チョコレート革命 後編
2月8日の放課後。柚葉は誠報学院の図書室で杏月が来るのを待っていた。
由との電話の後も柚葉は考え続けた。そして結局、杏月を説得して野球部に戻ってきてもらうのが良いと思った。由が言ったように、彼女が復帰したところで成の後悔は消えないだろう。それでも、成のために自分ができる一番のことはこれだと思ったし、それ以上のことをできるのは杏月しかいないとも思った。
この時期の図書室は他の季節に来た場合とは違った緊張感がある。誠報学院は特に進学校というわけでもなく進路を早々に決めてしまう生徒が多いが、中には国立大学の一般入試を受けようという者もいる。そういう3年生たちが図書室で最後の最後まで学力の向上に励んでいるのだ。
その姿をぼんやり眺めていた柚葉は、背後からかけられた声で我に返った。
「ごめんね。待った?」
「ううん。待ってないよ」
杏月が机を挟んで柚葉の正面まで回り込み、椅子に腰かけた。
「来てくれてありがとう。勉強も大変なのに」
「気にしないで。それより、久しぶりに柚と会えて嬉しい」
杏月がにっこりと笑った。柚葉はその笑顔を見るだけで、成のためには自分より杏月がいてくれた方が良いはずだと感じてしまう。
どう話を切り出そうか柚葉が考えていると、杏月が先に口を開いた。
「野球部はどう?」
柚葉は慌てて答えた。
「皆すごく頑張ってるよ。杏月がいなくなって、成が必死に練習するようになった。それに引っ張られて他の皆も盛り上がってる。秋よりもすごく良いチームになったよ」
「良かった。柚も頑張ったんだね」
「私は別に……」
杏月の視線が眩しく感じられて、柚葉は目を伏せた。
「私よりも杏月だよ。成は今までのことを後悔してちゃんと練習するようになった。杏月のためにって。成の中で一番大きいのは杏月なんだよ」
眩しい視線が柚葉をじっと見つめた。
「私が退部した理由、話したんだね」
「……ごめん」
「いいよ。話しちゃったことは仕方ないからね。それで、話したいのは成のことでしょ?」
柚葉は頷いた。
「成は頑張ってる。でも、そうやって頑張ってる成を見ると辛そうに見えるんだよ。最初から真面目に練習してれば後悔しなくて済んだだけの話かもしれないけど、それでも成にはもっと楽しそうに野球をやってほしい。楽しいだけで勝てるほど甘くないのはわかってるけどさ」
柚葉の表情をじっと見て話を聞いていた杏月の口角が上がる。
「柚は成のことが大好きだもんね」
「別にそうだから言ってるわけじゃ……」
顔を赤くした柚葉を杏月は楽しげに見つめた。
「それで、柚はどうしたいの? もしかして、成のために私に戻ってきてとか言うつもりだった?」
図星を突かれた柚葉は目を丸くして、それから力なく頷いた。
杏月は微笑みを崩さずにゆっくり口を開いた。
「そっか」
次の言葉までは間があった。一瞬のことかもしれないが、柚葉には随分長く感じられた。
「でもね、柚。私は戻らない」
予想はできていたことだった。それでも、柚葉は杏月が戻らなかった場合の野球部と成を考えると不安になってしまう。
柚葉は伏し目がちになって声を絞り出した。
「親に反対されるから?」
杏月はかぶりを振った。
「それもあるけど、一番の理由じゃない。本当に戻るなら親は無理にでも説得するから。私が野球部をやめたきっかけは親に言われたからだけど、最後には自分でそうするって選んだんだよ」
杏月の瞳は雲一つ無い青空のように透き通り、水平線の彼方を見通すかのように真っすぐだった。
柚葉の声はどんどん弱まっていく。
「だから自分で決めたことは曲げないってこと?」
「そういうこと」
杏月は力強く頷いた。
