成VSおおもり君
一冬でストレートの最速が7キロ上がった。大きな進歩である。成長した自分はより高いレベルの打線にどこまで通用するのか。それを試したいと成が思うのは自然な成り行きだった。
そして、それにお誂え向きの機会があった。4月末に他県の強豪校である
英星学園はこの年の春まで3季連続で甲子園に出場しており、プロ注目の選手も擁していた。1年生の秋から4番を張り続ける一塁手の大森
試合は英星学園のグラウンドで行われることになっていた。誠報学院の面々は上級生がマイクロバスに乗り、乗りきれなかった下級生はチャーターしたバスに乗って移動する。
「絶対にあっちの方が乗り心地いいよなあ」
由の言葉に、隣に座る成も頷いた。
「監督が運転をミスって死なないことを祈るしかないな」
「おい小桜、何か言ったか?」
「なんでもないっす」
マイクロバスの中が部員たちの笑いで包まれた。
成の前の席に座る柚葉が振り向いた。
「成、あんまり緊張してなさそうだね。いつものことだけど」
「緊張してる時に緊張してますって雰囲気を出してもいいことないだろ」
「確かに」
「というかお前」
成は柚葉の顔をじっと見つめた。
「なんか試合前から疲れたような顔してるな」
「そうかな?」
柚葉は首をかしげたが、由も成に同意した。
「実際に柚葉も大変だろ。部員は増えたけど、マネージャーは入ってこなかったから仕事が一気に増えてる」
「こいつマネージャーの仕事なんかしてたか?」
「してるよ」
柚葉が目一杯の不満を込めた視線を成に向けた。成は笑う。
「悪い。冗談だって。まあマネージャーが1人なのは大変だよな」
「いないものはいないから仕方ないとは思ってるけどね」
「1人くらい入ってくるかと思ってたんだけどな。新学期が始まってすぐの頃、よく練習を見に来てる女の子がいたし」
「え、マジ?」
思わず由が訊き返した。成が頷く。
「ああ。たぶん1年生なんだろうけど、すげー可愛い女の子が練習を見てた」
「マジかー。見たかったな」
「損したな。本当に可愛かったのに」
柚葉は頬を小さく膨らませた。
「入ってこなくて残念でしたね」
由がにやついた表情で成の脇腹を小突いた。成は肩をすくめた。
マイクロバスの中で話題が途切れると、やはり成はイヤホンで音楽を聴き始めた。いつもと同じ歌手の曲を聴いているうちに自分の気分が高揚するのを感じた。吉岡に勝つために練習を続けてきた。手始めに「おおもり君」も抑えてやろうと思った。
目的のグラウンドに到着し、ウォーミングアップやグラウンド整備といった準備が終わると試合が始まる。
1回表。成は高揚感を維持したままマウンドへ上がった。そして英星学園の上位打線を3人で封じた。
12球を投じ、うち9球がストレート。甲子園を経験したチームを相手に、積極的にストレートを投じて抑えてみせたわけである。
成は3つ目のアウトを取ってマウンドから降りるとき、英星学園側のネクストバッターズサークルからベンチへ戻っていく大森を見た。自分も誠報学院のベンチへ戻り、自分の帽子のつばを見た。柚葉が書いた「不屈の精神」という文字がある。大森を抑えたいという気持ちが強くなった。
1回裏、誠報学院の攻撃も3人で終わった。2回表、英星学園の先頭打者として大森が右打席に入る。
成は初球と2球目にストレートを続けた。大森はいずれも見逃し、カウントは1ボール1ストライクになった。
3球目も外角にストレートを投じた。大森はこれにも手を出さなかった。球審がストライクを宣告する。
これで2ストライク。成が大森を追い込んだことになる。しかし、投球を受けるキャッチャーの由は、大森が3球目を見逃した後に小さく頷いているのが気になった。
4球目にバッテリーが選択したのは内角低めへのスライダーだった。ストライクからボールになる軌道で空振りを誘う狙いである。
コントロールミスがあった。由が構えたミットの位置よりも真ん中寄りにスライダーが入ってきたのだ。ボールは内角の長打にしやすいコースへ曲がっていく。
とはいえ、それを抜きにしても大森の打球は見る者に衝撃を与えるに十分なものだった。彼のこの日最初のスイングがスライダーを巻き込むようにして捉えた。甲高い金属音が響く。力強いフォロースルーと共に打球が上空に舞い上がり、あっという間にレフト後方のフェンスの向こう側へ消えていった。英星学園に先制点をもたらすソロホームランである。
成はマウンドに呆然と立ちつくした。本塁打を浴びたのは去年の夏の大会で吉岡に打たれて以来のことだった。
ダイヤモンドを一周しホームベースを踏んだ大森を、由が睨むように見た。
大森はストレートのタイミングでスイングをしていた。3球目の後に頷いたのはストレートのタイミングを掴んだことを示していたのだ。そして、ストレートを待ちながら失投気味とはいえスライダーを捉えた。それはつまり、成のストレートが大森にとって脅威にはならなかったということである。以前よりストレートの威力は増しているし、この試合でも常時135キロ近い球速は出ているだろう。それでも、全国レベルの打者はそれを待ちながら変化球を打てる程の余裕を持っているのだ。
さらに言えば、この日の成の投球は持ち味を欠いたものだった。4回に迎えた大森の第2打席でそれが顕著に表れる。
初球はカーブでストライク。2球目は外角にストレートを投じた。これが外れてカウントは1ボール1ストライク。
3球目に投じたのは「落ちないチェンジアップ」である。外角のストライクゾーンへ投じ、タイミングを崩すことが目的だった。
しかし大森は簡単に対応した。打球を左中間へ運ばれ、ツーベースヒット。
