後の祭り 前編
気温は日々上昇し、誠報学院の野球グラウンドも球児の精神力を試さんばかりに熱を発している。
成はベンチに腰を下ろし、水筒を口に当ててスポーツドリンクを体内へ流し込んだ。そんな彼を不満げな表情で見ているのは、柚葉が引退して誠報学院野球部の紅一点となった初穂だ。
「成先輩、今日も疲れ切った顔してますね」
「ほっとけ」
成は肩をすくめた。
「そういうわけにもいきませんよ。そんなに覇気の無い顔でグラウンドにいられたら皆の士気に関わります」
「そんなことで下がるなら大した士気じゃないな」
初穂は溜息をついた。
「じゃあはっきり言いますけど、私が嫌なんです。もっとシャキッとしてくださいよ」
成に向けられた視線は、夏になって大量に沸くようになった虫たちを見るそれと変わらない。この少女は自分と付き合う気で入部してきた後輩と本当に同一人物なのか、成は疑わしい気持ちになってしまう。
「伊沢に振られたからって俺に当たるなよ」
初穂は顔を真っ赤にした。
「ふ、振られたわけじゃないもん! 野球に集中したいから今は無理って言われただけで……」
「それは体良く振られただけだろ」
「ちーがーうーもーんー!」
なおもまくしたてようとする初穂を、成は手を払う動作であしらった。
夏の大会が終わって3年生が引退した後、初穂はそれまでアプローチを続けてきた伊沢に告白した。そして断られた。
成はおよそ1年後のことを想像してみた。伊沢は野球部を引退したとき、初穂と付き合う気があるのだろうか。考えてもその答えはわからないが、今の時点で恋より野球を優先したいのは本音だろうと思う。肘の故障も癒え、秋の大会でエースの座を掴むため闘志を燃やしていることは疑いようが無いからだ。
「すみません、成さん。ちょっといいですか?」
成たちの元へやってきたのは伊沢同様にエースを目指す川崎だった。
「どうした?」
「実は、チェンジアップを覚えようと思ってるんです。成さんもタイミングを外すのに使ってたじゃないですか。これからブルペンで投げるので、見てもらいたいんです」
成はすぐに返事をすることができなかった。彼にとってチェンジアップは杏月との繋がりを示す特別なボールで、自分だけのものにしておきたいと心のどこかで思っていたからだ。
傲慢だな。成は心の中で自嘲した。杏月のことを大切に思うなら川崎の上達に協力するべきだろう。甲子園に出るという彼女の願いを叶えてくれるかもしれないのだから。それに、自分にはもうチェンジアップを投げる機会があるのかどうかもわからない。
「成さん?」
「ああ、悪い。いいよ。ブルペンに行こう」
立ち上がった成は、チェンジアップを教えたくらいで失われるなら大した繋がりではないと自分に言い聞かせている。
「自分の練習に来てるのに、後輩のコーチに力を入れてどうするんですか」
ブルペンへ向かう成と川崎の背中を見つめつつ、初穂は呆れ顔で言った。
チェンジアップ習得を目指し投げ込みを敢行する川崎だったが、あまり順調とは言えなかった。成と違い、どうしても腕の振りが緩んでしまう。
「うーん。難しいですね。成さんはどうやって同じ振りで投げてるんですか?」
「どうって……」
成は少し考えてみたが、川崎のためになりそうな答えは思い当たらなかった。
「別に意識してないんだよな。試合で使ってる変化球はどれも、投げれば自然と同じになってる。参考にならなくて悪いな」
「いえいえ」
川崎は首を横に振った。
「プロの選手でも自然にできると言ってる人がいました。その人は確か、キャッチボールの時から変化球を投げていたとか」
「ああ……」
成は何度か小さく頷いた。
「俺も昔からキャッチボールで変化球を投げてたよ。受ける相手にはよく嫌がられたけど」
「それはそうでしょうね」
2人は顔を見合わせて笑った。
