最後の夏 後編
夏の高校野球県大会5日目、小野球場の第1試合。第8シードの誠報学院高校と浅利工業高校の一戦は両先発の好投に演出された接戦となっていた。
6回表の成は同点にこそされたものの、勝ち越しは許さなかった。ベンチに戻り、グラウンド整備を挟んでわずかにリズムが変わったことを反省する。7回以降は修正したいと思った。
試合展開は再び硬直した。成、山内と両チームのエースが相手打線に得点を許さない。結局、1-1というスコアのままで9回の攻防を迎えることになった。
9回表、成は先頭打者を四球で歩かせてしまった。その打者は6回にタイムリーを放った4番の佐々木である。同点の9回という緊迫感と大事な場面で打たれているという記憶が、成の制球を乱れさせた。
勝ち越しのランナーを一塁に置き、浅利工業の5番打者・安保が打席に入った。バントの構えは無い。浅利工業としてはこれから下位打線になることも考え、中軸を担う打者の打力に期待することにしたのだろう。成にとってもバントでアウトを計算できない方が厄介に感じられた。
成が投じた初球、131キロのストレートを安保のバットが捉えた。鋭いゴロが三遊間を切り裂くように突き進む。しかし、レフト前へ抜けようとする直前に、遊撃手の類が滑り込みながら逆シングルで好捕した。ゲッツーを狙う余裕は無かった。類は三塁方向へ滑る勢いに逆らって身体を捻り、一塁へ送球した。
しまった。リリースの瞬間に類はそう思った。もう遅い。類の手を離れた白球は思い描いた軌道から大きく逸れていく。一塁手の中嶋は捕球できず、ボールが一塁側のファールゾーンを転がった。佐々木と安保が共に進塁する。ノーアウトでランナーは二塁三塁。誠報学院にとっては無失点で切り抜けることが難しく、2点を取られる可能性も高いシチュエーション。つまるところ、大ピンチである。
誠報学院の堀田監督は慌てて守備のタイムを取った。背番号13を着けた3年生の花田が伝令としてマウンドへ駆ける。キャッチャーと4人の内野手もマウンドへ集まった。
「失点は気にするな。1点取られても確実に1つのアウトを取ればいい。だってさ」
花田が堀田監督の言葉を伝えた。
「あの監督にしちゃ気が利いてる方かな」
成がつぶやいた。
「相変わらず監督に厳しいよな」
由が笑う。成は溜息をついた。
「しかし、失点したら追いつける保証が無いのがな」
マウンドの中心に立つエースは大袈裟に口をとがらせ、野手陣を見渡した。
「大丈夫だって。ちゃんと打ってやるから。なあ?」
「ああ」
9回裏の先頭打者でもある由が自信ありげに言うと、4番打者を務める中嶋も頷いた。
セカンドの竹村がグラブで成の背中を叩く。
「もっと仲間を信頼しろよ」
「お前に言われても信頼する気になれないんだよな」
「なんだとぉ」
マウンドに和やかな空気が流れる中、ひとり俯いていた類が声を絞り出した。
「悪いな、成」
その言葉を聞き、成は類の顔を見つめた。
マウンド上にできていた輪が解かれ、選手たちは各々の守備位置へ向かっていった。内野手はバックホームに備えて通常よりも前に守る。キャッチャーの由は外野陣にも前進するよう指示を出した。
成は初回と同じように帽子を持ち上げ、柚葉に書いてもらった文字を見上げた。帽子を被り直し、長めに息を吐く。
ベンチでは伝令を終えた花田が戻ってきたところだった。柚葉が声をかける。
「成はどうだった?」
「いつも通りかな。もう少し焦ってほしいくらいに」
「それが成だから」
柚葉は笑った。凪のように動じず、良くも悪くも変わることがない。それが成のスタイルだ。類がエラーしたからといって、それは運が無かったと片付けてしまうのが彼のメンタリティである。
「成は心配ないか。類は?」
柚葉は中学時代から類を知っている。責任感が強い分、時に気負いすぎてしまうこともある。今日もチームを引っ張る立場として誰よりも緊張していただろうし、大事な場面でミスをした罪悪感もあるだろう。
「ちょっと元気が無かったな。でも類が謝ったら、成は『絶対に抑えてやるから安心しろ』って言ったんだよ。それで安心したみたいだな」
「そっか。良かった」
成も中学からのチームメイトの性格を知っている。そうでなくても、これまでチームを牽引してきたのは類だ。彼のミスをカバーするために気持ちのスイッチも入るだろう。
「って、いやいやいや」
柚葉は自分の思考に思わず突っ込みを入れた。
「どうしたんだよ」
「成はそういう性格じゃないでしょ」
「は?」
「絶対に抑えるとか言うわけがないよ。あの成が」
花田がマウンドの上に立つ成を眺めた。
「言われてみればそうか? でも今日は間違いなく言ってたぞ。最後の夏だし気合が入ってるんだろ」