6回に第3打席を迎えた大森が四球を選んだ時、成は既に5失点を喫していた。
英星学園は成の投球に対応していた。それが容易だったのは、この日の成が変化球を投げる時に腕の振りを緩ませてしまっていたからだ。
強いストレートを投げようとしすぎていた。気持ちが前のめりになって、淡々と投げ込んでいくいつものフォームを乱した。ストレートの威力が多少上がっても、この日の成に普段の打ちづらさはなかった。
結局、成はこの試合で9イニングを投げ切ったが、チームは0-6というスコアで敗れてしまった。
英星学園戦が終わってからの成はずっと何かを考えている様子で、誰かに話しかけられてもぼんやりとした返事しかよこさなかった。帰りのマイクロバスの中でもさっさとイヤホンを耳に入れ、音楽を聴きながらうつろな目で窓の外の景色を眺めるばかりだった。
マイクロバスが誠報学院に到着して部員たちが解散となると、成はすぐ自転車に乗って家へ帰っていってしまった。
その様子を心配そうに見ていた柚葉は、帰宅するなり成へ電話をかけた。
「もしもし。どうした?」
成の声は柚葉が予想していたよりは明るかった。
「今頃成は落ち込んでるかなって」
「まあもう少しは抑えられると思ってたからな」
柚葉は何を言うべきか迷った。先に口を開いたのは成だった。
「お前、もしかしてあれか。また俺がやる気を失くしてやめるんじゃないかと思ってるだろ」
柚葉は思わず首を横に振った。
「さすがにそこまでは思わないけど……。でも頑張って練習してきたのに全国レベルのチームに打たれるのはショックだろうなって」
「そりゃ……まあ、才能が違うんだろうとは思ったな。吉岡とかおおもり君とか、ああいう次元の奴らがプロに入るんだなって」
柚葉の胸が痛む。そういう風に言わなくても良いと思った。
「だから」
成が言った。
「俺のやり方で勝負しようと思った。才能で負けてるのはどうしようもない。だったら正面からぶつからなければいい。馬鹿みたく力んでストレートを投げるんじゃなく、タイミングを外してストレートを生かす。自分の力を最大に発揮できる形で勝負しないとな」
「……意外と前向きだね」
柚葉は驚いていた。試合後の様子を見れば、成が立ち直るのはもう少し時間がかかると思っていたからだ。切り替えられているのならそれはそれで良いのだけど。
「前を向くしかないからな。今までの俺だったらどうしていいかわからなくなったかもしれないけど、それじゃ杏月に合わせる顔がないから」
「そうだね」
「俺なりに吉岡に勝てるようやっていくよ。昔はストレートで押すピッチングに憧れたし、140キロ出した時にそれができるかもしれないと思ったけど」
成が笑った。
彼の言葉を聞いた柚葉は脳裏に浮かんだことを伝えようかどうか迷った。迷って、結局それを言うことにした。
「あのさ、未練があるなら直球勝負でいいと思うよ。ほら、かわすピッチングだから絶対に勝てるわけじゃないじゃん。ピッチングは運なんでしょ?」
沈黙が訪れた。成が次の言葉を考えている。柚葉はそれを待った。
成はおもむろに声を発した。
「ピッチングが運なのは、最善の選択をしても結果が付いてくるとは限らないからなんだよ。最善を尽くせば割り切れるけど、そうじゃなきゃ後悔する。何より、俺はストレートで押すピッチングへの未練がもう無い。気を遣ってくれたんだろうけど、お前らしくもないことしなくていいんだよ」
柚葉は完全に納得したわけではなかったが、成の言葉が本心からのものであると信じることにした。
「私らしいじゃん。いつも優しいんだから」
「そういうことにしておく」
「何それ。思ったより元気そうだからまあいいけど」
「おかげさまでな」
成は冗談っぽく言って笑った。それから今度は真剣な声で言う。
「これからはたぶん、柚葉が見ても満足するピッチングができると思う」
「どういうこと?」
「今日の試合でちゃんと収穫もあったってこと」
柚葉は釈然としないながらも、もっと詳しく訊こうとは思わなかった。成がいいピッチングをすると言うのだから、それを見る方が早いだろう。
それに、成が言う収穫についてもわかる気がした。
英星学園との試合で成は6失点を喫した。しかし、7回からの3イニングは無失点に抑えていたのである。彼は途中からストレートで押すピッチングをやめ、元のスタイルで勝負しようとしていた。
8回には大森との最後の対決を迎えた。成はストレートと落ちないチェンジアップの2球種でカウントを作った。完全に同じ腕の振りで違う速度のボールを投じられれば、さすがの大森にも迷いが生じる。
2ボール2ストライクというカウントで迎えた6球目、成はスライダーで空振り三振を奪った。大森を抑え、自分のスタイルに手応えを得た瞬間である。
「あのバカ姉さんがスピードガンなんかよこさなければ、下手に調子に乗らなくて済んだかもしれないのにな」
成がぼやいた。
柚葉はくすくすと笑う。
「まあまあ。晴ちゃんのおかげでストレートについて考えることができたんだよ。じゃなきゃどうすればいいかもっと迷っちゃったかもしれないじゃん」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
成と柚葉は共に笑っていた。
進化したストレートでそのまま勝負するのではなく、それを最大限に生かすピッチングをする。成が見つけたこれからの戦いに向けた道標だった。彼は吉岡や大森ほど速くなくとも、確実に前進している。
やっぱり「落ちないチェンジアップ」が一番自分らしいボールだと成は思った。
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