前に

 8回表。守りで勢いに乗る誠報学院は1番からの好打順だった。

 ひょっとするとシロ農が負けるかもしれない。シロ農贔屓の観客たちもそう思ってしまうような展開だったからこそ、吉岡はギアを最大に入れた。初回と同じく、1番からの攻撃を三者連続三振でねじ伏せた。笑顔でキャッチャーとハイタッチを交わし、吉岡はベンチへ戻っていく。

 そして8回裏。成は白銀農業の下位打線からツーアウトを奪った。続けて迎えた1番打者の須田も2球で追い込んだ。しかし、成はここから苦労することになる。

 須田に7球ものファールを打たれた。その間にボール球を3つ投げている。フルカウントで迎えた13球目は明らかに成の根負けだった。ストレートが高めに抜け、この試合初めての四球を与えてしまった。ツーアウト一塁。

「2番、レフト、片岡くん」

 白銀農業のキャプテンが打席に立つ。ネクストバッターズサークルには吉岡が入っている。

 片岡は成が投じた3球目を強く叩いた。打球が左中間を切り裂いていく。

 一塁ランナーの須田は迷いなく二塁を蹴った。センターの橋本が全力疾走でボールに追いつく。すぐさまショートの類へ返球し、類はバックホームした。須田は三塁を回りながらも止まった。しかし、打った片岡が二塁まで到達している。ツーアウト二塁三塁。

「3番、ピッチャー、吉岡くん」

 待ってましたと言わんばかりの大歓声が沸き起こった。この日、観客が見に来たのは県大会準々決勝の中の1試合ではない。吉岡輝雄という男にまつわる物語だ。物語を欲する者は、主人公が活躍するカタルシスに飢えている。

 誠報学院はこの試合最後となる守備のタイムを取った。




 ベンチから走ってきた花田は成と由の顔を見て言った。

「敬遠するか?」

「敬遠しろ、じゃなく?」

 由が問い返すと花田は頷いた。

「するかどうかは任せるって。とにかく確認しておきたいらしい」

「しない」

 成が言った。それからマウンドに集まった選手たちの顔を見て、もう一度言った。

「敬遠はしない。塁を埋めて守りやすくするのがセオリーなのはわかってるが、したくない。いいかな」

 セカンドの竹村が笑った。

「そこまではっきり言われたらな」

 ファーストの中嶋が頷いた。

「今日は吉岡を抑えてるからな」

 サードの和田が上級生たちの顔を見てから言った。

「しっかり守りますから」

 ショートの類が成の右肩をグラブで軽く叩いた。

「成が決めたことに文句を言う奴なんて、ウチにはいないよ」

 キャッチャーの由は花田を見た。

「先に花ちゃんは?」

 伝令の花田が慌てて口を開いた。

「敬遠するなら成の尻を蹴るよう柚葉に言われてたから、そうならなくて良かった」

 マウンドが笑いに包まれた。

 由が成を見据えた。

「俺たちじゃシロ農に勝てないと思ってる奴らに、一泡吹かせよう」

 エースの成が頷いた。

 成たちがシロ農に勝てないと思っている人たち。杏月の親やかつての自分もそうだった。吉岡にも自分にも負けた成が再び立ち上がったのはこのためだ。ここで逃げず、今度は勝つために。

「死んでもここで切るぞ!」

 キャプテンの声に応じて雄叫びが上がった。集まっていた選手たちが去り、マウンドは再び成だけの世界となる。

 吉岡が打席に入った。

「プレイ!」

 球審が力強く宣言する。

 ツーアウト二塁三塁という状況を考えれば、ランナーがスタートを切る可能性は殆ど無い。成はクイックモーションを使わず、ランナーがいない時と同様に足を上げた。

 4打席目の吉岡に対し、初球からクロスファイアで勝負を挑んでいく。吉岡はスイングしてバットに当てたが、差し込まれた打球がバックネットの裏へ飛んでいく。この時、成の球速は公式戦で最速となる139キロを計測している。

 打席で吉岡が笑っている。マウンドではポーカーフェイスと評判の成の表情はいつもと変わらない。

 続けて、3打席目で打ち取ったのと同じ外角への落ちないチェンジアップを投じた。吉岡はこのボールも振った。ストレートを狙った渾身のフルスイングはタイミングを外されている。空振りでツーストライク。

 吉岡は追い込まれたことになるが、なおも爽やかに笑っていた。

 成は由から送られたサインを見て頷いた。セットポジションに入る。杏月のため。自分を支えるためにこれまで何度も言い聞かせてきた言葉を、再び心の中で唱えた。

 由は低くというジェスチャーをして、アウトローのコースにミットを構えた。そこにめがけて落ちないチェンジアップが投じられたが、これは低すぎた。吉岡は見逃し、1ボール2ストライク。

「オッケー、いいぞ!」

 由は叫び、成に返球した。

 4球目のサインを見た時、成は自分の口角が僅かに上がっていたことに気づいていない。サインはストレート。三振を狙って、思い切り投げよう。バッテリーは無言のコミュニケーションの中で意図を共有している。

 ここまで長かった。投球の直前、成はそう思った。吉岡に負けたとき、そこで今度こそ勝とうと、最初から早く走り出せば良かったのに。どうにかリベンジのチャンスを手にすることはできたが、遠回りしてしまったという思いが成の中にある。

 でも、悩んで自分の弱さに負けて、それでも自分にとってこれ以上の道のりは無かったのだとも思う。苦しくて不格好でも、自分なりに必死で進んできたのが今なのだ。きっと、それは肯定して良いものだろう。

 吉岡みたくストレート一本で押していくことはできない。だけど、時々チェンジアップを混ぜれば、ここ一番で直球勝負ができる。遅くてもいい。器用に動けなくてもいい。前に、前に進む意志があれば。

 杏月。俺はいま、君のおかげでここにいるんだよ。




 成は高めのストレートで吉岡から空振り三振を奪った。

「ストライク、バッターアウト! チェンジ!」

 球審が大きく叫んだ。成の高校野球におけるハイライトと言っても良かった。

 9回表。誠報学院は2点を勝ち越した。ヒット、四球、バントでワンナウト二塁三塁のチャンスを作り、7番の近藤がライト前へのタイムリーヒットを放った。吉岡のストレートには8回までの勢いが無かった。8回表にギアチェンジをしたダメージが表れたのかもしれないし、打者として成に完敗したことが闘争心の陰りを生み出したのかもしれない。とにかく、白銀農業はこの大会で初めてリードを奪われた。

 9回裏。投球練習を終えた成は帽子を持ち上げて天を仰いだ。「不屈の精神」という丸っこい文字を見ることで、一種の感慨に浸っていた心に鞭を入れる。

 白銀農業の打者たちは必死の形相で成に向かっていった。彼らはこれまでの日々をもう一度甲子園へ行くために捧げてきたのだ。

 しかし、成の真骨頂であるかわすピッチングは、そういう相手にこそ威力を発揮する。簡単にツーアウトを奪い、最後のバッターもショートへのゴロに打ち取った。類が打球を捌き、中嶋が送球を掴んだ。

 27個目のアウトを確認した成は、拳を振り降ろして叫んだ。

 誠報学院の選手たちがその周りに集まっていく。言葉にならない声が飛び交っている。

「勝った。勝ったよ。勝ったんだね、成……」

 三塁側のベンチで、柚葉が泣いていた。

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