「もちろん野球部はやめたくなかった。本気で甲子園に行きたかったもん。私は試合に出れないけど、だから皆より必死じゃないってなるのは嫌だったし、やるからには一番を狙おうと思ってできることは全部やったつもり。大変だったけど、楽しくて充実していて、私にとってすごく大切な場所だった」
「じゃあ」
杏月は首を横に振り、柚葉の言葉を遮った。
「でもね、私はそんなに器用じゃなかった。野球部で頑張りながら勉強でもいい成績を続けることができなかった。これから私たちは3年生になって、受験をする。私は野球部を最後まで続けても合格できる自信が無かったの。それに、合格できなかったときに心のどこかで野球部のせいにしそうな自分が嫌だった。私は野球部が――柚や成、皆がいる野球部が好きだから、そんなことしたくなかった」
柚葉は言葉を失った。杏月は想像していたよりずっと自分自身と向き合い、必要な選択肢を考え抜いていた。彼女はそうする強さを持っているのだ。
敵わない。柚葉はそう思った。
「実際にね、野球部をやめてから一気に成績が良くなった。そのためにやめたんだから当たり前だけどね。私は私のために、自分で選んで退部した。野球部に未練が無いと言えば嘘になるけど、それでも私の選択は間違ってなかったと思う。だから戻ってきてと言ってもらえるのはすごく……すごく嬉しいけど、私は戻らない。すごく悩んで決めたことだから、それを否定して自分を嫌いになりたくない」
杏月は笑顔を絶やさなかったが、その表情の中に申し訳なさをにじませた。
「エゴだけどね」
柚葉は首を弱々しく左右に振った。
「本当にごめん。杏月がすごく悩んでやめたのは知ってたのに、簡単に戻ってきてなんて言って……」
「気にしないで。必要としてもらえて、柚が私を頼ってくれて、本当に嬉しかったから。戻るのもいいかなって思っちゃった。でも……」
そう言って杏月は立ち上がり、柚葉の隣にある椅子まで歩いた。杏月はそこに座って柚葉の顔をじっと見つめ、少しばかり意地悪く笑った。
「本当は柚、私に戻ってきてほしいわけじゃないでしょ?」
「そんなわけ……」
「じゃあ私が戻っていって、それで前より楽しそうに野球をする成を見て素直に喜べる?」
「成が楽しいなら……」
「本当に? 私を妬んだり落ち込んだりしない?」
「…………」
柚葉は顔を背けてしまった。
「私はそういう柚を見たくない」
杏月は自らが座る椅子を動かし、さらに柚葉へ近づいた。そして彼女へ抱きつく。
驚く柚葉を気にすることなく、杏月は言った。
「私は柚が成のことを大事だと思うのと同じくらい、柚のことが好き。だから嫌われたくないし、落ち込む柚も見たくない」
「何を言って……」
「本気だよ。私は柚が好き。一生懸命で、誰かのことを一途に想える柚が大好き。野球部をやめるときも柚と離れるのが一番嫌だった。でも、私がいなくなった方が柚にとってもいいかなって思ったんだよね。それなのに、こういう時に私を頼ったらダメでしょ」
「でも、私じゃ何もできない。昔から一緒にいるのに、成のことが全然わからない」
杏月は柚葉の背中に腕を回したまま、柚葉の顔を真っすぐに見据えた。
「成は私がいなくなってから頑張るようになったんだよね」
「う、うん……」
「野球部が盛り上がってるのは外から見てもわかったし、もっと早くからそうしてとは思ったよ。成なんてこの世の終わりみたいな空気を出してたのに」
「そうだね……」
柚葉は苦笑した。
「でも、シロ農に負けてすぐにリベンジだって熱くなったり、逆に敵わないのは仕方ないから今まで通りって割り切ったりできないから成なんだよね。見てて面倒になるくらい考えるからいいピッチングができる。そんな面倒な成の側にいて支えられるのは柚しかいない」
「そう言われても私は成のことがわからなくて……」
杏月はその瞳に子どもの他愛無い悪戯を見る母親のような優しさを宿らせ、柚葉を見つめている。
