後の祭り 後編
花火大会が終わり、祭りの会場では締めの盆踊りが行われていた。観客の中には帰宅しようとする人も見受けられるようになってきた。
成たちも会場を出ることにした。会場から比較的家が近い成と柚葉は徒歩だが、杏月は家族が車で迎えに来ることになっていた。
3人で会場近くのコンビニまで歩いていくと、その駐車場には既に迎えの車が到着していた。
「柚、成、今日はとっても楽しかった!」
車に乗り込む直前、杏月は笑顔を満開にして言った。
「私たちも杏月と一緒で楽しかったよ。ね、成」
「ああ」
成と柚葉も笑った。
「また学校で会おうね。2人とも大好き! バイバイ!」
杏月を乗せ、車が動き出した。車内で杏月が手を振っている。成と柚葉も車が見えなくなるまで手を振り続けた。
見送りが終わると一気に静寂が訪れたように、成には感じられた。実際には祭りから帰る人たちもいて、周囲はそれほど静かなわけでもないのだけど。
柚葉が口を開く。
「大好きだって。良かったじゃん」
「そうだな」
成の中の空洞は最後まで埋まらなかった。杏月の言う「好き」が恋愛と別物だったからなのかどうかは、よくわからない。
2人は帰宅するべく並んで歩きだした。
「杏月と野球のこと話した?」
柚葉が尋ねた。3人でいた時は、野球の話は全くと言っていいほどしていなかった。
「ちょっとだけな。殆どしてない」
「そっか」
柚葉は夜空を見上げていた。成も見上げてみる。
「私もどこまで野球の話をしていいのかわからなかったよ。杏月がいなくなってから頑張って、シロ農にも勝って楽しい夏になったけど、杏月も一緒に楽しみたかったはずだもんね」
成たちは少し急で長い上り坂に差し掛かった。彼らが暮らす街はかつての城下町だ。何度か見舞われた大火で城などその面影は大部分が失われていたが、地形的には名残がある。城があった周辺の地域は周囲よりも高いところにあって、坂に囲まれる形となっているのだ。成や柚葉の家も坂を上った先の町内にある。
「本当に頑張ったよね。杏月がいなくなってから」
「ああ」
「成が一番頑張って、シロ農にも勝てた」
「俺はまあ……サボった時期もあるからな」
「そうだったね」
柚葉がその時を懐かしんで笑った。
「私が杏月のことを伝えて、シロ農に勝ってと頼んだら、成は本当に勝ってくれた」
成も思い出す。柚葉が図書館まで探しに来て連れ戻してくれなかったら、そのまま野球をやめていたのではないかと思う。
「本当は誰にも言わないよう頼まれてたんだけどね。杏月の親のこと」
「は?」
驚愕と抗議を込めた視線が柚葉に向けられる。
「由に話しちゃったんでしょ? 知ってるよ。由なら誰かに言いふらしたりしないから大丈夫だよ」
「確かにあいつなら大丈夫だろうが……」
成の胸中には言いたいことが少なからず残っていたが、それ以上は言わないことにした。そもそも口止めされていなかったとしても勝手に他人に話すようなことではないし、成自身にも柚葉を糾弾する権利は無いように思われた。
「とりあえず、話してくれたから今まで野球ができたんだよな。それで言えば柚葉には助けられたな」
柚葉が頷いた。
「杏月のことを話せば成は戻ってきてくれるって、わかってたからね」
「そうか」
「でも、どうして杏月が誰にも言わないよう頼んだのか、だんだんわかるような気がした。私、成には悪いことしたかなって思うんだよ」
坂道の中程で柚葉の足が止まった。それに合わせ成も立ち止まる。
「自分のために頑張れないって言ってた成に、杏月のために頑張ってもらった。それが後になって成を困らせるのかなって。というか、たぶん今がそれなんだよね。色んな大学や会社から野球で誘われたんでしょ? でも、今の成はまた野球をやる理由を失くしてる」
柚葉が言ったことは、成にとって否定できない事実だった。
「普通に生きたいとも言ってたよね。私も、今になって進路を考えなきゃいけなくなったら、少し納得できたよ。普通に生きるのもすごいことなんだよね。野球をする時間で勉強していたら、成はもっと普通の、いい人生を送れたのかもしれない。私はその機会を奪ったんじゃないかなって」
「それは大袈裟だろ」
成は言った。
「俺は柚葉に頼まれたから戻ってきたけど、それでも野球を続けると最後に決めたのは自分なんだから」
その言葉を聞いても、柚葉の表情は晴れなかった。
「私ね、野球を続けてもらうのが成のためだと思ってたんだよ。本当の成は野球を諦めたくないはずだから、退部なんかしたら後悔するって。でも、本当の成とか意味わかんないよね。私は成の気持ちを勝手に決めつけて、私の気持ちのために野球を続けさせたんだよ。私が野球に一生懸命な成のことを好きだったから、ずっと見ていたかったから、杏月のことも利用して続けさせただけなんだよ」
