4章:3年春
スピードガン
3月に入って1週間が過ぎると、12月以降禁止となっていた高校野球の対外試合が解禁される。誠報学院も春や夏の公式戦を意識し、多くの練習試合をこなした。
冬の間も精力的に練習を続けてきた誠報学院の戦績は優秀なものだった。何と言っても、エースの成が好調を維持していたのが大きい。
走り込みを続け、食事の量も増やした。その甲斐あって秋よりも下半身が大きくなった。土台が安定するようになったことで、それまでよりもコントロールが良くなり、ストレートの威力も増した。
対外試合解禁から最初の1ヶ月、成個人もチーム全体も好調なスタートを切った。やがて4月になり、成たちは進級した。新入生も入ってきた。その中には野球部に入部してくる者もいる。
チーム内には密かな期待が漂っていた。昨年の夏、チームは県大会でベスト4まで勝ち進んだ。甲子園も夢ではないと言える成績である。それを見て即戦力の実力を持った新入生がやってくるのではないかという期待だった。
実際に昨年の快進撃を見て誠報学院を選んだという新入生は多く、野球部には例年より多くの部員が加わった。しかし、すぐにレギュラーというほどの選手はいなかった。それだけ上級生たちの実力が向上していたということでもある。
入部してきた1年生の中に川崎真之介というピッチャーがいた。彼は朝早くにグラウンドへ来て、ランニングすることを日課にしている。成が毎朝そうしているのを見て、一緒に練習することを申し出たのである。
そうして共に走るようになって何日が経ったある日、2人はこんな会話を交わした。
「川崎って中学は軟式だよな。硬式球には慣れてきたか?」
「はい。中学で引退した後は硬式でキャッチボールとかやってましたから」
成は小さく何度か頷いた。
「なら良かった。たぶん春は川崎にも出番があるからな」
「え? それってどういう……」
「シロ農の吉岡は知ってるだろ?」
川崎が首肯した。
「それはもちろん」
「俺の目標はその吉岡に投げ勝つことなんだ。そのためには万全の状態でシロ農に挑みたい。負ければ引退の夏はともかく、春は無理をしたくない」
成は故障に対して最大限の警戒をしていた。怪我をしてしまうことで調子を崩すことは何としても避けたかった。それくらい、現状の成は好調を維持していた。
そんな成の元にあるプレゼントが送られてきたのは、川崎との会話から数日後のことである。
「スピードガン?」
成が所属する3年A組の教室。相変わらず彼と同じクラスで、しかも席まで隣の柚葉がそのプレゼントを興味深そうに眺めている。
「実物を触るのは初めてだよ。晴ちゃん、わざわざ買って送ってきてくれたんだ」
「ああ。どうせならもっとマシなものを送ってほしかったけどな」
成はスピードガンと共に送られてきた手紙に目を通した。
≪親愛なる弟 成へ
進級おめでとう。高校最後の1年が成にとって実り多きものになるよう私も祈っています。
冬休みも春休みも頑張って野球の練習をしていたから、きっと心配する必要は無いだろうけどね。身体も大きくなっていて驚きました。夏休みの時は元気が無さそうで心配したけど、今の成の心が活気で満ちているなら、この1年――特に野球部での経験は成に宝物をくれるでしょう。
そして、私からも頑張っている成へのプレゼントを送ります。少しでも成の役に立てば嬉しいな。
今年のゴールデンウィークはちょっと帰れない(ごめんね)と思うので、次に帰るのは夏休みになると思います。お姉ちゃんは寂しいです。前に帰った時は成が野球を頑張っていたから構ってもらえなかったし。でも、次に会った時に成の前向きな表情が見られるのを楽しみにしています。私も頑張るからね。
それではくれぐれも身体に気を付けて。お姉ちゃんが恋しくなったらいつでも連絡してきていいからね。
あなたの愛する姉 晴より≫
何が愛する姉だ。成は心の中で吐き捨てた。
「晴ちゃん、いいお姉ちゃんじゃん。このスピードガンもすごくいいやつっぽいし」
「野球に使うならもっと他のものがあるだろ。トレーニングに使えるならいいけど、球速なんか測ってどうするんだよ」
「じゃあどうするの、これ」
成はスピードガンを見つめた。
「使うよ。せっかくもらったんだから」
溜息をついた成を見て、柚葉は笑った。
成は誠報学院の野球グラウンドに設置されたブルペンで、立ってキャッチャーミットを構える由へ軽い力でストレートを何球か投じた。
「うん、大丈夫。温まってきた」
「じゃあ測るよ」
