誠報学院VS白銀農業 前編

 球場がどよめいていた。7月22日、時計は午前10時を少し回ったところ。誠報学院野球部は県大会準々決勝に臨んでいた。相手は4季連続の県大会優勝を狙う白銀農業高校。

 1回表。マウンドに上がっているのは白銀農業の先発・吉岡輝雄だ。彼の剛速球が球場をどよめかせたのだった。

 試合が行われている七橋ななはし球場にはスピードガンが無いので、観客の多くはこの日の吉岡が具体的にどれほどの球速を出しているのかわからない。しかしそれは大きな問題ではなかった。すべて148キロ以上の球速を叩きだしたストレートには一目でわかる迫力があり、あるプロ野球チームのスカウトの計測では最速で155キロを計測している。誠報学院の上位打線3人をいずれも三振でねじ伏せた。人々が騒ぐ理由としては十分だ。

 球場にはプロ野球の試合を開催したとしてもこれほど集まるかわからないというほどの観客が押し寄せていた。大半は吉岡を見るためにやってきた人々だ。彼らの大歓声を浴びながら、吉岡は悠然と一塁側のベンチへ引き揚げていく。

 反対に三塁側から、誠報学院の先発・小桜成がマウンドへ向かっていった。

 投球練習で規定の7球を投げ終え、成はいつもの儀式に入った。帽子を持ち上げ、つばの裏を見る。この大事な試合でも、そこにある「不屈の精神」という文字は相変わらず丸っこい。もっと丁寧に書くよう柚葉に言えば良かったかなと成は思った。

 帽子を被り直す。いや、これでいいだろう。背伸びをしても仕方ない。初回の吉岡は去年よりさらに投手としてのレベルが上がっていた。きっと一生をかけても成は吉岡に追いつけない。それでも、自分らしく投げればいいのだ。試合なら10回に1回くらいは勝つこともあるだろう。そして、その1回が今日だ。

 内野手たちによるボール回しが終わり、白球が成の元へ帰ってきた。左手でロジンバッグに触れて、ピッチャーズプレートを踏んだ。半身の姿勢で本塁の方向を見る。球審がイニングの開始を宣言した。キャッチャーの由がサインを送る。

 試合前から、投球の組み立てについてはバッテリーで入念に話し合った。序盤はストレート主体で攻めると決めていた。その通りに、白銀農業の上位打線に挑んでいく。

 1番の須田をレフトフライ、2番でキャプテンの片岡をショートゴロに打ち取った。

「3番、ピッチャー、吉岡くん」

 前年から4番を打つ力を持っていた吉岡が右打席に入る。3回戦では本塁打も放っている。一際大きな歓声が彼を迎えたことは言うまでもない。

 吉岡は1年前に成から本塁打を放ったことを覚えている。何も不安は無いと表明するかのように、白い歯を見せて成に笑いかけている。

 誠報学院のバッテリーは以前にホームランを打たれた球種でもあるストレートから入った。吉岡は初球からスイングしていく。しかし、成のストレートは1年前のそれより格段に成長している。白球はバットに捉えられることなく、外角低めに構えられた由のミットへ吸い込まれていった。

 2球目もストレートだったが、それは外れて1ボール1ストライク。

 続く3球目、吉岡は低めへの投球を引っ張りにかかったが、ボールはバットに当たる寸前で意思を獲得したかのように曲がり落ちてバットの下をくぐっていった。スライダーを空振りさせて1ボール2ストライク。

 悔しそうに、それでも楽しそうに笑顔を見せている吉岡を観察してから、由は4球目のサインを送った。それを見た成はわずかに口角を上げた。ここまでの2試合では温存してきた、とっておきのボール。由は内角にミットを構えた。

 右脚を上げ、左手に握ったボールでグラブを叩く。いつも通りのスリークォーターで、成はクロスファイアを投じた。球速にして134キロ。吉岡が思わず腰を引いた。ミットがボールを捕まえる音がした。

「ストライク、バッターアウト! チェンジ!」

 球審が叫んだ。成がマウンドを駆け下りる。由がやってきて差し出したミットを、自分のグラブで軽く叩いた。まずは2人がこの日のために磨いてきた武器でバッター吉岡を封じたのだ。




 2回も両チームのエースがスコアボードに0を刻んだ。3回表、ワンナウトランナー無し。成が打席に向かう。

 桂陽高校との試合では本塁打も放っている成だったが、誰が見ても吉岡のストレートは打てそうになかった。三球三振を喫して三塁側ベンチへ帰っていく。

 この三振は多くの人にとって、下位打線の打者が吉岡という怪物にねじ伏せられた結果でしかない。もし七橋球場にスピードガンがあれば違う見方をする者が増えたかもしれない。2回からはやや出力を落として140キロ台の球速が中心だった吉岡が、成には3球とも150キロ以上のストレートを投じていた。

 誠報学院打線は3イニングの攻撃を終えてもなお吉岡からランナーを出すことができなかった。逆に6個もの三振を喫している。シロ農勝利の下馬評は確信へと変わりつつあった。