「それは見ようとしてないからだね。成に振り向いてもらえないのが怖いから、成のことを見れなくなる。そしてやる前から諦める。本当は柚より成のことをわかる人なんて殆どいないのに」
「見てない、かな……」
「見てないよ。ちゃんと見てたら……」
「見てたら?」
杏月は逡巡し、首を横に振った。
「ううん。私も常に正しいことを言えるわけじゃないし。柚がしっかり見るべきだろうね。成のこと」
柚葉は首をかしげたが、杏月は彼女の疑問には答えなかった。
「とにかく、もっと成と柚自身の気持ちに向き合ってあげないとね。大丈夫だよ。本気で好かれて嬉しくないわけがないから。成の背中を誰よりも強く押してあげられるのは柚だし、必ず成も応えてくれる。柚がいるなら成の野球は辛いだけじゃないよ」
杏月が笑った。つられるようにして、柚葉の表情にも笑顔が現れ始める。
「そっか。うん、杏月を信じる」
「そうしてくれると嬉しい。あっ、でも」
杏月は頬をほんのり紅潮させて目を伏せた。
「柚が私に本気で好きと言われて嬉しいかどうかはわからないけど……」
恥じらう杏月の顔を見て柚葉は吹きだした。図書室でなければ大声を上げて笑っていたかもしれない。
「もう。笑わないでよ」
「ごめんごめん」
今度は柚葉の方から杏月に抱きついた。
「すごく嬉しい。私も杏月のこと大好き」
「柚……」
「頑張ってみるよ。成も杏月も前に進んでるもんね。私も諦めないで頑張ってみる」
杏月は柚葉の背中を優しく叩いた。
「応援してる」
「ありがとう」
そして柚葉は、野球部への復帰とは別の頼み事をすることにした。
2月9日。誠報学院野球部は体育館で練習を行っている。休憩時間に柚葉が成の元へ近づいて声をかけた。
「もうすぐバレンタインじゃん」
成はああ、とつぶやいた。
「もうそんな時期か」
「当日になったらチョコあげるね」
成はきょとんとした表情で柚葉を見つめた。
「えっ……そうか、ありがとう」
「反応薄くない?」
柚葉は不満そうに口を尖らせた。
「悪い悪い。まあ柚葉はなんだかんだ毎年くれるからな。なんで今年はわざわざ予告するんだ?」
「別にぃ」
成は訝しむように柚葉を見たが、特に追究はしなかった。そのまま彼の中で話題への興味が薄れていくのを見計らい、柚葉は言った。
「そうそう。杏月も成にチョコを渡すって――」
「マジで?」
柚葉が言い終わるのを待たずに訊いた成の表情には、驚きと喜びの色がはっきりと浮かんでいる。
「……私の時と反応が全く違うんだけど」
「そんなこと無いって」
柚葉は成の言い訳を疑わしそうに聞いている。
「あー、でも杏月は“あげるかも”って言ってたような気がするなあ。もらえないかもしれないよ」
成は笑った。
「当日を楽しみに待つさ。お前がくれる分もな」
柚葉はそっぽを向いた。
そのとき、誰かが成の右肩を軽く叩いた。成が首を右に捻って振り向くと、その勢いで成の頬が叩いた手の人差し指に刺さっていった。
「てめえ……」
成の背後には満足げにニヤニヤと笑う由がいた。
「いつまで休むんだよ。フォームの確認してやるから」
「お前、覚えとけよ。お前のキャッチングの練習もあるんだからな」
「おーこわ」
「アレはお前の捕り方が大事なんだからな」
成が練習へ向かっていく。由はその背中を追う前に柚葉を見た。
「何があったかはわからないけど、電話してきた時よりは吹っ切れたみたいだな」
柚葉は頷いた。
「おかげさまで。由もありがとう」
「キャッチャーはチーム全体を見るのが仕事だからな」
由は柚葉に背を向け、手を振りながら歩いていった。
2月12日。登校してきた柚葉が教室に入ると、成が既に着席していた。
「おはよう、成」
「ああ。おはよう」
柚葉は成の顔をじっと見つめた。
「何かいいことでもあった?」
「え?」