「そうなのかな」
柚葉は釈然としなかった。試合前も、成は絶対と言ってくれなかった。基本的に成は断定的な表現を使いたがらないのだ。何年か前までは、プロ野球選手になると力強く言っていたんだけど。
その成が絶対と言ったのは、一体どういう心境の変化だろう。類や他のチームメイトに気を遣ったわけではないと思う。そういう性格じゃないことは、柚葉がよく知っている。
そこで柚葉は昨秋の図書館での会話を思い出した。彼はシロ農に対して絶対に勝つと言っていた。だからシロ農と戦うためにこの試合も絶対に抑えるということだろう。
柚葉は無意識のうちに両手を組んできつく目を閉じていた。成が望む結果を得られるよう強く祈る。
「それじゃダメだって」
柚葉の瞼の裏に浮かび上がってきたのは、杏月の姿だった。仕方ないなあと言いたげに、柚葉に笑いかけてくる。
「柚葉が成のことを見てあげなくてどうするの」
杏月は姿を消した。柚葉が瞼を開けたのだ。そうだ。自分の気持ちに向き合うためにも、どんな結果でも成を見届けなくてはならない。
成はセットポジションで長い間を取って、投球のタイミングを見計らっていた。静かな投手戦だったこの試合で最も熱い場面。球場内の誰もが成の初球に注目している。
緊迫感が最も高まる瞬間を狙ったかのように、成の身体が高速で回転した。右脚が三塁の方向へ踏み出され、サイドスロー気味のフォームで鋭い牽制球が投じられた。
三塁ランナーの佐々木が慌ててヘッドスライディングをして三塁に戻る。牽制球を捕った三塁手のグラブが佐々木の腕を叩く。
際どいタイミングだが、塁審の両腕は水平に広がった。セーフ。どよめきと溜息が球場に満ちる。
無死二塁三塁という状況は変わらない。それでも、成の牽制は誠報学院にとって確かな価値があるプレーだった。
「スクイズを警戒したか。冷静だな……」
堀田監督が感心しながらつぶやいた。花田が冷ややかな視線を送る。彼から託された伝言には、スクイズのスの文字も出てこなかったからだ。
とはいえ、このことは成が試合を外から見つめる人間よりも冷静でありえることを示唆してもいる。花田は同学年のエースを頼もしく思った。
サードを守る和田から返球を受けた成は、三塁側のベンチに視線を向けた。浅利工業の監督がわずかに困惑するような表情を見せたことに気を良くする。相手のスクイズを封じれば、自分の投球と相手の打撃の単純な勝負に持ち込める。
しかし油断はできない。浅利工業が圧倒的有利なのは変わらないのだ。打者がヒットを放てずとも、内野ゴロや外野フライでランナーが帰ってくる可能性もある。内外野が前進守備を敷いているから、打球がヒットになるコースもいつもより広い。
成はもう一度息を吐いた。絶対に抑えると言った以上、この場面で求められるのは奪三振だ。やるしかない。
左投げの成はセットポジションに入ると身体が一塁の方を向く。一塁側の誠報学院ベンチも見ることができる。柚葉が打者以上にまっすぐな眼差しを成へ向けていた。
自分が絶対に抑えると言ったのを花田から聞いたのだろう。そこまで真剣に受け取って熱くなるなよと笑いたくなるけど、こんな場面でも目を背けず期待を向けてくれるのは嬉しかった。どうにかなる気がする。
成は首の動きでランナーを牽制しながら間を取って、打者への初球を投じた。ストレートが乾いた捕球音を立て、由のミットに収まった。
「ストライク!」
球審が叫んだ。スコアボードに黄色の明かりが1つ灯った。同時にスコアボードに映されたものに球場が小さくどよめいた。同じものを見て最も驚いたのは柚葉だ。
「138?」
思わずつぶやいた。スコアボードに表示されたのはストレートの球速である。柚葉は自分が書いていたスコアブックを確認した。杏月がそうしていたように、球速や球種についてもメモしてある。この日の成の最速は3回に計測された135キロで、平均球速は130キロ台前半といったところだろう。6回以降は134キロ以上を一度も計測していない。
その成が9回に入って138キロを出した。力を入れているのは明らかだ。
2球目も直球でストライクを奪った。球速は137キロ。3球目をアウトコースに外して相手の様子を伺い、4球目はスライダーを投じた。打者はそれを見逃す。ワンバウンドしたボールを、由が身体に当てて止めた。これでカウントは2ボール2ストライク。
由は打者を観察し、5球目のサインを送った。高めのストレート。中腰になった由がミットを構える。高めは長打のリスクが高い。外野フライでも勝ち越しの1点が入る場面で思い切った配球と言える。しかし、由には今の成の速球ならこれが最善という確信があった。