 3回裏。成は先頭打者にヒットを許してランナーを背負った。打席には9番の伊藤が入ってバントの構えを見せている。シロ農は伝統的にバントを多用するチームだ。

 ストレートがバットに当たって転がった。前方に走り込んでいた成がそれを拾い上げ、振り返って二塁を見た。刺せる。無理。2つの背反した思考が成の脳裏を巡る。

「ファースト!」

 由が叫んだ。いや、刺せる。未練がましくそう思う成がいた。しかし由の判断は正しかった。成も一塁へ送球して、きっちりアウトを奪った。それは最善の選択だったのに、成は心にできた小さなしこりを忘れることができない。

 自分は吉岡のような球を投げられるピッチャーではない。よくわかっている。それなら、牽制やフィールディングも含めた総合力で勝負するべきではないのか? 今のようなプレーでシロ農に勝つことができるのか? 成らしくもなく、終わったプレーに関してあれこれと考えてしまう。

 ワンナウト二塁。打席には1番の須田が入っている。集中しきれていない成が投じた初球は失投となって甘いコースに吸い込まれていく。

 スイングが投球を捉える金属音に続き、鋭いゴロが三塁手の脇を抜けてレフトへ転がっていった。二塁ランナーが三塁を蹴る。ボールはショートの類の元へ返ってきただけである。白銀農業が先制点を手にした。

 球場の歓声がより大きなものとなる。誠報学院の応援席も全校生徒が来てそれなりの大所帯となっていたが、シロ農目当ての観客は比べ物にならないほどの人だかりになっていた。ヒーローショーを見る子どものように、3ヶ月後のドラフト会議で間違いなく1位指名されるはずの吉岡が勝つ姿を楽しみにしている。

 1試合につき1チーム3回まで守備のタイムが認められている。誠報学院はそのうち1回目を使うことにした。捕手と内野手たちが成のいるマウンドへ集まっていく。

 ベンチから伝令で花田がやってきた。

「1点は仕方ない。切り替えようぜ」

「普通だな」

 由が率直な感想を述べた。花田が肩をすくめる。

「仕方ないだろ。とりあえず間を取りたいから何か落ち着かせることを言え、としか言われてないんだから」

「あの監督は……」

 竹村は呆れ顔だった。

「まあ、贅沢は言えないさ。この場面でそんなに上手い言葉が出るものでもないだろう」

 類はキャプテンとしての中立性もあるのか堀田監督をフォローしてやった。中嶋も頷く。

「ここでタイムを取っただけ感謝すべきかもしれない」

「そうだ。あの監督にしては冴えてると言ってもいい」

 親指で三塁側のベンチを指し示しつつ類が言った。

「類が誰よりも監督を馬鹿にしてないか?」

 竹村が苦笑いで言った。マウンドに集まったメンバーは和やかな雰囲気に包まれている。

 由は成を見た。

「監督はともかく、花ちゃんの言う通りか。切り替えていこうぜ」

「そうだな」

 成は拳でグラブの土手を叩いた。

「あの監督に落ち着かせようとか思われてちゃダメだよな」

 バント処理から切り替えられずタイムリーを許したことを反省し、堀田監督が不安そうな視線を送っているはずの誠報学院ベンチに目を向ける。そして吹き出した。

「おい成。いきなりどうしたんだ」

「いや、だって、柚葉の顔。あんな必死に」

 成はグラブで口元を隠し、なおも笑いを堪えている。内野陣で唯一の2年生であるサードの和田は緊張感に欠けるエースをやや不安そうに見ていたが、3年生たちは安堵すら覚えていた。彼らは成が雰囲気に飲まれなければ、シロ農とも戦えると信じている。

「よし! しっかりアウトを取るぞ!」

「おう!」

 類の言葉に全員が応え、選手たちはそれぞれの守備位置へ散っていく。

 成はロジンバッグを握りながら再び三塁側のベンチを見た。柚葉が食い入るようにグラウンドを、自分を見つめている。彼女の緊張と反比例するかのようにして冷静な気分になっていくのを感じた。

 打席に2番打者の片岡が入った。彼を後押しすべく吹奏楽部の演奏が響き渡る。

 いつも通り。成はつぶやいた。気負うのは柚葉や応援団の仕事だ。自分はいつものように、マウンドというひとりだけの最高の世界を味わいながら投げればいい。

 さっきのバントは由がファーストと言ったのだから、ファーストに送球で正解だったのだ。冷静になった成はそう思うことができた。由はいつも正しいリードをしてくれる。今だってそうだ。片岡への初球、サインは落ちないチェンジアップ。

 ストレートを待っていた片岡は身体を泳がされ、チェンジアップを引っかけた。緩いゴロが転がっていく。遊撃手の類が猛然と前に突っ込んできた。ボールをすくい上げ、すぐさま二塁へ送球する。一塁ランナーの須田も滑り込んだが、判定はアウト。

 送球を受けた竹村はすぐさま一塁へ転送した。片岡がヘッドスライディングを敢行したものの、中嶋の捕球の方が早かった。ダブルプレーを完成させた誠報学院ナインは三塁側ベンチへ引き揚げていく。

 球場を包んだ溜息を聞いて成は笑った。

 大歓声をありがとよ。

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