同時に成は懐かしい気分になっている。変化球を投げられる度に捕球できず泣いていた「相手」。その幼い表情はいつになっても鮮明に思い出せる。いつもキャッチボールに付き合ってくれるのは柚葉だった。成のピッチャーとしての原点は、彼女とのキャッチボールの中にある。
ふと、川崎が真面目な表情で自分を見つめていることに気づく。成は目線を使って話すように促した。
「成さんは志望届を出すんですか?」
「志望届……って、プロの?」
「はい」
プロ野球志望届。プロ入りを志す高校3年生や大学4年生は、その届を提出する決まりになっている。プロ野球チームと入団交渉をする選手は10月のドラフト会議で決まるが、どのチームも届を出していない学生をドラフト指名できないのだ。
成は笑った。
「出さないよ。出したって指名されないだろ」
「そんなこと無いですよ。スカウトの人たちもベタ褒めだったらしいじゃないですか」
「リップサービスだって」
シロ農相手に完投勝利を収めた成は「怪物に投げ勝った男」としていくつかのメディアで特集された。その中のひとつに、七橋球場に吉岡目当てで来ていたはずのプロ野球チームのスカウトによるコメントも掲載されていた。
≪すごく落ち着いている印象を受けるし、どの球種も同じ腕の振りで投げているのが素晴らしい。下半身がしっかりしていて、力を入れれば140キロ近くを投げられる馬力もある。ドラフト指名? 志望届を出すならあると思いますよ。心技体が揃ったサウスポーなんて貴重ですから≫
こんな具合のことが書かれ、一部の野球ファンの間で成の知名度はにわかに上昇していた。
「僕はいけると思うけどなあ」
「仮に指名されたとしても、下位指名か育成枠だろう。そうなれば上位指名の選手よりチャンスも少ないし、ダメならすぐクビになってしまう。だったら大学か社会人野球で腕を磨いて上位指名を狙った方がいい」
「なるほど」
成が言った内容は、家族や堀田監督とも話し合った末の結論だった。堀田監督はこんな具合のことを言った。
≪俺も詳しいわけじゃないがプロは厳しい世界だろう。特に下位指名から這い上がるには強い覚悟が必要になるはずだ。それを持てないなら、周りが何を言っても急いで入るべきじゃないと思う≫
堀田監督は現時点で成のプロ志望が高くないことに気づいていた。野球を続けるつもりであることは疑おうともしなかったが。
「じゃあ、卒業したらどこのチームに行くんですか?」
「まだ決めてない」
2年連続の県大会ベスト4やシロ農に勝ったという実績を評価され、いくつかの大学や企業の野球部から成への誘いが届いていた。3年生が引退した野球部で成だけが練習に参加しているのもそのためだ。どのチームへ入るにしても、野球で進路を決めるなら練習を継続すべきことは変わらない。
「そりゃ迷いますよね。迷うほど誘われるのは羨ましいです」
「真之介ならもっと誘われるピッチャーになれるさ」
「そうなるように頑張ります」
成は後輩の顔を見て微笑んだ。川崎は羨ましいと言った。強豪校からの誘いが無く失望していた過去の自分も同じように思うだろう。しかし、今の成は自分への勧誘をすべて川崎か過去の自分へ譲ってしまいたかった。誰にも言えずにいたが、成は野球を続けるかどうかも迷っている。プロ入り以前の問題である。
2年生の秋に部活もやめようとした成が、最後まで野球を続けられたのは杏月の存在によるものだった。それは成にとって確かな事実である。彼女のためという明確な理由があったからこそ、吉岡に勝つほどがむしゃらに続けられた。だが、吉岡に勝った先でどうしろと言うのだろう。最後まで勝利を目指していたチームメイトへの申し訳なさはあったが、「吉岡がいるから甲子園に行けない」という杏月の親の理屈を否定できた時点で、成の野球は終わってしまったのだ。
成はゆっくりと口を開いた。
