クロスファイア 後編

 成と柚葉の帰り道は、柚葉が黙るとすっかり会話が無くなってしまう。人口も少ない田舎町は、23時近くのこの時間ともなれば交通が殆ど無い。2人の周囲を不気味なほどの静寂が覆う。

 柚葉は隣を歩く成を盗み見た。話しかけてこないのは柚葉から許されたかどうか不安だからだろうか。成が自分の機嫌を損ねないように気を遣っているかもしれないと思うと落ち着かない。成と話したいから自主練が終わるまで待っていたのに、これでは意味が無い。何を話すのかもっと練るべきだったと後悔した。

「もしも宮川さんが告白してきたら、成は付き合うの?」

 焦りのまま口に出した話題はとんでもない悪手だった。柚葉はまた後悔した。成が肯定したら立ち直れる自信が無い。

「告白って。懐いてるだけだろ」

「1年生と言っても高校生だよ。初対面の人に何の打算も無くベタベタするほど子どもじゃないよ」

 話題を変えたい気持ちもあったが、柚葉の口は理性よりも先に言葉を発してしまう。

「そういうもんかな」

「そういうもんだよ」

 成が小さく二、三度頷いた。

「初穂ちゃんが俺を……ねえ」

「たぶんね」

 本人がそのつもりと言っていた、とは言わなかった。それで喜んだり彼女の気持ちに応えたりしようとする成は見たくない。

「ひょっとしてそういうことなのかとは思わなくもなかった。確信は持てなかったけど」

 暗い夜道で、成の顔はよく見えない。でも、どこか上機嫌な表情なのだろうと、柚葉は思った。

「迷惑な話だよ。大会が目前のこの時期にいきなり入ってきて3年生と付き合うなんて。今は恋愛どころじゃないよ」

「俺以外の奴にはだいぶ彼女がいるけどな」

 成は再び自嘲した。

「それは前から付き合ってる人たちじゃん。成とロクに話したことも無いのにいきなりこの時期っておかしいよ。成が夏の大会で活躍した時に自慢したいだけじゃないの」

「考えすぎじゃないか?」

「でも中学の時は人気者の男子と何人も付き合ってたって」

「それ、誰かが言ってたのか?」

 成の口調が冷たいものに変わっていた。柚葉は慌てて答えた。

「誰かというか、そういう噂があるって聞いたの」

 川崎の名前を出すことはできなかった。彼は先輩に詰問されて仕方なく知っていることを伝えただけの可哀想な後輩だ。それで成から人の噂を軽々しく話す奴だと思われるのは不憫だ。

