クロスファイア 前編

 春の大会も終わり、誠報学院の野球グラウンドでは夏の大会に向けた練習が行われている。3年生にとっては夏の大会が最後の公式戦だけに、練習にかける熱量もこれまで以上のものとなっていた。

 ブルペンでは成が由を座らせてピッチング練習を行っている。それ自体はいつも通りのことだが、この日は右打席の位置にバットを持ってヘルメットを被った柚葉が立っていた。実際に打者がいる状況を想定した練習を行いたいと言われ、その手伝いをしているのだ。

「打席で見ると成の球って速いね……」

 柚葉がつぶやいた。130キロ前後の硬球が自分のいる方に向かってくるのは単純に恐怖を感じる。そのボールにバットを当ててくるのだから、各チームのバッターたちには敬意を払いたくなってくる。

「そろそろアレやるか」

「了解!」

 成が何球か投げた後でバッテリーがそんな風に声を交わした。柚葉が由に尋ねる。

「アレって何? 打席にバッターがいる状態で試したいことがあるって言ってたけど」

「そういや言ってなかったか。アレというのはな、クロスファイアだよ」

 柚葉は自分の脳内から情報を検索した。

「えっと……対角線のコースに投げるストレート、だっけ」

「そうそう。よく知ってたな」

 由は意外だと言いたげだった。柚葉が胸を張る。

「これでも野球部歴は長いからね」

「さすがですな」

 由は大袈裟に言って、それから練習中の秘密兵器について解説を始めた。

「成は左投げだから、右バッターの内角を抉るような軌道になる。シロ農の吉岡とか、右の強打者対策のためにずっと練習してたんだ。成は左相手なら外に逃げるスライダーを使えるけど、右相手だとなかなか決め球が無いのが課題だったから」

「そうなんだ。右の強打者って、あの時は使わなかったの? 何だっけ……特盛くん?」

「おおもり君だろ。英星の大森だな」

 打ち込まれた記憶を思い出し、由の表情が渋いものになる。

「まだ実戦じゃ使ってない。クロスファイアは未完成だからな。ようやく打者を想定した練習で仕上げってところだ」

「難しいボールなんだね」

 そりゃもちろん。由はそう言いたげにやや早口でまくしたてた。

「内角はリスクが大きいから、成のコントロールがすごく大事なんだ。吉岡みたいな強打者相手を想定してるんだから尚更な。それに、対角線上に勢いのある球を投げると、捕球した時にミットがボールの勢いに流されやすい。そうなったらせっかく決まってもストライクを取ってもらえなくなっちゃうし、俺のキャッチングも大事なんだ。つまり、バッテリーがどちらも力を発揮して初めて完成するボールってわけだな」

「おい」

 しびれを切らした成が声を上げた。

「いつまで話してるんだ。早く投げさせろ」

「すまんすまん」

 由が内角いっぱいのコースにミットを構える。成もセットポジションに入った。

「クロスファイア……」

 バットを構えた柚葉が何気なくつぶやいた。

「って、右打者の内角を抉るって……」

 既に成は右脚を上げて投球モーションに入っていた。左手で握ったボールでグラブを叩き、流れるようなフォームでストレートが投じられた。

「きゃあああ!」

 速球が柚葉の身体のすぐ近くを横切っていった。後方から破裂するような捕球音が聞こえる。柚葉はすっかり腰を抜かし、尻餅をついていた。

「どうした。女子みたいな声を出して」

 成は顔がにやけるのをこらえつつ、柚葉を見下ろしていた。

「女子だよ! その女子に向かって投げる球じゃないでしょ今の!」

 柚葉が不満を込めて叫んだ。由が柚葉を助け起こしてなだめる。

「まあまあ。すごく怖いと思うけど、バッターの腰を引かせるためのボールだから。ずっと練習してたし、成も柚葉にぶつけるようなことはしないさ」

「本当?」

 柚葉は怪訝そうに由を見た。由は曖昧に笑うばかりである。

 成が呆れ顔で声を上げる。

「柚葉、早く構えてくれよ。1球だけじゃ練習にならないだろ」

「もう少し私に遠慮してよ……」

 それでも柚葉は言われた通りにバットを構えた。クロスファイアの効果は抜群で、すっかり腰が引けている。

 由がミットを構え、成が投球モーションに入った。

 しかし、次に投じられたのはストレートではなかった。由は驚いてそのボールの軌道を目で追った。山なりのふわりとしたカーブである。それが向かう先は由のミットでなく、柚葉の身体だった。

「きゃっ」

 柚葉はその場で身体をひねるだけで一歩も動かなかった。それでは避けられるはずもなく、カーブが柚葉の尻に直撃した。

「あれま。悪かったな。それなら避けられると思ったんだが……」

 成は試合で死球を与えたときのように帽子を取っていたが、表情や口調からは申し訳なさがあまり感じられなかった。口元をにやけさせたまま、ゆっくりとした足取りで柚葉の近くへ歩み寄る。

