麻縄とアイスと念仏

 ゴン、ゴゴン、と特徴的なリズムで鉄のドアが叩かれた。鍵を開けてあることは向こうも知っているから、形式的な合図にすぎない。暑い暑いと繰り返しながら上がり込んだ律果は、勝手知ったるとばかりに冷蔵庫を開けてゴソゴソと出し入れした。氷を入れたグラスと紫雁が買っておいた缶チューハイ、ポテトチップスとサキイカが入ったコンビニの袋。いつもながら、つまみのチョイスにも、よいせ、と掛け声して掻く胡座あぐらにも色気は無い。

「冷凍庫に何突っ込んだ」

「チョコモナカジャンボとパルムの苺味。持って来るまでにもう柔らかくなっていそうだから。後で食べよう」

「俺モナカ食う」

「お好きな方をどうぞ」

 律果が緩いTシャツの襟元を扇ぐと、ふわりと熱い汗の温度と、線香に似た低いトーンの甘い匂いが漂う。ちらちらと覗く白い肌は、この三年ですっかり見慣れて、もう何とも思わなくなっていた。ただ、癖のある黒髪の陰に、昼は気付かなかった、赤い痕を見付けた。

「それ、首。何やった」

「うん? ああ」

 左の指先で首元をなぞり、少しね、と律果は笑った。右手で傾けた缶から白いアルコールが流れ出てグラスに弾ける。明らかに虫刺されではないそれは、所謂いわゆる痕とも違って、擦れたような赤だった。

「バイトだよ。知人の手伝いで」

「良い時給になりそうだな」

「日当かな。今回は体験程度だってことで、あくまで多少の御礼としてだったけれどね」

 見るかい、と悪戯な顔で服に手を掛ける律果に、紫雁は首を横に振った。生憎とノーマル嗜好しこうを自認しているため、縛られた痕を見て興奮したいとは思わない。どこで知り合った知人だか知らないが、ろくな相手ではないだろうと思った。

 シたのかとこうとして、やめる。だが訊くまでもなく、れられてないよ、と生々しい言葉で否定された。恥じらいという言葉はこの女の辞書には無い。

「縛られて撮られただけ。見ていた限りでは抜いてもいなかったな。終わった後のことは知らないけれど」

「着衣か」

「両方。脱いだ方が綺麗に撮れたとは言われたね。あんまり女性らしいとは自分でも思えないのだけれど、肌に縄の色が映えるそうだ」

「お前、マゾだっけ」

なぶられる趣味は無いなあ。ああ、でも、良い経験ではあったよ。意外と気持ち良いんだ」

「マゾじゃねえか」

 嘆息たんそく混じりに突っ込みを入れた。裸で縛られて撮られて気分良くなっていたら充分ソッチの仲間入りではないのか。写真をばら撒かれないことを祈るばかりだ。

 聞いた紫雁がアルコールのせいでなく頭が痛いとばかりの顔をしているのを余所に、律果はそのの一環として貰ったというウイスキーを鞄から出し、さっさと開封していた。鼻歌混じりにグラスに注いでいる。濃い琥珀色がたっぷり揺れるボトルの、間違っても、そこらのスーパーやコンビニでは見た記憶が無いラベル。そこに触れたら負けだ、と思考を振り切り、紫雁も十五年もののウイスキーを水道水の氷で割って流し込む。多分、高い酒の味がした。

 ティッシュペーパーの上に広げたポテチは早くも残りカスしか無かった。十九インチのテレビ画面から流れるのは、インターネットから拾ってきた動画を寄せ集めた未確認生物特集。ぶちぶちとサキイカを食い千切って酒を飲む。耳の先に赤みが差し始めた律果が、それで、と脈絡無く口を開いた。

「結局、就活はどうなのかな」

「飽きねえな、その話題」

「四年が顔を合わせて話すことなんか大体これだろう。それとも卒論にするかい。平家女護島へいけにょごのしま

「就活で良い。卒論なんか今やってる余裕無えのはお前も同じだろうが、曾根崎心中そねざきしんじゅう。何で近松ちかまつ門左衛門もんざえもんまで被るんだ」

「ははは、進んでいないのはお互い様かな。業界はどこだっけ」

 印刷とか。紫雁は直近で受けた企業を思い出して答えた。特段、業界にも職種にもこだわりなど無いのが本音だった。就職課が声高に叫ぶ企業選択の基準や適正などという講座は、聞いたそばから右から左へ抜けていく。知っている名前だったり、上級生が以前話題に挙げていたところを片っ端から受けているようなものだ。

 何になりたいか。五年後、十年後、どんな人間になっていたいか。そんなビジョン、紫雁は掴めていない。面接で何度か訊かれはしたが、作った笑顔で当たり障りの無い回答を吐き出すしか出来なかった。

 紫雁の望みは、最低限の食い扶持を稼ぐこと。あの家に、あの町に戻らず済むのなら、多くは要らない。それ以外の基準が見付からないのだから、絞り込めないのも道理だった。

 どう思考を重ねても見えない来年の自分のイメージ。今の紫雁は、逃げるだけで精一杯だ。背後から伸びてくる手に捕まらずにいられるなら、走る先が何であっても構わない、そうとしか思えない。未来に多くは望まない。

 考えるのが嫌になって、お前はどうなんだよ、と律果に投げ返した。流石に紫雁が煮詰まっていることを察してか、昼のようにかわすでもなく、そうだなあと黒い瞳が宙へ向く。

「ぼちぼち。面接は幾つか進んでいるけれど」

「志望は」

「四辻と同じだよ。絞れていないな」

 らしいといえば律果らしいが、少々意外でもあった。のらりくらりとしているようで、律果には確固たる芯があると、紫雁は感じていたから。口を閉ざした紫雁を横目に、律果は静かに酒気を孕んだ息を吐く。どう生きたいかなんて、わからないな。

「ただ、自分のエゴに他人を巻き込むような生き方だけはしたくない」

「何だ、急に哲学みてえなことを。悟りでも開くつもりか」

「ああ、開けるものならそれも良いかもしれないな。尼寺にでも行こうか」

 南無阿弥陀仏なむあみあぶつ、とグラスを置いた手が合掌する。紫雁も真似て、神妙な顔で手を合わせた。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。半分空いたウイスキーのボトルと食べかけのサキイカを前に念仏を唱える男女は、傍から見ればさぞかし滑稽だったことだろう。

 冷凍庫のアイスの存在を思い出したのは、終電で律果が返ってからだった。パルムの苺味を食べて寝た。

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