「同じ部活の仲間なんだから、噂だけで語るなよ」

「ごめん」

「まあ他の奴らに言いふらしてないならいいけど」

「それはしてない」

 成が息を吐いた。この話題を続ける気は無いようで、そのまま黙ってしまった。

 柚葉は成の様子を伺ってからおもむろに言う。

「でも、春の大会で感動したって言うのに、成にだけベタベタなのは変だよ」

「それはまあ……」

 成は上手い言葉を見つけられなかった。代わりに疑問が沸いてくる。

「春の大会?」

「宮川さんが言ってたじゃん。何か気になるの?」

「いや、何でもない」

 そう言いつつも、成は違和感を覚えていた。夏の大会ならともかく、普通の女子高生が春の地区大会や全県大会など気にするだろうか。

 柚葉は成の様子を訝しんだが、特に追及することなく言った。

「とにかく今は余計なこと考えてる場合じゃないよ。新しく付き合うのも別れるのも、今の時期はやめた方がいいと思う」

「まあ一理あるけど」

「けど?」

 成は言葉を探りながらたどたどしく答えた。

「なんて言うかな……恋愛とか個人的な話を、あれこれ言われなきゃいけないもんかなって。柚葉が言うこともわかるけどな」

 煮え切らない言葉が柚葉に不満を感じさせた。

「そっか」

 それだけ言って、彼女は話題を変えた。

「そう言えばさっきの質問の答えを聞いてなかったね。成は宮川さんに告白されたら付き合うの?」

 はっきりした答えが欲しい。柚葉は期待したが、その当てはあっさりと外されてしまった。

「さあ」

 成は力無い声を出した。

「わからないな。告白されてどんな気持ちになるか、想像できない」

「なるほどね」

 柚葉は言った。

「答えてくれてありがとう。成の馬鹿」

「いや馬鹿って」

 柚葉はそっぽを向いてしまった。

 結局、その日はこれ以上の会話ができなかった。




 翌朝、成は3年A組の教室で自分の席に着き、柚葉が来るのを待った。机の上には白い箱を置いてある。

 柚葉は両目の下に大きな隈をこさえてやってきた。

「お、おはよう」

 隣の席に座った柚葉に向け、ぎこちなく声をかけた。

「おはよう。いつもはまだ練習してる時間じゃないの?」

「今日は早く切り上げたんだ」

 成はとりあえず無視されなかったことに安堵した。

「その、昨日は悪かったな」

「別にいいよ」

 昨日もこんな会話をした。成の背筋に悪寒が走ったが、今朝の柚葉は小さく笑っていた。

「私の方が悪いよ。成を困らせてさ」

 柚葉は俯き、自分の机を見つめた。

「宮川さんには大会前に邪魔しないでほしいって言ったのに、一番成の邪魔をしてるのは私だね。ダメな幼馴染でごめんね」

「そんなこと無いって。俺は……野球部はみんな、柚葉に助けられてるんだからさ」

 成は用意していた箱を差し出した。

「これは?」

「学校の近くに洋菓子の店があるだろ。そこで焼きドーナツを買ってきた。女子に人気だって、その、噂で聞いたから」

 その「噂」を教えてくれたのは川崎だった。女子にあげたら喜ばれそうなものを尋ねられた彼はすぐにそのドーナツの情報を教えてくれた。その店が始業前の時間に開店することも聞きこれ幸いとばかりに買ってきたわけである。

「私、成を追い詰めてた?」

「柚葉には追い詰められてない。お前を悲しませると晴に何をされるかわからないという意味では追い詰められてたけどな」

 成はできるだけ柔和な笑みを作るよう意識した。

 柚葉は瞳を潤ませていた。

「成、本当にごめん。大事な大会前なのに、余計な気を遣わせて……」

「いいって。いつもの柚葉でいてくれなきゃ大会もダメになる気がするし、こうするのがベストなんだよ」

 柚葉は両目をこすり、それから笑顔を作った。

 成はその姿を見て、ためらいがちに言った。

「その、あれだ。柚葉、今日は……可愛いな」

 最後は殆ど消え入るような小さな声だった。

 柚葉がきょとんとした顔で成を見つめた。彼の顔はすっかり赤くなっている。

「あのさ、誰かに私を褒めるよう言われたでしょ。たぶん由だろうけど」

「……なんでわかるんだよ」

 前日、成は家に帰ってから由に電話をかけ、柚葉との間に起こったことを話した。由は眠そうに聞いていたが、すべてを聞き終えると、成がいかに柚葉に冷たいか小一時間もの説教を繰り広げた。柚葉を褒めるように指示したのはまさに成とバッテリーを組む相棒だった。

「私はマネージャーで、成の幼馴染だからね」

「敵わないな。じゃあ今のはダメだよな。すまなかった」

「ううん。成なりに頑張ったのは伝わってきたからいいよ」

 そう言って柚葉は成から顔を背けた。

「今のは悪くないかな……」

 そして成に聞こえないほど小さい声を口にした。耳が真っ赤に染まっている。

「何か言ったか?」

「何も言ってない。大丈夫」

 成は首を捻ったが、声を聞く限り柚葉が何かに不満を抱いているわけではなさそうなことには安心した。

 これからはもう少しばかり幼馴染を大切にしようと思った。




 野球部のグラウンドは今日も活気に満ちている。入部2日目の初穂も部員たちが夏の大会に抱く気持ちの強さを感じ取っていた。実力的にはともかく、精神まで成に依存しきったチームではないらしい。