「それにしても本当に女子みたいな声だったな」

 柚葉が成を睨みつけた。次の展開が予想できた由は2人から顔を背けていた。

「成の馬鹿! もう知らない!」

 柚葉は大股歩きでブルペンから去っていった。

 しばらくその背中を見つめてから、成が口を開いた。

「さすがにやりすぎたか」

「当たり前だ」

 由が成の頭をはたいた。




 翌朝、成が3年A組の教室に入ると、彼の隣の席には柚葉が座っていた。クロスファイアの練習以降、成は柚葉と会話できずにいた。多少は時間が必要だったとして、彼はそろそろ謝っておきたいと思っていた。

 自分の席に座り、頬杖をつく柚葉の横顔を見た。

「柚葉、昨日は悪かったな」

「別にいいよ」

 柚葉は成の顔を見ることもないままに言った。

「というか、成は悪いなんて思ってないでしょ」

「そんなこと無いって」

「あるでしょ。成は私のことなんかどうでもいいんだもん」

 成が溜息をつく。

「良くも悪くもどうでもいいってことは無いだろ。家族以外で柚葉より付き合いの長い人もいないんだし」

 柚葉が成の顔を見た。しかし、その瞳からは猜疑心がはっきりと見て取れた。

「成さ、炭酸のジュースを思い切り振ってから渡してきたことあったよね」

「中学生の時か?」

「そうだよ。昔から私のことなんか気にしてないからそういうことするんだよ」

「悪かったとは思うけど、ちょっとしたいたずらだろ。なんでそんなに卑屈になるんだ」

「だって、杏月が相手だったら絶対にそういうことしないじゃん。むしろ杏月が買ったばかりの炭酸を落とした時に新しいのを買って交換してあげてたじゃん」

「そんなこともあったけどよく覚えてんな……」

 成は呆れ顔である。

「それにさ、前に成が小説を貸してくれたことあったよね。推理小説。犯人の名前に全部マーカーを引いてたね」

「ああ……」

「私の家に遊びに来た時、冷蔵庫に置いてた私のプリン勝手に食べたよね」

「食べたけど、10年くらい前だろそれ……」

「ゲームを貸したら私のセーブデータに上書きしてたよね」

「それは俺じゃなくて晴……」

「いつも成は私にひどいことばかりして、人の気も知らないで……」

 恨めしげに言う柚葉の瞳は潤んでいた。成はたじろぐのみで言葉を発せない。

 柚葉が勢いよく立ち上がった。

「成のバーカ! 成のことなんか大嫌い!」

 柚葉はそのまま教室の出入り口へ向かって歩きだす。

「待てって」

 成が声をあげた。

「もうすぐホームルーム始まるぞ」

「それまでには戻るよ!」

 柚葉はそのまま教室から出ていった。教室内の視線が一斉に成へと向けられた。




 教室を出た柚葉は、玄関へ続く廊下を歩いていた。ホームルームまで5分程度しかない。行くあてもないままに、ただ何となく歩いているだけの状態である。

 どうして成はいつもああなのだろう。そう思うと同時に、どうして自分はいつもこうなのだろうとも思えてきた。今朝に関しては成は何も悪いことをしていない。言われてみれば頑張って進めていたゲームのデータを消したのも成ではなく晴だ。

 昨日に関しては成が悪いが、自分も怒りすぎたかなとは思わなくもなかった。これまでも時折こういうことがあった。成の中で自分が幼馴染以上ではないことを感じて寂しさが強くなると、自分が思う以上の不満をぶつけてしまうのだ。

 廊下を歩いていて、遅刻ギリギリで登校してくる生徒たちとすれ違った。その中にひとりの女子生徒がいた。柚葉が思わず振り返ったのは、その女子生徒が紛れもない美少女だったからである。

 色白の肌に柔らかそうな頬。艶のある髪は明るい茶色のボブヘアになっていたが、染髪禁止の校則を考えると髪色は地毛なのだろう。そして小柄な体躯と大きな瞳があどけなさを感じさせる。柚葉はその少女をじっくり見たわけではなかったのに、その姿が強く印象に残った。放っておくとどこかに消えてしまいそうな儚さが漂う杏月とは方向性が違うが、負けないくらいに人の目を引きつける魅力を持った少女だと思った。

 仮に、という思考が柚葉の脳裏をよぎる。仮に、ああいう容姿を持っていたら成は自分を単なる幼馴染とは違う存在として意識するのだろうか?

 ふと周囲を見ると、目に映る自分以外の女子生徒たちが、さっきの少女ほどではないにしろとても可愛らしいものに感じられた。少なくとも自分よりは立派な容姿をしているのではないかと思えてくる。考えてみると柚葉はファッションだとかコスメティックだとか、そういうことに関する知識もあまり持ち合わせていなかった。周囲にはそういうことで躍起になる同世代の同性がたくさんいるのに。

 一度くらいは成から可愛いとかそういう感じのことを言われてみたい。でも、彼からの扱いが理想と違ってしまうのは無理のない話かもしれないとも思ってしまう。自分にすら呆れられているようで、柚葉は肩を落とした。

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