場所だ。

 薄汚れた白いマンションの裏手からどこかの部屋を見上げて、律果はしぶい顔をする。

 案内された部屋は二階だった。足音を忍ばせる律果の後を追い、慎重に開けられたドアに滑り込む。スニーカーを持って上がった玄関には、女物の派手な靴がいくつも転がっていた。換気をすることもまれなのだろうか、こもったえたにおいがする。唇に指を立てる律果にうなずいてそっと廊下を進み、ひとつの部屋に入った。リビングの方からは下世話なテレビの音が漏れていた。

「悪いね。まだ母が出ていなかったようで」

 そろそろ仕事に行くはずなのだけれど、と律果は溜息を吐く。蛍光灯に白く照らされた部屋は、玄関や、垣間見かいまみえたリビングの雑然とした様子とは打って変わり、物の無い空間だった。フローリングに置かれた折り畳み式のミニテーブル、塗装の剥げかけたパイプベッド。備え付けのクローゼット。あとは部屋の隅に本が積まれている程度で、若い女らしさとは無縁のような場所だ。

「面倒事に巻き込んで悪い」

「気にしなくて良いさ。しばらく落ち着かないだろうけど、辛抱してくれ」

 視線でドアの向こうを示す律果に頷いた。以前、何かのときに母子家庭であることは聞いていたが、折り合いは良くないようだ。二人は声を潜めて会話し、紫雁は詳細な事情を話した。実家を嫌悪する理由から、昨日の電話に至るまで。

「お袋の俺への執着は異常の域だ。何も分かんなかったガキの頃はそれが普通なのかと思ってたけど、小学校に上がったくらいから気付いた。普通の親は近所の公園に遊びに行くのを禁止にしたりなんかしないし、休日に四六時中自分の傍に置いたりなんかしない。学校帰りに友達と、ちょっと空き地で話し込んで寄り道しただけで、翌日から車で送り迎えされるようになった。嫌気が差して県外の高校に進学しようと思ったんだ、結局止められてそのときは逃げ切れなかった」

「子供の頃からずっとかい?」

「ああ。やたら近くにいさせて、可愛い可愛い繰り返す。不気味だぞ、特に目が」

 紫雁、と猫撫で声で呼ぶ母の目を思い出す。眦を下げ、どこか恍惚としている焦げ茶色。まるで良く出来た作品――所有物を眺めるような。

 この女は、自分を、生きた愛玩人形だとでも思っているのだ。そう気付いたとき、どれほど怖気が走ったか。

「お袋にとって、俺は象徴だ。どこの馬の骨とも知れない女に勝った、親父の妻の座を守ったっていう。……元凶はあのクソ親父だな。腹違いの子供がよりによって俺と同じ日に生まれたらしい。命中率もクソなら人間としてもクソだ。浮気相手を叩き出したあとは涼しい顔で、仕事にしか興味も無いらしい」

 だから紫雁は、帰らない。あんな腐敗した家にまた囲われるなど御免だ。親族も親族で、こんな騒動をたのしげに肴にして、母の言うまま紫雁の檻となることに躊躇ちゅうちょしない。何も考えていないのだ。誰も、紫雁のことなど。

 四辻と名の付く全てが嫌いだった。その姓を冠し、あの両親に与えられた名を持つ自分自身まで含めて、全てが。

 ぽつぽつと吐き出される一部始終を黙って聞いていた律果は、言葉を探すように口を開いて、閉じて、そっと紫雁の背に手を伸ばした。

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