5章:3年夏
最後の夏 前編
7月18日。空は曇っているが、前日のような雨は無い。夏の高校野球県大会は中止することなく行われる。雨による2日間の中止を含み大会開始から7日目。第8シードの誠報学院はこの日が初戦だった。
大会の組み合わせが決まったのは1ヶ月ほど前のことである。夏の大会は、参加するすべてのチームが4つの球場に分かれて1つのトーナメントを戦う。誠報学院は初戦の2回戦と続く3回戦を県内最大の球場である小野球場で行う予定となっていた。2試合を順当に勝てば、七橋球場で行われる準々決勝で、春の県大会を制し第1シードを獲得した白銀農業と対戦する可能性がある。
初戦の相手は1回戦を勝ち上がってきた浅利工業高校だ。エース右腕の山内投手がなかなかの好投手であると評判だった。
誠報学院の面々を乗せて球場へ向かうバスの車中は張り詰めた緊張感が漂っている。3年生にとっては負ければ終わりという戦いが始まるのだ。
成にとっても最後の夏なのは変わらない。背番号1を背負う彼は、この日の試合でも先発する予定になっている。自分でも夏の初戦はもう少し緊張するのではないかと思っていたが、思いのほか冷静な気分を保つことができている。いつも通りに投げるだけ。自分のするべきことは変わらない。
いつも通りという点で、成はルーティンを重視する。イヤホンを耳に入れ、いつもと同じ女性歌手の曲を聴く。温かく、それでいて透き通るような爽やかで優しい歌声。そこに確かな力強さも併せ持っている。成はこの歌手の曲が好きだった。
球場に併設された駐車場に到着し、成は耳からイヤホンを抜いた。それを待っていたかのように前の座席から振り向いた柚葉が、成の顔を見据えて言った。
「今日の試合、絶対に勝とうね」
「絶対とは言えないけどな。できる限りはやるよ」
バスから降りて、道具を詰め込んだスポーツバッグを持って球場へ向かっていく。バッグに付けられた鹿のストラップが揺れた。
球場入りした選手たちは10時からの試合に向けて身体を動かしていく。試合開始の30分ほど前になるとシートノックが始まった。試合で後攻めが決まっている誠報学院が先にノックを受けることになっている。
先発の成はノックを受けず、ブルペンで由を相手に投球練習を行っていた。時折、チームメイトの動きを確認してみる。どの選手もしっかりと声を出している。特にキャプテンでショートを守る類が目立っていた。出し過ぎじゃないかと思うほどの大声だ。
誠報学院の後に浅利工業がシートノックを行い、それも終わるとグラウンドが整備されて試合の準備が進められていく。場内にはアナウンスが響いていた。両チームのスターティングメンバーが発表されているのだ。
誠報学院のオーダーが読み上げられて盛り上がるのは一塁側の応援席である。部員たちの父兄やベンチ入りしていない控え部員、それから野球部のOBもいる。その他には誠報学院高校の一部の3年生たちがいる。生徒たちのうち、2回戦は3年生の希望者、3回戦はすべての3年生、準々決勝以降は1年生から3年生の全員が応援に来ることになっていた。最初から全校応援でないのは、学校にそれほど経済的な余裕が無く、初戦から何台もバスを出せないからだ。
応援席の人たちについて成は考える。由や類の彼女はこの試合を見に来ているだろう。この試合が彼氏にとって高校野球最後の試合になるかもしれないのだから、見たくなるのも自然な話だ。自分が炎上して本当にこの試合で最後にしてしまったら、彼女たちは学校でどんな目を向けてくるだろう。それを想像した成は、なるべくそうならないでほしいと思った。
それから、と考える。杏月は来ているだろうか。元マネージャーということで来てくれているかもしれないし、国立大に入るという目標を考えると学校に残って勉強をしているのかもしれない。
どちらでもいいか。成は考えるのをやめた。どちらにしても、杏月のために投げることは変わらない。
ホームベースを挟んで両チームの選手たちが整列した。審判員の合図に促され、大声の挨拶が交わされる。それが終わり、誠報学院ナインが守備に散っていった。球場は拍手に包まれている。
マウンドの上に成が立った。第1試合の1回表。この日はまだ誰にも使われていない、まっさらな自分のテリトリー。この夏の最初の登板で、これ以上に望むものは無い。相手のキャプテンとジャンケンをして後攻を取ってきた類に感謝した。
ホームベースの奥で由がミットを構えている。成は投球練習を始めた。投じるのは7球。
キャッチャーの由は最後の7球目を捕った後に二塁へ送球する。二塁のベースカバーに入ったショートの類がそれを捕球し、滑り込んできたランナーにタッチする動きをしてからセカンドの竹村へボールを送る。竹村からサードの和田、和田からファーストの中嶋とボールが渡されていく。
内野陣がボールを回す間、成は自分の帽子を持ち上げて、つばの裏に書かれた丸っこい文字を見上げている。そこには去年の秋からずっと、「不屈の精神」と書かれている。
中嶋から成にボールが渡された。
「1回表、浅利工業高校の攻撃は、1番、サード、湯川くん」
アナウンスされ、トップバッターの湯川が右打席へ向かっていく。成と湯川の準備ができたところで、球審がプレイボールを宣言した。甲高いサイレンが鳴り響く。
成は胸の前で両手を組むセットポジションから右脚を上げ、左手に握ったボールでグラブを叩くとテークバックに入っていった。スリークォーターのフォームから初球が投じられる。
この夏の1球目は、外角低めのストレートだった。バッターの湯川が見逃したその投球は、由がミットを殆ど動かすことなく捕球した。球審が右手を上げ、ストライクと告げる。球速は132キロ。