「ノック!」

 キャプテンの類が練習メニューを叫んだ。部員たちが大声で応え、それぞれの守備位置に散っていく。

 野手たちがノックを受ける間、成と由はブルペンでバッテリーの練習をする。由はブルペンに向かう前にホームベースのあたりにやってきて柚葉に声をかけた。

「柚葉、また打席に立ってくれないか?」

「これからノックの手伝いなんだけど」

 柚葉は警戒した表情で由を見た。そんな2人の様子を、初穂が柚葉の後ろから見つめている。

「それなんだけど、ノックの方は初穂ちゃんが昨日で覚えただろうから大丈夫じゃないかって成が」

 由と初穂の顔を交互に見てから柚葉は言った。

「宮川さんに任せるのは大丈夫だと思うけど、私の方があんなことされた後でやりたがると思う?」

「あれ、成とは仲直りしたって聞いてたのに」

「そういう問題じゃないじゃん」

「それもそうか」

 由は頭を掻いた。

「どうしようかな。やっぱりバッター役は欲しいんだけど」

「あの」

 初穂が口を開いた。

「小桜先輩が投げる時に打席に立つんですよね? 私がやりましょうか?」

 由と柚葉が顔を見合わせた。

「そうなんだけど、そう言われてもな」

「デッドボールが来るかもしれないんだよ」

 私は当てられたし、と心の中で付け加える。

「小桜先輩ってそこまでコントロール悪くないですよね?」

「それはまあ……でもなあ」

「とにかく、私がやりますから。小桜先輩の役に立ちたいんです」

 由より身長の低い初穂は上目遣いの形で視線を送っているが、それは殆ど睨んでいるような状態だった。由が肩をすくめる。

「わかった。成がいいと言ったら初穂ちゃんにお願いする。バットとヘルメットを持ってきてくれ」

「はい!」

 初穂は愛嬌ある笑顔で頷いた。

 由がブルペンに初穂を連れていって事情を話すと、成はあっさりと初穂が打席に入ることを承諾した。

「いや、いいのかよ。もし当てたらシャレにならないぞ」

「それは柚葉でも同じだろ」

 成と由はそれぞれグラブとミットで口元を隠して言葉を交わす。なんとなくそれが様式美だというのが2人の共通認識だ。

「そうなんだけど、なんと言うかお前がそれを言うのかって感じだな」

「まあ、柚葉と初穂ちゃんじゃ打席に立ってもらう理由が違うんだけど」

「どういうことだ?」

 由が首を捻るも、成は答えなかった。




 ノックを受ける部員たちは、壊れたスピーカーのように大声で打球を呼び込んだ。それに応えて堀田監督が速いテンポで打球を飛ばし続ける。柚葉は入部してから3年目になるが、堀田監督が最も必死にノックを打っているのは今だと思う。

 それだけに、練習のサポートを行う柚葉もブルペンを気にする余裕を持てなかった。ブルペンから戻ってきた初穂が青ざめているのを見た時に驚いたのはそのせいもある。理由はすぐに察したけれど。

「あの、中川先輩」

 初穂はノックが終わるとすぐに柚葉へ声をかけた。

「どうしたの?」

「小桜先輩って頭おかしいんですか?」

「確かに昔から変わってはいたと思うけど……」

 柚葉はおおよその返答を予測しつつ訊いた。

「何があったの?」

「何って、身体のすぐ近くに何の遠慮もなくストレートを投げてきたんですよ! 何球も何球も! 狂ってますよ!」

「ああ……クロスファイアの練習だよ、それ」

 柚葉は初穂を気の毒に思った。

「小桜先輩たちもそう言ってました。でも女子相手にやることじゃないです」

「まったくね」

 カーブをぶつけられないだけ良いとは言わない。

「いやいや、無理ですよ。ムリムリ。夏の大会で活躍しそうだからその前に捕まえておこうと思いましたけど、あんなに頭のおかしい人と付き合えないです。あーあ、春の大会で見極めようと思ったからそれまで彼氏も作らなかったし、わざわざ球場にも行ったのに。損しちゃったな」

「だいぶ素直に話したね」

「もうこの部に用は無いし、明日から皆さんとは無関係ですから」

 初穂はやれやれと首を横に振った。そんな姿も可愛いなと思いつつ、柚葉は言った。

「でも野球は好きなんでしょ?」

「え?」

 初穂は目を丸くしていた。

「ルールとかもよくわかってるじゃん。それが全部打算のおかげってわけでもないでしょ? 成のピッチングを見極めるにも野球を知らなきゃわからないし、いくら皆が羨む彼氏が欲しくても興味が無いのに球場には行けないよ。成が抑えたかどうか知りたいだけなら新聞でもわかるし」

 前日の夜、成は初穂が春の大会の話をしたことを気にしていた。柚葉も夜通しで成との会話を振り返り続けるうちに、その理由へ思いを巡らせていたわけだった。

「否定はしませんけど。ウチは両親が大の野球好きですから、私も自然と」

「そっか。それならマネージャーやめるのは勿体なくない?」

 柚葉は少し前まで初穂のことが嫌だと思っていたのに、不思議なものだと思った。成を奪われる心配が無くなったからだろうか。あるいは、杏月のように部から去っていく者を見たくなかったのかもしれない。

