荒南風と水
そんな中でも、下旬にも近付けば、どうにか最終面接にまで
正式な合否と書類は後日郵送すると言われたが、好感触の手応えに
浮かれていたのである。だから、その日の夕方、買い物袋片手の帰路でスマートフォンを弄っていたとき、震えた画面に指を滑らせるという不注意を犯した。
コール一回にも満たず通話状態になってしまった爆弾に、頭から冷水を浴びせられた気分だ。そのまま切るわけにもいかず、紫雁は唇を噛んで耳元に爆弾を当てた。
「……もしもし」
「紫雁、久しぶりね。元気かしら? 全然電話してくれないから、お母さん寂しかったワ」
甘ったるい毒を溶かしたような声に、背筋の毛がぞわりと逆立った。両腕に鳥肌が立っているのが見なくても分かる。最高気温は二十八度なのに。
テンプレ通りの近況報告を終え、電話を切る、と言うために口を開いた。しかし、ねえ、紫雁、とねっとりとした母の呼び掛けの方が一歩速かった。
「今度は、いつ、帰って来るの?」
「ああ……悪いけど、当分帰れそうにない。夏の間も就活があるし、卒論もやらないとならないし。バイトもしたいし」
不動産会社の話は伏せておくことにしていた。話したら、今度は初任給だの待遇だの業務内容だの業績だの、根掘り葉掘り訊かれた
「毎日面接や筆記試験があるから、今年の夏は」
「そのことなんだけどね、紫雁」
帰らない、と続けようとした紫雁を
――何を言われたのか思考が追い付かなかった。就活しなくて良い? 否、そんな軽いニュアンスではなかった。どういう意味。固まった口を動かして、電波の先に問う。
「あのね、
現場の危ない仕事なんかはしなくて良いのよ、事務所で帳簿を付けるだけの楽な作業だから。就活も大変でしょう、これで終わりにして良いのよ――
この長話は、とどのつまり。
紫雁を再び囲うための、
「ふざけんな」
喉から絞り出された声は、自分でもぞっとするほど低かった。初めて息子が牙を剥く気配に驚いて、電話の向こうで名前が呼ばれる。
良い子を演じてきた。それが逃げ出すための最短の道だと思っていたから。どんな寒気にも
それでも逃がさないと言うのなら、落ち着く気など、もう、無い。
「誰がそんなこと頼んだ。あんたは俺を手元に戻したいだけだろう。ふざけるな、俺はあんたの人形じゃない。あんたがあのクソ親父を勝ち取った記念品じゃない。もう二度と俺は長野には帰らない」
死んでも帰るものか。吐き捨てて、返事も聞かず通話を切り、そのまま電源も落とした。怒りのままにスマートフォンをアスファルトに叩き付ける。沈黙した画面が、
スマートフォンを切ったまま翌日を過ごした。現代人の必需品とはいえど、一日くらい無くてもどうにかなるものだ。日中を居酒屋のランチタイムを
己の考えが甘かったことに気付いたのは、遅い日没近くなってアパートに戻ってきた瞬間だった。
背骨に沿って氷塊が落ちる。コンクリートの非常階段をのたのたと登る、嫌でも見慣れた中年女の姿があった。年齢にそぐわない半端に若々しい黄緑色のワンピースは、昔からあの女のお気に入りだった。手にはぱんぱんに膨れたスーパーのビニール袋がある。何か作りながら、紫雁を待ち構えるつもりなのだろう。下の階に住む大家は長年学生を住まわせてきたためか
女は幸い、アパートの下で凍り付く息子の姿には気付いていないようで。母が死角に消えたことを確認すると、紫雁は来た道を
「四辻?」
耳に馴染んだ涼やかな声で視線を向ける。膝に手を
「どうかしたのか? 君、ケータイも見ていないだろう。昨夜、卒論の書式のことでメッセージを送っても全然反応が無いから、おかしいと思って様子を見に行こうかと」
「――帰れない」
首を横に振った。紫雁はあのアパートに帰れない。律果も来てはならない。
「母親が、来てる。俺の部屋にいる。連れ戻しに来たんだ」
事情を話したことも無い律果には経緯も伝わらないだろう言葉だったが、それでも切迫した状況なのは伝わったのだろう、眉根に皺が寄った。ちらりと腕時計に目を
「此処から離れた方が良い。私の家に行こう」
大丈夫、と繰り返す声が、少しずつ紫雁に呼吸を取り戻させていった。するりと鼓膜に染み入る声。
大丈夫、大丈夫。
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