思い通りのコースに制球できた成はひとつの手応えを得た。自分の調子が悪くないということだ。浅利工業の打線はそこまで強くない。この調子ならおそらく、大量失点してしまうことはないはずだ。
三塁側の応援席から吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。春や秋の大会では鳴り物を使った応援が無かった。金管楽器の音色は、成に暑い季節の始まりを感じさせてくれる。
成はマウンドで味わう夏の大会の雰囲気が好きだ。演奏に合わせて行われる相手チームの応援はさながら祭りである。実際にプレーする自分たちより熱くなっている人もいるだろう。渦巻く熱気の中でそういうことを考えると楽しくなる。自分くらいは冷静になって投げていこうという気持ちになれる。
マウンドは自分だけの世界だ。敵も味方も含め、周囲のことは自分に関係が無い。ピッチャーは1人だけ特別なポジションなのだ。特別だから、どんな時でも自分が自分でいられる。それは心地良いことだと思う。
成はリズム良く10球を投げ、1回表の浅利工業打線を三者凡退に封じた。
誠報学院ナインが一塁側のベンチへ戻っていく。反対に浅利工業ナインが守備に就いた。
マウンドに上がった先発の山内は、前の試合で1失点完投勝利を収めた勢いを維持していた。130キロ台中盤の速球にスライダーやカットボールといった変化球も織り交ぜ、誠報学院の攻撃を3人で抑えてみせた。
両投手の立ち上がりを見て、息詰まる投手戦を予感した者は多かった。
それが現実になる。両投手が好投し、3回までスコアボードに0が並んだ。試合が動くのは4回表まで待たなければならなかった。
「よっしゃ!」
二塁ベースの上で由が手を叩いていた。この回の先頭打者として打席に入り、二塁打を放ったのだ。
続く中嶋はライトへのフライを放った。由がタッチアップで三塁へ進塁する。
これで一死三塁。5番打者の橋本も外野フライだった。由がタッチアップする。誠報学院が犠牲フライで先制した。
1-0で誠報学院がリードし、そのまま5回裏まで終了した。5回裏と6回表の間にはグラウンド整備のためのインターバルがある。5回まで成のピッチングは順調すぎるくらい順調だった。こういう時、微妙な間が流れを変えてしまうこともある。
6回表。浅利工業は先頭の湯川がヒットを放った。次打者が送って一死二塁。成はこの試合で初めて得点圏にランナーを背負った。
誠報学院贔屓に試合を見ていると、なんだか試合の空気が変わったような気がしてくる。記録員として一塁ベンチから試合を見つめる柚葉もそれを感じていた。
ピンチだなと思った時、彼女は成と交わした会話を思い出した。あれは中学生の頃だった。
「成はギアチェンジってやらないの?」
「ピンチで力を入れて投げるやつか」
「うん」
中学生の成が柚葉の顔を見つめ、溜息をついた。
「あのな、そんなの、ランナーが出る前からある程度の力を入れて打たれないようにした方がいいだろ。力を入れなくても球威があるピッチャーならともかく、俺みたいなのはピンチのために温存する余裕なんかない」
「なんだ。プロのピッチャーがやってるのを見てかっこいいと思ったのに」
回想して、柚葉は後悔した。あそこで落胆を隠さなかったのは明らかに成を傷つけている。杏月なら上手く励ましたことだろう。
あの時の成は曖昧に笑っていた。かっこいいピッチャーにはなれないと、既に諦めを抱き始めていたのかもしれない。
柚葉は首を強く左右に振った。とりあえず目の前の試合だ。グラウンドに意識を集中させる。成が浅利工業の3番打者・千葉を2ストライクに追い込んでいた。
この千葉との対戦において、成はスライダーしか投じていない。追い込んだ後に由が送ったサインもスライダーである。
それが千葉の予想の裏をかいた。スイングするもバットが空を切る。空振り三振。
拳でグラブを軽く叩いた成は、特に表情を変えていない。運が良かったと思っている。由のリードが千葉の読みを外してくれたのだ。自分が配球していたら、カウント球も決め球もスライダーという攻めはしなかっただろう。自分の実力以外の要素が結果を左右したという点で、千葉から三振を奪ったという結果は成にとっての「運」だった。
ピンチになっても「運」に任せてそれまでと変わらず投げ続けるしかないことをもどかしいと思わないわけではない。プロの一流投手ならギアを入れ替えて力でねじ伏せられるかもしれない。自分もそうだったら良いとは思う。そういうピッチャーはかっこいいと柚葉も言っていた気がする。
しかし成にはこれまで身に付けてきた、1試合を投げ抜くために最適な1球ごとの力加減がある。強い球を投げるためにそれを弄って、フォームを崩すようなことになれば目も当てられない。実際に春の練習試合ではそういう失敗もしている。
だからいかなる場面でも、1球ずつ、いつも通り、淡々と投げていくしかない。思うような結果にならなくとも割り切るしかない。どこか機械的で空虚なピッチングかもしれない。事実、一度は目的を見失って折れた。
今は杏月のために投げている。いくら自分の気持ちが虚しくても、勝手に折れるわけにはいかない。それが成のモチベーションだった。
「4番、レフト、佐々木くん」
ツーアウトでランナーは二塁。4番の佐々木が打席に入った。ここも成にとって良い結果が巡ってくるものだと信じて投げるしかない。
1ボール1ストライクとして3球目。成は131キロのストレートを投じたが、それがやや甘く入った。佐々木のバットがそれを叩き、打球が三遊間を抜けていく。浅利工業の三塁コーチは腕をグルグルと回していた。二塁ランナーの湯川が三塁を蹴り、本塁へ突っ込んでいく。外野からの返球は間に合わない。浅利工業が1点を返し、試合は振り出しに戻った。
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