そう言って柚葉は俯いた。
成はその姿を見て、右の手のひらを拳で叩いた。
「別にそれでもいいんじゃないか」
「良くないよ」
柚葉は震える声で否定した。
「結果的にシロ農に勝てたけど、もしそうじゃなかったらと思うとすごく怖くなる。成が後悔しないためって自分に言い聞かせてたけど、勝てなかったら杏月のことでそれ以上の後悔を背負わせることになったかもしれない。これからだって、あの時に野球を続けたことを後悔しない保証は無いんだよ。私のエゴで成を苦しめるんじゃないかって……」
柚葉は泣いていた。嗚咽が込み上げてきてこれ以上は言葉にならない。
成は歳の離れた妹の遊びに付き合う兄のように、少し呆れながらも慈しみを持った目で柚葉を見つめている。
「だから柚葉のためでいいんだよ。自分のためにやらせておいて、終わってから俺のことを考えて泣くなよ。それじゃ頑張った甲斐が無いだろ。俺は柚葉が好きだと言ってくれる俺でいられたんだろ? なら泣かないでくれよ」
成は笑っていた。
それを見た柚葉は成にしがみつき、彼に抱き留められて激しく泣いた。とめどなく流れる涙が成の服を濡らしていく。成は柚葉の頭を優しく撫でた。
「必死に投げてきて、それが柚葉のためになったなら嬉しいよ。これから先、どんなに後悔することがあっても、そのことは胸を張って誇れる」
晴からの手紙を思い出す。どんな道を選んでもいい。選んだ道を外れることがあってもいい。希望や夢を持ち続けているならば。
自分の胸で泣いている少女のために何がしかのことができた。その事実が成に希望をくれる。
それから長かったような短かったような時間が経って、ひとしきり泣ききった柚葉は、祭りを楽しんでいた時と同様に明るい声を上げた。
「あのね、成」
そして成から離れて坂を上り始める。少し進んだところで振り返った。
「もしかすると成は後悔してるかもしれない。私に気を遣って優しくしてくれただけかもしれない。でも、それでも言わせて。野球を続けてくれて、私の願いを叶えてくれて、本当にありがとう」
成は柚葉の屈託のない笑顔を見上げた。そして、すべてを理解した。
ずっとそう言ってほしかったのだ。杏月と話して落胆したのは、投げ続けてきたことに感謝の言葉をもらえなかったからだ。
成の口元に自嘲の笑みが浮かぶ。あまりに自分勝手なものだから笑うしかなかった。
杏月のためと言いつつ、彼女のために直接的な何かをしたわけではない。杏月の夢が無意味でなかったことを多少は証明できたかもしれないが、それだって本人の頼みではない。成と柚葉で勝手に決めた目標なのだ。本当に杏月のことを考えたわけではなく、勝手に舞い上がっていただけである。挙句の果てに、杏月の悲願だった甲子園に辿り着くより先に気持ちを切らしてしまった。
今ならわかる。成の本当の原動力は、杏月とは別のところにあった。柚葉は成に野球を続けさせたことをエゴだと言ったが、成自身がエゴで野球をしていて、自分のためだからこそ続けてこられたのだ。
成は2年生の時に巻き起こした快進撃の中で、中学時代に信頼を失った自分自身を受け入れかけていた。しかし吉岡にホームランを打たれ、才能の差を見せつけられた。受け入れかけていた自分が幻想でしかないように思えてしまった。
吉岡のようにならない限りは自分を信頼できないと思うこともあった。そんなことは不可能だから絶望もした。野球をやめて別の道で自分を受け入れようとしたくもなった。
それでも、柚葉の言葉を借りれば「本当の成」は野球を続けることを望んでいた。才能で敵わない吉岡に一度でいいから勝ちたかった。秋の大会の後は、小木のように土壇場でストレートを投げられなかったことへの後悔も生まれた。杏月に関係なく、それらの気持ちを晴らしたかった。杏月のためとうそぶいていたのは、上手くいかずに再び失望する恐怖を誤魔化すためだった。
ずっと杏月のことを考えていたつもりだった。それなのに、今さらこんなことに気づくなんて。
成も坂を上り始めた。柚葉と並んで再び歩き出す。歩きながら、自分が理解したことについて白状した。柚葉は黙ってそれを聞いていた。
すべて聞き終えたとき、柚葉は言った。
「自分のために頑張れたんだね。おめでとう」
その言葉に成は一瞬驚き、それから頷いた。
そうだ。自分のために頑張れるくらい自分自身に価値を感じられていた。仮に吉岡に勝った結果が運の問題だったとしても、それまでの過程で成の望みは叶っていたのだ。そのことに気づいたとき、野球を続けてきた日々が輝きを放ち始めた。成の空洞が満たされていく。
胸の中にこの感情がある。それを理解してくれる人もいる。
それ以外に望むものなんて、何も無かった。
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