「ああ、期待してるぞ。お前は1年生の時の俺より真面目でいいピッチャーだからな」
「ありがとうございます! チームが変わっても、お互いに頑張りましょうね!」
成は曖昧に笑った。そして彼は、身が入らないながらも自分の練習を再開した。
進路が決まっていない以上は、自分の可能性を広げるために勉学の重要性も増す。成は由と類を含めた3人で学校の図書室にて勉強会を行っていた。
「竹村は進路を決めたのか?」
「ああ。就職するらしいぞ」
由の質問に類が答えた。野球部の3年生たちはそれぞれ希望する道を決め、それに向けた準備を進めていた。成を除いて。
「あいつがちゃんと働くところは想像できねえ」
「由、同意はしてやるがちゃんと手を動かせ。そこ間違ってるぞ」
「うわ、マジで?」
成は由に解き方を指南してやった。それを見た類が肩をすくめる。
「野球だけじゃなく勉強も成頼みだな」
「別に……野球も勉強も俺より上なんかいくらでもいるだろ」
由が敵わないとばかりに首を左右に振った。
「本当に成はいつも上にいる奴を意識するよな。俺は基本的に、昨日できなかったことができるようになるだけで満足だぜ」
「しかし由、お前は昨日もこの問題を間違っていただろう」
類が由のノートを覗き込んで指摘した。それから成に視線を移す。
「俺も成をすごいと思う点では同意するけどな。中学の時から、成は自分がエースになってもそれを鼻にかけることが無かった。人を見下すより、いつも上へ行こうとしているからだろう。俺はそんな成を尊敬しているし、そうなりたくて練習してきたからこそ自分の代で準決勝まで行けたんだと思う」
成はそっぽを向いた。
「俺が炎上してなかったら甲子園に行けたかもしれないぞ」
「過去は変わらない。あの試合で炎上しなかった成は成じゃないだろ? 俺は成じゃないピッチャーと甲子園に行くより、成と一緒に負ける方がいい」
類が笑った。成の耳が赤くなっている。
「何だよ。急に変なこと言い出して。恥ずかしいな」
「そろそろ言わなきゃいけないと思っていたんだよ。6年間ずっと尊敬していたから」
類は柔らかい表情で、それでも真剣な表情で成を見つめていた。
「勉強するぞ。勉強」
「成のこういう表情はレアだなあ」
「由、うるさい」
それから勉強を再開し、しばらくすると類がトイレのために席を立った。
成の中には類から受けた言葉による気恥ずかしさが残っている。それと同時に、彼のように感情をそのまま伝えることは大切だとも思っていた。成は由の顔を見据えた。
「その、由。お前がいて良かったよ」
「え? なんで?」
「なんでって……」
成は持っていたシャーペンで意味も無くノートをつついた。
「桂陽に押し出しで負けた時、自分に責任があると言ってくれたよな。合宿でそれを聞いた時、救われた気がした。あの試合は、俺が全部悪いと思ってたから」
由が笑った。
「別に成を励ますために言ったわけじゃないけどな」
「それでもだよ。由が悔しさを忘れないでいてくれたから、俺も忘れずにいられた。それに杏月のことを自分から話したのは由だけだし、吉岡対策のクロスファイアにも協力してくれた。お前はいつも俺を受け止めてリードしてくれた。由がキャッチャーで本当に良かった」
「よせよ」
由は成を肘で小突いた。
「キャッチャーならピッチャーを助けるのは当たり前だろ? 成みたいないいピッチャーと組めば最大限の努力をしたくなるのがキャッチャーなんだよ」
ミットを構えた位置にちょうどボールが来たときと同じ表情で、由は続けた。
「俺よりいいキャッチャーはたくさんいる。成は卒業した後も高いレベルで野球をして、そういうキャッチャーたちと組んでいくんだ。俺も大学で野球を続けて、今より少しはレベルアップするつもりだけどな」