成は迷いなく腕を振ってその信頼に答えた。向かってくる白球に対して打者はバットを振ったが、そのスイングはボールの下を通過していく。138キロのストレートで空振り三振を奪ったのだ。
一塁側が沸いている。成は拳を小さく握った。自分にはできないと思っていたギアチェンジ。大事な場面で成功させ、打者をねじ伏せてみせた。
「やっぱり」
柚葉は言った。
「なったじゃん。かっこいいピッチャーに」
その頬を一筋の涙が流れていった。
ワンナウト二塁三塁と状況が変化し、7番打者が打席に入った。成は由のサインを見る。それに頷いて、初球を投じた。
成の投球と同時に、打者がバットを持ち替えた。ランナーがスタートを切っている。スクイズだ。
誠報学院のバッテリーはそれを読んでいた。由が立ち上がる。成はストライクゾーンから外れるボールを投じた。打者が必死に食らいつく。成の外しがやや甘い。どうにかバットには当たった。
打球が前に転がった。成は投げ終わると同時に猛然と前に突っ込んでいる。グラブでボールを拾い、そのまま由にトスした。捕球した由が滑り込んできた三塁ランナーにミットで触れる。
「アウト!」
球審が叫んだ。スクイズ失敗。三塁側から溜息が、一塁側から歓声が聞こえる。
これでツーアウトとなり、ランナーは一塁三塁。前進守備を敷いていた誠報学院の守備陣は定位置に戻った。もはや浅利工業のアドバンテージは殆ど無い。
流れを引き戻そうとせんばかりに、三塁側の応援が力を増す。成は吹奏楽部が奏でているメロディを口ずさんだ。ピンチであることは変わらない。けれども、この状況になってピッチングの楽しさを感じることができていた。
打席の8番打者を、137キロのストレートを続けて追い込んだ。
3球目に投げた低めのスライダーは見逃され1ボール2ストライク。4球目、由は3球目の時と同じ位置にミットを構えた。
そこに、要求通りのボールがやってきた。
「ストライク! バッターアウト! チェンジ!」
球審が叫んだ。打者はスライダーと思って見逃したボールが、曲がり落ちることなくストライクゾーンを通過していった。落ちないチェンジアップである。
無死二塁三塁の大ピンチを、成は宣言通りに抑えきった。
一塁側はベンチも応援席も大騒ぎをしている。それに引き寄せられるように、誠報学院ナインがベンチへ引き上げていく。
「すごいすごいすごい!」
柚葉がハイタッチで成を迎えた。鳥肌が立ち、瞳から涙がこぼれている。
「すげえ疲れた」
「でもギアチェンジやってたじゃん。すごかったよ」
「あれは一か八かのギャンブルだ。できればもうやりたくない」
成は肩をすくめた。そこに類が歩み寄る。
「助かった。ありがとう」
それを聞いた成は類から顔を背け、大仰な口ぶりで言う。
「延長戦を投げる体力は残ってないからな」
ヘルメットを被り、バットを持ってベンチを出ようとしていた由が振り向いた。
「任せとけ」
成の相棒はゆっくりとした足取りで打席へ向かっていった。
9回裏。浅利工業のエース山内はこの回もマウンドに上がった。しかし、球場の雰囲気は誠報学院が鷲掴みしていた。先頭打者の由に対してストライクが入らない。四球で出塁を許してしまう。一塁側の盛り上がりがさらにボルテージを上げる。
続いて誠報学院の4番打者・中嶋が打席に入った。大柄な体躯でどっしりと構え、山内に鋭い眼光を飛ばす。ちゃんと打ってやるからという由の言葉に頷いた。ならば打たなければならない。
中嶋は積極的に打つつもりでいた。四球を出した直後の山内はストライクを欲しがった。初球が甘くなる。鋭いスイングが襲いかかる。甲高い金属音に連れられて、センターの後方へ大きな飛球が上がった。
中堅手の追い方を見た由は、直接捕球されることはないと判断した。スタートを切って二塁へ向かう。そして打球は追いかける中堅手のさらに後ろへ落ちた。二塁を蹴った由は、三塁から本塁へ向かう軌道を直線的にするため、やや膨らんだ軌道で三塁に向かう。三塁コーチがちぎれんばかりの勢いで腕を回している。三塁に到達し、躊躇することなくベースを蹴った。
中堅手が内野に返球した。ボールを受けた遊撃手はすぐさま本塁へ送球する。由の走塁も必死だが、浅利工業の中継プレーもまさに背水の覚悟だ。
由がホームベースに足から滑り込んだ。送球を受けた捕手が由にタッチする。
これ以上無いというくらい盛り上がっていた一塁側が静まり返った。本塁付近では球審の両腕が水平に伸ばされている。次の瞬間、一塁側の人々はこの日一番の盛り上がりを見せた。
由が生還したことで、誠報学院は2-1というスコアのサヨナラ勝ちを収めた。2年連続の初戦突破である。
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