「それは別の話なので」

 初穂がきっぱりと言った。柚葉が肩を落としていると、大声がグラウンドに響いた。

「お願いします!」

 それは部員がグラウンドに入る時の挨拶だった。

「伊沢くんか」

 入ってきたのは右肘のリハビリを続けている伊沢だった。彼は通院のために前日の練習を欠席し、この日の練習も遅れて参加していた。

「ん、んんん?」

 初穂が唐突に声を上げた。

「あの、中川先輩」

 問いかける声色は先程までと全く異なっている。

「どうしたの?」

「あの人、もしかしてすごくイケメンじゃないですか?」

 その瞳があまりにきらめいているものだから、柚葉は苦笑してしまった。

「ああ、伊沢くんってかっこいい顔してるよね。学校ではそれなりに有名らしいけど……知らなかった?」

「あの頭のおかしい先輩と付き合うつもりで、他の人のリサーチはしてなかったので!」

 初穂は興奮を隠そうともしない。

「伊沢先輩の学年とポジションは!? 彼女はいますか!? 教えてください中川先輩!」

 柚葉は軽く圧倒されつつも、素直に答えてやることにした。

「2年生のピッチャー。今は怪我でリハビリ中。彼女はいなかったはずだよ。野球が恋人みたいなところがあるかも」

 初穂は彼女がいないと知るなり、話を最後まで聞かず駆けだしていた。

「初めまして先輩! 新しくマネージャーになった宮川初穂です!」

 初穂のターゲットはあっさりと伊沢に変わっていた。柚葉の中に何とも言えない感情が沸き上がる。

「まあいいか」

 マネージャーは続けるようだし、総合的には喜ぶべき結果だろう。

 成が柚葉の元にやってきた。伊沢にアプローチを仕掛ける初穂を呆れたように眺めている。

「結局は顔か……」

「いや、成にも原因あるから」

 柚葉は真顔で突っ込んだ。

「それもそうなんだけど。でも、やっぱりこの時期に付き合いたいと言われても困るんだよな」

 成は肩をすくめた。

「最初から頭おかしいと言われるのわかっててクロスファイアを投げたの?」

「悪いとは思ってるよ。というか、それをわかってなかったらアホだろ」

 それもそうだ、と柚葉は頷いた。

「私の気持ちはわかってなかったからアホなんだと思ってたけど」

「柚葉は何をしても許してくれそうで甘えちゃうんだよな」

「残念ながらそうじゃないんだよ。今度からは気を付けてね」

「そうします」

 成は敬礼のポーズを取った。

 初穂たちを眺めながら、柚葉が言う。

「あのさ、結局は顔かって言ったよね」

「言ったけど」

「私は」

 柚葉は成をじっと見つめ、笑った。

「成の顔もそんなに悪くないと思うよ」

 右手にはめていたグローブで口元を隠し、成は言った。

「見え透いたお世辞をありがとよ」

「もう言わないからね」

 成は小さく頷いた。




 翌日から成の投げ込みの際の打者役は柚葉が務めた。クロスファイアは練習を繰り返すうち、コントロールの乱れが減っていった。

「良くなってきたな。きっと吉岡相手にも通用する!」

 由が満足そうに言った。

「やっぱり練習から緊張感を持たないと実戦で使えないんだよな。そういう意味で女子が打席に立ってくれるのはありがたい。いい女子マネに恵まれた。もちろん申し訳なさはあるけどな。うん」

 成も満足そうな表情を浮かべた。

「私を都合の良い時だけ女子扱いしないでほしいけどね」

 柚葉は若干うんざりしたように言ったが、自分も協力してクロスファイアを完成させられたことを嬉しく思う気持ちもある。成が「落ちないチェンジアップ」に杏月の存在を見出していたことは知っていた。

 成たちに限らず、誠報学院野球部の面々は大会に向けて順調な日々を送っていた。マネージャーを続けることにした初穂も仕事をきっちりとこなしている。伊沢への猛烈なアプローチを続けながら。

 やがて5月、6月と過ぎて7月がやってきた。成たちの最も熱い夏が始まる。

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