成は控えめに頷いた。野球を続けるか迷っているのは変わらないが、自分の球を受け続けた相棒が高いレベルでも野球ができると偽りのない心で言ってくれるのは嬉しかった。
「前に類と話したけど、俺もあいつも野球は高校までのつもりだったんだ。でも、成のおかげで強い相手と戦う喜びとか、野球の楽しさを実感できた。だから俺たちは大学でもう少し続けることにした。それが勉強するモチベーションにもなってる」
由は白い歯を見せて笑っている。
「そうか。じゃあ、絶対に合格しないといけないな」
成も相棒の顔を見つめて微笑んだ。
夏は青春の季節だ。成はクラスメートが叫んでいたのを思い出した。もっとも、そのクラスメートは季節が変わる度に桜の木の下の美少女だの、紅葉に囲まれた年上美人だの、ゲレンデマジックで3割増しだの叫んでいたから、季節に関係なく常に青春じゃないかと思ったのだけれども。
しかし、夏と青春の相関は否定できないかもしれない。野球部の後輩たちが強い日差しの中で汗水を垂らして練習を重ねているのは確かに青春だろうし、由や類も勉強の合間を縫い彼女と連れ立ってプールに行くなど楽しんでいるらしい。
成にはそういうものが無い。進路も決まらず、ただ何となくという形で日々が消化されている。夏の暑さで時間までも溶かされていくようだった。
気が付けば8月に入って1週間が経過し、夏の甲子園も開幕していた。「怪物」吉岡輝雄を擁する白銀農業が出場しないことを惜しむ声は多かったが、英星学園の「おおもり君」こと大森聡などを注目選手として例年通りの盛り上がりを見せている。それもまた成から離れた青春だった。
成は誠報学院の3年A組の教室で、進学希望者のための補習授業に参加していた。普段の授業と同じ席で行われるため、隣には柚葉が座っている。彼女は志望校こそ絞れていないが、とりあえずは進学を希望していた。
補習の間の休み時間。柚葉は成の顔を見ずに言った。
「来週さ、夏祭りじゃん」
「ああ……」
これも離れた青春だと思いつつ、成は曖昧な声を発した。
「成は行く?」
「たぶん行かないかな」
成たちが暮らす街では毎年お盆の時期に夏祭りが行われる。日中に商店街でダンスなどのパフォーマンスが行われ、夜には長森川の河川敷で花火大会がある。
しかし、成にとってはしばらく疎遠になっているイベントでもあった。
「人混みは嫌いだもんね」
「クソ暑いのに行こうとは思わないな」
成は机の上に置いていた団扇で自らに風を送った。
柚葉はやや緊張した面持ちでその様子を見つめ、口を開いた。
「私は杏月と一緒に花火を見るつもりなんだよ」
「そうか」
「成も一緒に行こうよ」
団扇を持つ手が止まった。成は時が止まったかのように固まった状態で柚葉を見て、それからおもむろに言った。
「それは2人で行けばいいだろ」
行きたくないとは成も思っていない。柚葉に誘われるのは悪くないことだし、杏月に会えるとなれば俄然興味は増した。しかし杏月が柚葉と2人で行くのを楽しみにしているなら、そこに自分が入るのは申し訳ないことだと思った。杏月は野球部にいた頃も定期的に柚葉と二人きりで遊びに行っていた。成はそのことを覚えている。
柚葉はかぶりを振った。
「私も杏月も成と一緒に行きたいんだよ。ダメ……かな」
「お前はともかく、杏月は本当に俺が来て嫌に思わないのかよ」
「思うわけ無いじゃん。成も誘おうって2人で話してたんだよ。信じられないなら杏月に直接訊いてみる?」
柚葉は真っすぐ射抜くようにして成を見ていた。この瞳に成は弱かった。何かしてあげないといけない気がしてくる。
「わかった。信じるよ」
成は両手を小さく挙げ、お手上げというジェスチャーを示した。
「来週は3人で祭りに行こう」
表情を歓喜で満たし、柚葉は大きく頷いた。
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