宵の口に爆弾は鳴る

 久し振りに呑まないか。律果の問いにああ、とも、おう、ともつかない声で承諾した。連休中に出ずっぱりだった居酒屋のアルバイトは休みで、律果もそれを見越して打診したのだろう。

 大学近辺に住む一人暮らしの部屋は、往々にして宴会場や合宿所の役割を課せられるものだ。この場合も呑みの場は大学から徒歩十五分の紫雁の自宅だ。夜七時からというのは、三年余りの付き合いの中で既に暗黙の了解だった。

 本屋とスーパーで買い物を済ませて帰宅したのは午後六時を回った頃合いだった。五月の太陽はまだ空に在って、三階建てアパートの二階を明るく保っている。日が長くなったなとこんなふとした瞬間に感じる。

 出来合いの青椒肉絲チンジャオロースーと唐揚げのパックをビニール袋から引っ張り出し、冷凍しておいた白米と順繰りに電子レンジにかけていると、炬燵テーブルの上のスマートフォンが震えた。画面に表示された文字に息が止まる。――実家。

 バイブレーションがテーブルを叩く音が、酷く耳障りだった。八回、九回、十回。留守番電話サービスに切り替わり、コールが止むまで、紫雁は卓上の爆弾から目を逸らすことも出来ず凍り付いていた。静寂を取り戻した部屋でようよう息を吐き、レンジから唐揚げを救出する。夕飯をテーブルに並べ、スマートフォンを手に取った。留守番電話、一件。聞きたくもない。表示を消して見慣れたロック画面に戻し、万年床と化している布団へ放り投げた。味の濃い青椒肉絲が、いつもより不味くなった。



 長野の実家は嫌いだった。県庁所在地からも外れた、岐阜側の小さな町にある。平安時代末期に源氏の武将がどうこうという土地で、紫雁の先祖も古くから住んでいるから関わったことがあるとか無いとか。幼い頃に聞きかじったことはあるが、そんな歴史など、どうでも良かった。

 物心付いたときから、家の中の空気は妙だった。仕事人間で笑った顔など見たことが無い父親と、やたらに紫雁を溺愛する母親。珍しくもない家庭の構図なのに、祖父の代に建て替えられたという古びた平屋を満たす空気が、腐敗したようにいびつで居心地が悪かった。

 妾腹しょうふくなどという単語は既に死語だ。現代において父がしたそれはただの不倫でしか無く、不始末の結果出来た子供を、認知すらすることは無かった。商社を興した祖父が遺した山のような札束に物を言わせ、わめく相手の女に多額の手切れ金を握らせて長野から叩き出したという。――小学四年生の盆だった。酔いが回った親戚がさかなにしていたその話を盗み聞いた日、紫雁は母親が己に寄せてくる異様なまでの執着の理由を悟り、吐き気と悪寒に身を震わせた。

 それまでの本能的な拒否反応は、明確な嫌悪感へと昇格を果たした。虎視眈々と機会を窺い、紫雁は大学進学を大義名分に、あの家から逃げ出したのだった。

 文学文化学部表現学科。そんな物珍しい名称の学科を選んだのは、地元の大学で良いじゃない、と紫雁を囲いたがる母親を黙らせるためだった。長野から離れた大学で、他に類の無いような研究や学問を扱っているところを、地元の高校に押し込まれた紫雁は必死に探した。

 内申点を稼ぐために模範的な優等生も演じてみせた。三者面談の場で、授業参観や校内行事で、出来の良い息子だと褒められて誇らしげに笑う母親の横で、紫雁は歯を食い縛って腹の内で暴れる汚泥おでいに耐えた。あそこから離れられるならば、何でも良かった。

 自立の一歩を口実に、仕送りの一切を拒絶して、バイト代で生活することを選んだ。築二十八年、家賃四万二千円の六畳間。布団と炬燵こたつ、最低限の家電と安物の日用品。上級生が譲ってくれた小さなテレビ。決してゆとりあるとは言えないが、それでも此処ここは紫雁にとって城だ。銀行口座に注ぎ込まれる多額の生活費を見なかったことにして、時折掛かってくる母親からの電話さえ、息を殺して遣り過ごせば、紫雁をおびやかすものは無かった。

 流石に長期休暇ともなれば一度も帰省しないわけにもいかなかったが、一日二日、自室に籠もって、大学から持ってきた資料を読みふけるふりをして耐えれば、バイトや友人との約束を理由に東京に戻ることが出来た。今年はもう、三月に顔を見せたのを最後にするつもりだった。就職活動と卒業論文。大学四年生が他の一切を置いて優先出来る免罪符として、これ以上に強力な切り札は無かった。

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