「顔を見ればわかるよ」
成は肩をすくめた。
「マウンドじゃポーカーフェイスと評判なんだけどな」
「幼馴染だからね」
柚葉が胸を張った。
「杏月からチョコ貰ったんでしょ」
「ああ」
「バレンタインが日曜日で、杏月は家が遠くて成に会うのが大変だからね。渡すなら今日かなって思ってた」
「ご名答。本人も同じこと言って渡してくれたよ」
「杏月は約束を守る子だからね」
「約束?」
「何でもないよ」
成は首をかしげたが、そこまで深く気にしなかった。杏月からチョコをもらえただけで十分だった。
「私は当日に渡しに行ってあげる」
「そりゃ楽しみだ」
成は笑った。
2月14日。この日は学校の授業に加えて野球部の練習も休みだった。柚葉はトートバッグを肩にかけ、前もって伝えていた時間通りに成の家の前まで来た。家の中に入れると家族にからかわれると考えた成は外で柚葉を出迎えた。
「悪いな。わざわざ来てもらって」
「気にしないで」
柚葉は成をじっと見つめた。胸中には9年前から続く怖さも渦巻いている。それでも、今までと同様に怯えて立ち止まるより、前に進みたいと思った。
「あ、あのさ、成」
成は何も言わずに柚葉の言葉を待っていた。
「これ」
柚葉はトートバッグから既製品のチョコを取り出して成に渡した。
「ありがと」
「それはね……晴ちゃんの分。そろそろ春休みで帰ってくるんでしょ?」
自分の分かと思った成は面食らっていた。
「あ、ああ」
「ちゃんと渡してあげてよ」
「そうするさ」
柚葉は再び上目遣いに成を見つめた。そしてトートバッグから可愛らしい装飾が施された袋を取り出し、成に向けて差し出した。
「これが成の分。由から聞いたけど、手作りチョコが羨ましいって言ってたんでしょ? だから今年は買ってそのままじゃないやつにしたよ。美味しいかはわからないけど」
成は呆然と柚葉を見つめ、それから差し出された袋を受け取った。
「ありがとう。晴が毎年美味しそうに食べてたから、味は大丈夫だろ」
「昔から成は甘いもの好きだったから甘くしたからね。アスリートの身体に悪いって言うなら別に食べなくていいけどさ」
成の表情が柔らかいものに変化した。
「せっかくもらったから食べるさ。まだ食べてないけど、杏月がくれたのはビターだったから甘いのと苦いのでちょうどいいだろうし」
「杏月は成が甘党なの知らないんだっけ。男子だと甘いのがダメな人もいるから気を遣ったんだね」
「たぶんな」
成が頷いた。現在の17歳の彼に、女子を拒絶していた幼い頃に見せた冷たさは無い。知っていたことだが、それを確信することができて、柚葉は心の中にあった恐怖の大部分が溶けていくのを感じた。
「そう言えば杏月はさ、成に何か言ってた?」
「途中でやめてごめんって。それから応援してる、とも言ってた」
「成は何て言ったの?」
「やめたのは気にしなくていいし、杏月が勉強を頑張るのと同じように俺も頑張る、とかそんな感じかな」
「ちゃんと“杏月のために”頑張るって言った?」
柚葉が意地悪く笑った。
「そこまでは……」
思わず目を逸らした成は、顔が少し赤くなっていた。
「意外とチキンだよね。成」
「いや、チキンとかじゃなく本人に言うことでもないだろ」
「そうかなあ。それに、言ってたらマンガみたいでカッコよかったと思うよ」
成は少しむくれていた。柚葉が楽しげに笑う。
「無理にマンガの主人公みたくなる必要も無いだろうけどね。成は面倒なままでいいんだよ」
「おい、面倒って何だよ」
「ちゃんと側にいてあげてる幼馴染に感謝しなよってこと」
柚葉が2月の寒空を吹き飛ばすような笑顔を見せた。成を理解できず悩んでいた面影はもう無かった。
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