防球ネットを挟んで由の後ろに立つ柚葉が言った。その手には晴から送られてきたスピードガンが握られている。
立っていた由が腰を下ろした。
成は胸の前でボールをグラブにセットし、投球モーションに入った。ゆっくり右脚を上げ、そこから両手を叩き合わせてテークバックに入っていく。
軸となる左脚を折り、伸ばした右脚を前に踏み出して体重移動。右脚が着地した時、右腕が由に向かってまっすぐ伸びている。ボールを握る左手は頭の後ろに来ていて、弓を引くような格好になる。
右腕をたたみ、ホームベース側に向けて身体を捻っていく。その勢いを利用し、左腕がスリークォーターの角度で鋭く振り降ろされる。
成の手を離れた白球が由のミットへ吸い込まれていく。弾けるような、気持ちの良い捕球音が鳴った。
「何キロ?」
由が首を捻って振り返り訊いた。
「134キロ」
柚葉はスピードガンに表示された数値を読み上げた。
「おい成、134キロだってよ! いきなり最速を更新したぞ! しかもこの時期に!」
興奮した由の声に成は小さく頷いた。表情は大きく変化していない。しかし、その口角は僅かに吊り上がっていた。
それから成は何球か投じた。柚葉はそれをすべて計測する。殆どが130キロ台前半の球速だった。
成は大きく息を吐いた。
「もっと力を入れて投げてもいいか?」
「オッケー!」
由が叫んだのに頷き、成は次の一球を投じた。そのフォームにはいつも以上の力感が込められている。
渾身のストレートを受け、由のミットが破裂したかと思うほどの音を立てた。
「すごい」
その球速を見た柚葉が思わずつぶやいた。
「何キロだ?」
「137キロ」
その数字をそのまま読み上げた。キャッチャーマスクの奥で由の顔が一気に明るくなった。
「すげえぞ成! 137キロ!」
成は照れたように笑った。
「試合じゃここまで力を入れて投げないけどな」
「でもこれからもっと温かくなれば、普通に投げても球速が出るようになるだろ。冬で一気に成長したんだよ」
成は拳でグラブを軽く叩いた。
「たぶん、今ももう少し出せると思う。もうちょっと投げさせてくれ」
「ああ、そうしよう! 柚葉、しっかり測ってくれよ!」
バッテリーは投球練習を再開した。
それを見守る柚葉は高揚感を覚えている。由が言った通り、成は一冬を越えて大きく成長した。かつての成はシロ農の吉岡が叩き出す150キロ以上の球速を見てああはなれないと言った。それでも、成だって球速を伸ばしている。
力を入れた成のボールはこれまでの自己最速である133キロより速いスピードを出し続けた。134キロ、135キロ、134キロ、136キロ、135キロ、そして138キロも出た。
「すげえ! 成、140キロも見えてきたんじゃないか!」
「さっきはリリースの時の感覚も良かった。もうちょっと投げてみる」
次に投じたストレートの球速は136キロだった。成はさらにもう一球を投げ込んだ。
「あ……」
柚葉が目を丸くした。
「おい柚葉、今の何キロだ? 結構良かったんじゃないか?」
成が声を上げた。自分が理想とする感覚で放れたという手応えがあった。
柚葉がスピードガンの表示を読み上げた。
「140キロ……」
つぶやくような声は成に届かなかったが、由が反応した。
「マジ!? 今140キロって言ったか!?」
「う、うん」
「おい成! お前、本当にすげえよ! マジで140キロだ!」
成は苦笑いした。
「本当に出たのか」
柚葉が成の元へ駆け寄った。スピードガンの計測履歴を見せると、確かに直前の計測結果は140キロとなっていた。
「本当に140キロだよ。すごいじゃん、成」
「ありがとう。まあ、試合じゃこんなに力を入れないんだけどな」
「そうだったとしても、前だったら全力でも140キロは出なかったと思うよ。成が頑張ってきた成果だよ」
「そりゃどうも」
成は冷静を装うべく努めていたが、口元がにやけそうになるのを必死に抑えている状態で、嬉しさを隠せていなかった。
かつての成はプロ野球選手に憧れていた。それでどういう選手がプロに入るのか見てみると、プロ野球チームが注目しているというピッチャーの殆どはストレートの最速が140キロを超えていた。彼にとって140キロは特別な存在たちとの間に引かれた一種の境界線だった。
成は自分の鼓動が高まるのを感じた。身体が内側から熱を帯びていく。野球をやっていてこんな感覚を味わうのは随分と久しぶりだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます