クロスファイア 中編
柚葉が教室に戻ると、成は同じクラスの男子たちに囲まれていた。しかし、彼らは柚葉が戻ってきたことに気づくなり蜘蛛の子を散らすように自分の席へ戻っていってしまった。
柚葉は成の隣の席に座った。成は柚葉がいるのと反対の方向を向いている。
おそらく、成は男子たちと自分のことを話していたのだろう。あのくらい騒いで教室を出ていけば、話題になるのは必然だ。クラスメートたちは自分をヒステリックだと思ったかもしれない。それで男子たちは成に同情の声をかけたのだろうか。成は彼らにどのような言葉を返したのだろう。本当に困った女だよな。そんなことを言って笑いあっていたのではないかと思った。
それを成本人から確認することはできなかった。この日、成はすべての授業が終わるまで柚葉と話そうとしなかった。時間に解決を委ねたのかもしれない。柚葉にしてみればそのことも気に入らない。もっと構って、機嫌を取ろうとしてほしかった。
気持ちが沈む一方だった柚葉に追い打ちをかけるようなことが起こった。その日の放課後のことだ。野球部の練習が始まる前に、堀田監督が部員たちを集めて言った。
「新しく部員が加わってくれることになった。それじゃ
その新入部員が声を発する前から野球部の面々はざわついていた。やってきたのが人形のように可愛らしい顔立ちの少女だったからだ。
柚葉もその宮川と呼ばれた少女を見つめ、唖然とした。そこにいたのは朝に廊下ですれ違った美少女本人だった。
「1年の宮川
初穂がぺこりという音が聞こえてきそうなお辞儀をすると、部員たちによる歓声と拍手が上がった。堀田監督が静かに、と告げてそれを抑える。
「野球のプレーやマネージャーとしての経験は無いそうだが、試合は見るのでルールなら理解しているということだった。中川、マネージャーの仕事を教えてやってくれ」
「は、はい」
柚葉が慌てて返事をした。初穂が愛想の良い笑みを向けている。
無意識のうちに柚葉の視線が成へと移っていた。成は初穂をまっすぐに見つめている。見とれているのだろうか。やはり柚葉にとっては気に入らない。
柚葉が見ていると、成の表情がわずかに驚いたものに変わった。初穂の方も成を見て、2人の目が合っていた。
「小桜先輩、ですよね?」
初穂が言った。
「そうだけど」
「私、小桜先輩のピッチングに感動して、それで野球部に入ろうと思ったんです! 夏も応援してますから!」
「あ、ありがとう」
大きな瞳を輝かせる初穂に成はたじろいでいた。それを見ていた柚葉は自分の身体が震えるのを感じていた。
初穂はなかなかに要領が良く、柚葉が教えた仕事をしっかりとこなしてみせた。マネージャーを始めたばかりの頃の自分と比べたらずっと優秀ということは柚葉も認めざるをえなかった。
だからと言って手放しに褒めるわけにもいかなかった。初穂と柚葉はこんな会話を交わした。
「中川先輩ってよく小桜先輩のこと見てますね」
「えっ、そうかな」
思わず身体を震わせた柚葉に、初穂が単刀直入に切り込む。
「好きなんですか?」
「いや、そんなこと無いよ。ただの幼馴染。うん」
慌てた柚葉の声を聴いた初穂は、朗らかな声で言った。
「そうなんですか。なら安心しました。私、小桜先輩のことが好きですから」
何も言えずにいる柚葉に向け、初穂が勝ち誇ったように笑う。
「中川先輩も応援してくださいよ。それと、マネージャーの仕事も色々教えてくださいね」
そんな初穂は隙を見ては成の元へ足を運んだ。練習を邪魔するようなことはしないものの、合間を縫っては成と上手に言葉を交わしている。その時の成が満更でもなさそうなのが、柚葉をさらに苛立たせた。
「宮川さんのこと、何か知ってる?」
柚葉は休憩時間に1年生の川崎をつかまえて訊いた。
殆ど睨むような視線を向けられ、川崎はすっかり萎縮していた。
「まあ、1年生の間じゃ有名ですよ。すごく可愛い子がいるって」
「他には?」
柚葉は瞬きもそこそこに川崎を射抜こうとせんばかりの視線を向けている。川崎にしてみれば蛇に睨まれた蛙の気分だ。
彼は肩をすくめ、小声で言った。
「中学の時に色んな人と付き合ってたらしいとは聞いたことがあります。人気の男子とは大体付き合ってたとか。高校に入ってからはなぜか誰とも付き合ってないらしいですけど」
「何それ。節操無いの?」
「今まで接点無かったし、あくまで噂ですよ。実際にどんな子か、僕は知りませんからね」
「そっか。ありがとう」
柚葉から解放され、川崎は溜息をついた。初穂は可愛いし、そうでなくてもマネージャーが入ってくれるのは嬉しいことだ。しかし、柚葉を刺激するのは困りものだと思った。柚葉が成のことを好きだなんて、彼女を知る者ならば誰もが知っている。そうでないのは成本人くらいだろう。
その成にしても、本当は好意に気づいて放置しているのではないかというのが川崎の予想だった。柚葉がいつから成のことを好いているのか知る由は無いが、そういう状態がしばらく続いているのかもしれない。その柚葉を下手に刺激したらどんなことが起こるかわからない。夏の大会が近づく中、成の周囲で余計なトラブルが起こらないよう川崎は祈った。
誠報学院野球部のグラウンドにはナイター用の照明設備がある。大会が近づくと、それを使って遅い時間まで練習を行うようになるのだ。この日も練習が終わる頃には空に無数の星が輝いていた。
「先輩って家はどちらにあるんですか?」
にこやかな表情を携えた初穂が成に訊いた。
「なんて言えばいいかな。図書館はわかる? あの近くなんだけど」
「図書館ならわかりますよ! 途中まで一緒です! 一緒に帰りませんか?」
成が肩を落とした。
「ごめん、今日はもう少し練習してから帰るつもりなんだ。もう遅い時間だし、初穂ちゃんは先に帰った方がいい。一緒に帰るのはまた今度だな」
「そうですか……」
初穂は飼い主に置き去りにされた子犬のような表情を見せたが、次の瞬間には屈託の無い笑顔に戻っていた。
「じゃあ今日は帰ります。練習頑張ってくださいね。でも無理はダメですよ! 一緒に帰るのも約束ですからね!」
成は思わず初穂から目を逸らした。わずかに頬が紅潮している。
「ありがとう。気を付けて帰れよ」
「はい! また明日!」
成は初穂が自分に手を振りながら去っていくのを見送った。
それから成が練習を終えたのは日付が変わるまで1時間半を切ろうかという頃だった。自転車置き場へ向かった成は、そこにいた人物を見て驚いた。
「まだ帰ってなかったのか」
そこにいた少女――柚葉が小さく頷いた。
「お前な、こんな時間まで帰らなかったら家の人も心配するだろ」
「成の練習を手伝って一緒に帰るって伝えてるから大丈夫だよ。うちの人は成を信頼してるから」
「じゃあ練習手伝えよ……」
成は溜息をついた。
「まあいいや。さっさと帰ろう。早くチャリ取ってこいよ」
「私、今日は歩きだよ」
成は舌打ちしそうになったのを寸前でこらえた。早く帰って寝たかっただけに柚葉の行動は殆ど嫌がらせだったが、それで自分の感情を出してしまえば面倒なことになると思った。
成は自転車のカゴに柚葉の荷物を入れ、彼女の歩調に合わせてゆっくりと自転車を押す。
不意に柚葉が口を開いた。
「宮川さん、可愛かったね」
「そうだな」
「成、懐かれてたじゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
成は柚葉の内心を測りかねている。朝のことがあって、それからどういう風の吹き回しでこんな夜遅くまで自分を待っていたのだろう。次に彼女が何を言い出すのか、成にしてみれば数多の猛獣が潜む森の中で藪をつつくような気分だった。
「可愛い子に好かれて、みんな羨ましがってるよ」
「そうでもないだろ」
成の口元に自嘲気味の笑みが顔を出す。
「由とか類とか、うちの部には可愛い彼女持ちがいっぱいいる。俺とは違って」
2人は暗い夜道を進んでいく。
柚葉が街灯に照らされた成の表情を見つめた。色々あったけど、成は野球に尽くす形で高校生活を過ごしている。それで色恋に目を向けずにいたことが成の心に何をもたらすのか、柚葉にはわからなかった。恋愛に限らず、野球を介することなく心から信頼できる人と出会えたかも定かではない。自分がそうだったらいいとは思っているのだけど。
そういう高校生活を過ごしてきて、もしも最後の夏に吉岡に勝てなかったら? 成は世間的に青春の代名詞とされる高校の3年間をどう受け止めるのだろう。
「彼女が欲しいならもっと自分から女の子に歩み寄らなきゃ」
「そういうもん……なんだろうな」
成は小さく溜息をついた。
「成が女の子を苦手にしてるのって、やっぱり晴ちゃんの影響なの?」
「たぶんそう……いや、杏月も初穂ちゃんも普通に会話できるし、そこまで苦手じゃない気もするけどな。まあ、自分から歩み寄ってないのは確かだし、バカ姉さんの影響かもしれないな」
成は小学生の時に告白してきたクラスメートを振ったことがある。彼の異性への意識は、その頃から根本的に変わっていない。自分から避けているのだから、女の子の方から踏み込んでくれることもない。変わりようがない。
柚葉にとって成との距離が変わらないのも同様だった。あらゆる意味で意識されることのない幼馴染。柚葉の胸が小針でつつかれたかのように痛む。
「バカ姉さんって。晴ちゃんはいい人だと思うよ」
「外ヅラがいいだけだ」
変わらないだけならまだ良かったかもしれないと、柚葉は思った。誰も踏み込んでこなかった成の領域に初穂が入り込もうとしている。彼女には兄にくっついていく妹のような可愛らしさがある。成がああいう子と接するのは初めてのはずだ。恋愛経験を持たない成はアプローチに対して容易に陥落してしまうような気がする。柚葉は腹の中で焦燥感がうごめくのを感じた。
「あいつはどうしようもないんだよ。朝も言ったけど、お前のゲームのデータを消したのだって」
「成はさ」
柚葉は成の話を遮った。初穂を妹のようだと考えたことで疑問が沸いてきた。姉がいると妹系を好きになりやすくなる傾向があるのだろうか。
「こういう女の子が好き、みたいなのはあるの?」
人の話も聞かずに何を言い出すのかと思いつつも、成はそれに答えることにした。今は柚葉を満足させることを優先した方がいい。
「そうだな……」
成は無意識のうちに空を見上げていた。夜空は墨汁でもこぼしたのかと思うほどの黒さだったが、よく見るとまばらな星が淡く輝いている。
独り言のような声が響いた。
「優しくて透明感があって、でもしっかりと芯を持っていて」
そこで声が止まった。意識が無意識を飲み込み、己の無意識を理解できなくなる。
「って、何を言ってるのか自分でもわからなくなってきたな」
成は弱々しく笑った。柚葉は俯いている。
「それってさ」
柚葉は口をもごもごと動かすが、言葉が続かない。
「何?」
「ううん。何でもない」
首を振ってそう告げた。
それって杏月じゃん。柚葉を内側から殴りつけるように浮かんできた言葉は、口に出すことができなかった。
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