荒南風と水

 そんな中でも、下旬にも近付けば、どうにか最終面接にまでぎ着けた企業があった。社員は三十人もいない小さな不動産屋だったが、人の好さそうなバーコード頭の社長は、顔色が悪くとも必死に前向きな言葉を探す紫雁を気に入ってくれたようだった。給料は安いが、勤務地は都内と埼玉の一部に固定されている。

 正式な合否と書類は後日郵送すると言われたが、好感触の手応えに安堵あんどして、紫雁は久方ぶりにすっきりとした顔で翌日のゼミに出席した。後輩たちにまで、何も言わないうちから、良いことがあったんですね、と安心したように声を掛けられ、今まで自分は一体どんな表情をしていたのかと少々罰が悪い。一連の流れにこっそり肩を震わせていた律果は軽く小突いてやったが、紫雁の機嫌は良かった。

 浮かれていたのである。だから、その日の夕方、買い物袋片手の帰路でスマートフォンを弄っていたとき、震えた画面に指を滑らせるという不注意を犯した。

 コール一回にも満たず通話状態になってしまった爆弾に、頭から冷水を浴びせられた気分だ。そのまま切るわけにもいかず、紫雁は唇を噛んで耳元に爆弾を当てた。

「……もしもし」

「紫雁、久しぶりね。元気かしら? 全然電話してくれないから、お母さん寂しかったワ」

 甘ったるい毒を溶かしたような声に、背筋の毛がぞわりと逆立った。両腕に鳥肌が立っているのが見なくても分かる。最高気温は二十八度なのに。

 つとめて声を平らに保ちながら、紫雁は淡々と母に答えた。連絡してなくてごめん。体調は良好だ。就活とバイトが忙しい。腹に力を入れていなければ、込み上げる吐き気に負けそうだった。母は紫雁の短い言葉に実に嬉しそうに相槌あいづちを打って、それがまたわざとらしくて嫌悪感がつのる。

 テンプレ通りの近況報告を終え、電話を切る、と言うために口を開いた。しかし、ねえ、紫雁、とねっとりとした母の呼び掛けの方が一歩速かった。

「今度は、いつ、帰って来るの?」

「ああ……悪いけど、当分帰れそうにない。夏の間も就活があるし、卒論もやらないとならないし。バイトもしたいし」

 不動産会社の話は伏せておくことにしていた。話したら、今度は初任給だの待遇だの業務内容だの業績だの、根掘り葉掘り訊かれた挙句あげく、反対されるのが目に見えている。内定通知を得ても、黙したままで内定式を終えてしまうのが良策と考えていた。

「毎日面接や筆記試験があるから、今年の夏は」

「そのことなんだけどね、紫雁」

 帰らない、と続けようとした紫雁をさえぎって母はささやいた。もう、就職活動、しなくて良いワ。

 ――何を言われたのか思考が追い付かなかった。就活しなくて良い? 否、そんな軽いニュアンスではなかった。どういう意味。固まった口を動かして、電波の先に問う。

「あのね、上松あげまつ久満ひさみつおじさんっていたでしょう。おぼえてるかしら。お祖父じいちゃんの弟の次男。久満おじさんがね、林業をやってるけど、人手が足りないんですって。だから紫雁が来てくれたら、とっても助かるって言うのよ」

 現場の危ない仕事なんかはしなくて良いのよ、事務所で帳簿を付けるだけの楽な作業だから。就活も大変でしょう、これで終わりにして良いのよ――滔々とうとうと流れる母親の言葉。全てを聞く必要など無い。ミシリと微かな音で、スマートフォンが軋むほど、指先に力が入っていたことに気付いた。

 この長話は、とどのつまり。

 紫雁を再び囲うための、おりの説明文だということだ。

「ふざけんな」

 喉から絞り出された声は、自分でもぞっとするほど低かった。初めて息子が牙を剥く気配に驚いて、電話の向こうで名前が呼ばれる。

 良い子を演じてきた。それが逃げ出すための最短の道だと思っていたから。どんな寒気にも怖気おぞけにも耐えて、あそこから逃げることだけを考えて、紫雁は甘んじて縄の付いた獣として生きてきた。

 それでも逃がさないと言うのなら、落ち着く気など、もう、無い。

「誰がそんなこと頼んだ。あんたは俺を手元に戻したいだけだろう。ふざけるな、俺はあんたの人形じゃない。あんたがあのクソ親父を勝ち取った記念品じゃない。もう二度と俺は長野には帰らない」

 死んでも帰るものか。吐き捨てて、返事も聞かず通話を切り、そのまま電源も落とした。怒りのままにスマートフォンをアスファルトに叩き付ける。沈黙した画面が、蜘蛛くもの巣状に割れた。



 スマートフォンを切ったまま翌日を過ごした。現代人の必需品とはいえど、一日くらい無くてもどうにかなるものだ。日中を居酒屋のランチタイムをさばくことについやして、午後を大学の図書館でぼんやりと浅い眠りを繰り返して過ごす。昨夜はあれから一睡も出来ていなかった。

 己の考えが甘かったことに気付いたのは、遅い日没近くなってアパートに戻ってきた瞬間だった。

 背骨に沿って氷塊が落ちる。コンクリートの非常階段をのたのたと登る、嫌でも見慣れた中年女の姿があった。年齢にそぐわない半端に若々しい黄緑色のワンピースは、昔からあの女のお気に入りだった。手にはぱんぱんに膨れたスーパーのビニール袋がある。何か作りながら、紫雁を待ち構えるつもりなのだろう。下の階に住む大家は長年学生を住まわせてきたためか猜疑心さいぎしんが薄かった。住人の身内が訪ねてきたと、身分証を見せれば鍵を開けてしまう。

 女は幸い、アパートの下で凍り付く息子の姿には気付いていないようで。母が死角に消えたことを確認すると、紫雁は来た道を脱兎だっとごとく逃げ出した。擦れ違う人が何事かと振り返るが構う余裕も無い。無我で走って、息も絶え絶えになって立ち止まると、大学の門まで来ていた。

「四辻?」

 耳に馴染んだ涼やかな声で視線を向ける。膝に手をき汗をぼたぼたと落とす紫雁を、ぎょっとした顔で律果が見下ろしていた。

「どうかしたのか? 君、ケータイも見ていないだろう。昨夜、卒論の書式のことでメッセージを送っても全然反応が無いから、おかしいと思って様子を見に行こうかと」

「――帰れない」

 首を横に振った。紫雁はあのアパートに帰れない。律果も来てはならない。

「母親が、来てる。俺の部屋にいる。連れ戻しに来たんだ」

 事情を話したことも無い律果には経緯も伝わらないだろう言葉だったが、それでも切迫した状況なのは伝わったのだろう、眉根に皺が寄った。ちらりと腕時計に目をって、細い手が紫雁の背を叩く。

「此処から離れた方が良い。私の家に行こう」

 大丈夫、と繰り返す声が、少しずつ紫雁に呼吸を取り戻させていった。するりと鼓膜に染み入る声。

 大丈夫、大丈夫。

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